第5章・快進
大きなミスをやらかしてしまった手前、「それじゃあお先に」とは言いにくい。その日も辰真は残業をするハメになった。
「フウ……どうしよう……写真は今更どうしようもないけど……」
「来週のことを思い出せたからいいじゃないですか」
「あれ、犬飼君。先に帰ったんじゃなかったの?」
「生意気にも『相談に乗ってあげようかな』なんて思いまして」
「ハハハ……ありがとう」
犬飼が差し入れしてくれた缶コーヒーを飲み、もう一度ため息をついた。
「先輩、ため息すると幸せが逃げますよ?」
「ああ、昔からよく言われるね、それ」
「クヨクヨするのは置いといて。カナちゃんの誕生日、なにかプレゼント考えましたか?」
「うん。ウチでは娘の誕生日には必ずどこかに出掛けることにしようって約束してるんだ。……ってこれを最初に言い出したのは僕なのに、なんで忘れるのかなぁ……ハァ」
「ほら、またため息」
「おっと、しまった」
わずかに笑みがこぼれる。
「それで、どこに行くか決めたんですか?」
「いやぁ……まったく」
「混みますよ〜。この時期の祝日は」
「う〜ん……そうだよねぇ。今からじゃ予約も取れないだろうし」
辰真はため息をつこうとして、グッと飲み込んだ。
「よし!」
犬飼が突然大声を出す。
「先輩、私が残業代わりますから、今からでもネットでどこか探してください!」
「ええっ!? 悪いよ、そんな」
「いえ、乗りかかった船は最後まで行かせていただきます。この手書きの原稿を打ち込むだけでいいんですよね?」
「う、うん……」
犬飼はすでに仕事の目になっている。
「さ、早く席かわってください。どいてどいて!」
「は、は、はい!」
自分の席を追い出されて隣の犬飼の席に着き、パソコンの電源を入れた。
旧式のパソコンが低い音をたててゆっくりと起動し始める。忙しいときにはこの間が苛立たしいが、今の辰真には心を落ち着かせる息継ぎになった。
ふと、隣を見ると犬飼は猛烈な勢いでキーボードを叩いている。
(もしもあのパソコンに自我があったら、急にペースが速くなってビックリしてるだろうな……)
などと思っていると、ようやくパソコンが起動した。しばらくの間オフィス内にパソコンを扱う音だけが響く。
やがて、犬飼が大きく伸びをする。
「う〜〜ん……終わりましたぁ……」
「あ、ご苦労様。ありがとう」
「どこかいいところ見つかりましたか?」
「とりあえず、S市の動物園にしようかなぁ……と」
「う〜ん……あそこけっこう古いですケド。まぁ見つかったならいいですね」
「うん。ありがとう」
辰真はぬるくなった缶コーヒーをすする。
「……フフ」
「な、なに?」
小さく笑う犬飼に、辰真が尋ねる。
「いえ、別に」
そう行って犬飼は帰り支度をする。辰真はふと気になって、声をかけた。
「ねぇ、手伝ってもらってこんなことを言うのもなんだけど……」
「はい?」
「犬飼君は……その、ずいぶん親切にしてくれるなぁ、と思って。相談に乗ってもらったりして……」
「……」
犬飼はなにもいわない。沈黙がオフィスを支配した。
(あ、アレ!? 僕、なにかマズイこといったのかな……?)
ドキッとして汗が噴き出す。汗を拭こうとポケットからハンカチを取り出すと、うっかり床にを落としてしまった。
「おっと……」
慌てて屈む辰真よりも早く、犬飼がハンカチを拾う。
「ゴメン。ありがとう。」
しかし、犬飼はハンカチをじっと見つめたまま動かない。
「ハ、ハハハ……それ、何日も洗濯に出し忘れちゃってて、くしゃくしゃになっちゃってるんだよね……」
「そっくり……」
「え?」
犬飼が微笑みながらゆっくりと顔をあげ、辰真にハンカチを渡す。
「そっくりなんです。先輩」
「だ、誰に……?」
「お父さんに。私が幼いころに他界した……」
微笑んでいるつもりの犬飼の目に、うっすらと光るものがあった。