第1章・低気
初穂 辰真 (はつほ たつま)
32歳・雑誌記者
何事にも一生懸命なのが災いし、すぐにテンパってしまう。酒・タバコは全くダメ。
「あなた……あなた、遅刻するわよ」
「……ん、ん〜む……」
「今日は朝から会議じゃなかったの?」
妻がそういった途端、男はベッドから跳ね起きた。
「そうだった! マズイ!」
「ほら、早く顔洗って、ご飯食べて」
男の名は初穂 辰真32歳。
「まったく……カナはもう学校行ったわよ」
慌ててパジャマを着替える辰真の背中に、妻・恵が声をかける。
「もう? 早いな」
「今日から飼育係の当番なんですって。昨日の夜言ってたじゃない」
「……」
正直に言って、辰真は全く覚えていなかった。昨日は手当ての出ない残業に追われ、クタクタになって帰ってきたのだ。もっとも、昨日に限った話ではないが。
「最近、忙しいからなぁ……」
残念なことに、忙しい=仕事ができる、とは限らない。むしろ辰真は要領が悪く、昨日の残業も自分のミスを修正するためのものだった。
「そうそう、あなた」
「なに……?」
朝食のトーストをコーヒーで流し込みながら返事をする。
「来週のことなんだけど、どうする?」
(……来週……? な、なにかあったっけ?)
「ま、今年もあなたに任せるわよ? あなた、こういうの考えるの好きだから」
(……え、ええと……なんだっけ? なんだったっけ?)
「……あなた? 聞いてる?」
こういう時に、決してやってはいけないことがある。それは……
「あ、ああ。そうだな。任せておけ」
……適当に応えてしまうこと、それも安請け合いしてしまうこと、である。
「それじゃあ、お願いね。あら、電話」
妻が電話に出ている間にどうにか朝食を平らげ、仕事カバンを抱えて玄関に向かう。
「いってきまーす」
玄関のドアを閉めるとき、妻が小さく手を振っているのが見えた。
……で、結局思い出せたのだろうか?
「なんだっけ……わからない……」
結婚して13年目。娘の香奈は小学6年生だ。辰真と娘は特別に仲が悪いわけではないが、もう甘えてばかりもいないお年頃である。多忙もあいまって、二人はここ最近あまり言葉を交わしていない。
辰真が勤めている会社は、週刊のローカル雑誌を扱っている。辰真の仕事は、記事になりそうな事柄を探して文章化すること。いわゆる雑誌記者である。
「おはようございます。初穂先輩」
「やあ、おはよう。犬飼くん」
あいさつをしたのは、去年入ってきたばかりの女子社員・犬飼である。
犬飼は26歳。明るく、ハキハキとした性格で、若手ながらもどこかアネゴ肌なところがある。6歳年上の辰真よりも遥かにしっかりとした頼れる人物である。
「髪、ちょっと崩れてますよ? 寝坊しましたか?」
「ああ、なんとか間に合ってよかったよ」
よく気がつき、厭味なところがない。この会社では貴重な人材である。辰真と同じ記者だが、こちらは隣の区域の担当だ。
「おはようございます」
二人が担当の部署に入った途端……
「はーつーほーっ!」
いきなり怒鳴ったのは、上司の木場である。
「なんだこれは! こんなのを記事にしてどうするんだ!」
バサッと雑誌を床に叩きつける。犬飼がそれを拾って、開かれていたページの見出しを口にする。
「……『5匹の犬が一列に並んで海岸沿いの道路を走る』」
「こんな『ふ〜ん、そうなの。で?』という反応しか返ってこないようなものを記事にするな! もっといいネタを探せ!」
「は、はい……申し訳ありません……」
そもそも、辰真が担当しているこの魅月町は至って平和な町で、雑誌に書くような出来事など滅多に起こらない。そのことは上司の木場もわかってはいる。
「それでも、もう少しマトモなネタがあるだろう。次はキッチリやれよ!」
「ハイ……」
蚊の鳴くような声でそう言うのが、今の辰真には精一杯だった。