第8章・乱気流
「あ……」
話をしていた辰真と妻の頭上を、ボールが飛び越えて行く。
ボコン、と鈍い音がしてボールは自動販売機の上でバウンドし、再び高く舞い上がった。
「あっあっ、落ちる!」
ボールは見事に公園を突っ切り、反対側の堀に落ちた。
堀は結構深く、大人でも足がつくかつかないかだった。
「すいませーん! ボール、飛んで来ませんでしたか!?」
ユニフォーム姿の小学生たちが数人走ってくる。その後ろには香奈の姿もあった。
「ボールなら、そこの堀に落ちちゃったけど……」
辰真が言うや否や、彼らは堀の縁に走って行った。
「あー! 水に浸かってる!」
「こうたろー、お前が打ったんだから自分で取りに行けよぉ」
「お、俺が……!? 俺、あんまり泳げないんだけど……」
こうたろー、と呼ばれた男子がイヤイヤと手を振る。
「大丈夫だって。ちょっと拾って戻るだけだろーがよー」
「でも……」
「やめた方がいい。……ここは結構深いぞ」
助け船を出したのは、才輝だった。
「そ、そうだよな! 才輝。ここの堀には入ってはいけません、て言われてるし……」
「なんだよー、ビビリ」
一人がけなすように言った。
「なに!?」
「怖いんだろ」
「ち、ちげーよ! わかったよ、行けばいいんだろ!」
「孝太郎……」
止めようとする声も聞かず、孝太郎は堀に飛び込んだ。
「へへ、余裕、余裕。確かに少し深くなってるけど……」
ザブザブと水をかきわけてボールを拾う。
「お〜い! ボール投げるから受け取ってくれー!」
と、叫んでクルッと振り向いた瞬間――
「うわっ!?」
「あ! こうたろー!」
野球の練習によって疲れた体で急に体の向きを変えたのがいけなかったらしく、孝太郎は足をつって水の中に沈んだ。
「孝太郎! 大丈夫か!?」
才輝の緊迫した声で、辰真は急いで堀を覗き込む。
(溺れている!)
「がっう……ぶはっ……あ」
「落ち着け! 慌てるなー!」
水難事故というものは、冷静になればどうにか対処できることが多い。しかし、人間、特に泳ぎが不得意の者にとって、大量の水は恐怖の対象である。
水の中で自由に身動きが出来ない状況は激しいパニックを引き起こす。現在の孝太郎はそうなっていた。
「た、助けにいかないと!」
一人が言って飛び込もうとするが、才輝はそれを止めた。
「溺れているヤツにうかつに近付くと、自分まで巻き込まれるぞ。……なにか、ロープの代わりになるもので引っ張った方が……」
「そんなの、どこにあるんだよー!?」
「それは……」
才輝が返答に困っていると、突然香奈が叫んだ。
「お父さん!?」
いつの間にか辰真は上着を脱ぎ、堀の中に飛び込んでいた。
「お、お父さん……」
「あなた、やめて!カナヅチなのに無理しないで!」
香奈と妻が同時に叫ぶ。しかし、辰真は自分がカナヅチだからこそ飛び込んだのだ。
(水に溺れるのって、とても……とてもつらいことなんだ!スゴク怖くて、一分一秒でも早く助けてほしいんだ!だから、助けなくちゃ……)
水の怖さを知っている辰真だからこそ、誰よりも早く行動を起こすことができた。
「あの人、初穂のお父さん?」
一人が尋ねるが、それは香奈の耳に届かなかった。
「泳げないくせに……戻ってよ! お父さん!」
辰真は娘の声をかすかに聞き取りながら、水に入った。
(落ち着け。元々人間の体は水に浮くようになっているんだから……!)
少しずつ、少しずつ、孝太郎へと近づいて行く。全く泳げなかった辰真にとっては、奇蹟に近いことだった。
「いいぞ! もう少し!」
応援の声が入る。そして、ついに孝太郎のもとへ辿り着いた。
「もう大丈夫だ……う、うわ!?」
「あっ……ぶふぁ、ぁば……」
パニックに陥っていた孝太郎は辰真にしがみつき、そのせいでバランスが崩れた。
「うあ! わ……ガブっ……」
「お父さーん!」
「孝太郎!」
二人はもつれあいながら沈んでいく。想定していた最悪の結果だ。
(や、やっぱりダメだった……僕が都合よくいきなり泳げるようになるなんて……ぅぶっ)
自分自身もパニックになりかけていた辰真は、ふと、水の中であるものを見つけた。
それは、孝太郎の手にしっかりと握りしめられた野球ボールだった。
(こんなに大変な状態なのに、ボールだけは離さないんだ……大事、なんだな。とても)
そのことに気付いたとき、脳裏に犬飼の顔が浮かんだ。
――しっかりしてくださいよ? カナちゃんのこと、大事にしてくださいね。
そんな声が聞こえたような気がした。そして、辰真は水を飲まないようにしっかりと口を閉じて片腕を伸ばし、もがく孝太郎の体をつかまえた。
……それから、なにがどうなったのか辰真自身は覚えていない。気が付いたとき、辰真と孝太郎はコンクリートの足場の上に倒れていた。
「やった! スゴイぞ!」
薄い意識の中で、辰真は大きな歓声を聞いていた……