第3章・寒、そして熱風
初穂 香奈 (はつほ かな)
11歳・小学6年
1年生の時からソフトボールに明け暮れる。が、運動神経は父譲りなのが残念。
その日は、朝早くから太陽が照りつける暑い日だった。
「で……結局聞けないままもう5日……」
「ここまで来るともう聞きづらいですねぇ……」
昼に時間が空いた辰真と犬飼は、会社の屋上で話をしている。
「とりあえず、次の祝日に何かをやることだけはわかったんだけど」
「次の祝日ってもうすぐじゃないですか。もしも何か準備する必要のあることだったら……」
「アウトだね……ハァ……」
辰真はすっかり落ち込んでしまっている。家族とロクにコミュニケーションがとれていない自分が、ひどく惨めに思えているようだ。
「そ、そうだ、先輩、もう夏ですね」
犬飼が明るい声で話題を変える。
「私、去年までは毎年友達と海にいってたんですけど、今年はどうかな……ジャーナリストにヒマはないですよね」
「さ、さぁ……そこまで大忙しじゃないよ。この町では」
「先輩は、家族でどこかに行ったりするんですか?カナちゃんをプールに連れて行ったりとか……」
「プール、か。カナが3年生行ってないんだよのとき以来、一度も連れて行ってないな」
「じゃあ、今年はどうですか?」
「それが……」
辰真の頭の中に、苦い記憶が浮かんでくる。
香奈と最後に一緒に市民プールに行った日。辰真は子供の頃からカナヅチで、その日も水着に着替えてはいたが、プールサイドで見守っているだけだった。
香奈はたまたま遊びに来ていた同じクラスの女子と一緒に遊んでいた。いや、正確に言うと、クラスメイトの女子とその父親の3人で遊んでいた。この父親というのが見るからに逞しい、『頼れる男』なのであった。そして、その男は辰真にこう言った。
「初穂さん、一緒に泳ぎませんか?」
無論、その男に悪気はない。プールに来ているのだから、親同士のコミュニケーションとしては当然だろう。
「いえ、僕はカナヅチですから……」
と、辰真は言おうとしたが、娘とその友達の手前、少々カッコつけてみたくなった。
(別に25メートル泳げってわけじゃないんだ。ただ水に入って遊ぶだけなら……)
そう思ってプールに入った途端……
沈んだ。比喩でもなんでもなく、文字通り沈んだ。足をつったのだ。
「がっうばぁっ、あ……がぶっ」
「お父さん!」
「初穂さん!」
その男がすばやく引き上げてくれたおかげで、辰真は助かった。しかし、娘の前であまりにも無様な姿を晒すことになってしまった。
それ以来、初穂家ではプールはタブーになっていた。
「あの人は……井原さん、だったっけな。確か」
独り言のようにブツブツとつぶやいていると、犬飼が声をかける。
「……先輩、せんぱ〜い、聞いてます?」
「あっな、何?」
「どうしたんですか? 顔、真っ青ですよ」
「い、いやちょっと嫌な事思い出しちゃっただけだから」
「もうすぐ昼休み終わっちゃいますよ。今日は午後から取材があったんじゃないですか?」
「ああ。小学生の野球大会だったな。こんな小さなことでも記事にしなきゃやっていけないんだよなぁ……ウチの会社は」
犬飼と別れ、一人で会場に向かう。試合の場所は、広い公園の中にあるグラウンドだ。
(そういえば、カナが好きだって言う男の子も野球クラブだったっけ)
グラウンドには選手の小学生が続々と集まり、練習をしている。辰真はカメラを取り出して練習風景を何枚か撮る。人手削減のため、辰真はカメラマンも兼ねているのだ。
(たしか神代君って言ったな。ああ、あの子だ)
丁度、その少年がノックを受けているところだった。強烈なゴロを華麗にさばいて送球する。
(名前は才輝、か。なかなかハンサムな子だな。野球も上手い)
辰真はその少年を重点的に撮る。
(一枚だけアップの写真を撮っておいて、カナにあげたら喜ぶかな……)
そう思っている間に練習が終わり、選手が整列を始めた。
(さ、仕事しなきゃ)
辰真は一塁側のフェンスの外に陣取り、カメラとメモ帳を構えた。