ひたり、
夜。寝室で寝る、父が魘されていた。あまりに凄まじい、寝言というには苦悶に満ちたそれ。慌てて起こした。父は跳ね起きた。
冷や汗が額を伝っている。薄い頭髪が未練がましく頭皮にしがみついているが、それすら張り付いて乱れている。顔は紙の色をしていた。上質紙だ。寝間着で目を瞠る自身に、顔を拭った父はいった。いわずにはいられないといった様子だった。
「夢を見たんだ」
首筋をさする父は、浅い息で告げた。
……父はタクシーの運転手を勤めている。この日の夜も、父は客を運んでいた。寂れた商店街、暴力団が縄張りを占めはじめているというそこ。そこでは連れ込み宿も散見されはじめている。昔はそれなりに賑わっていた、駅前の商店街だったのに――父がそんなところで下ろしたのは、1組の男女だった。どういう容姿かは覚えていない。何せ夜遅く、睦言を紡ぎ合う男女に興味も関心もない。妻を亡くして長いが、元々恋愛に淡泊な質だった自身が結婚できた事自体が奇跡だ。目的地に着き、料金を払ってくれる客に礼を述べ合う。それはごくいつも通りのやり取りで、気にとめすらしない。まだ1度も遭った事のない強盗さえなければ、それでよかった。
ただ、この時、引っかかりを覚えた。それは扉を閉めた先。タクシーの前方へと、道路の左側を歩いていく、先程の男女の客だ。
女の方は黄色い、ノースリーブのワンピース、に見える。暗くてよくわからないし、女性のファッションに彼は疎かった。ヒールの高い靴でそれなりにちゃんと歩いている。しかし、男の方はどうだろう。黒い髪に黒いスーツ。有り触れた格好をした男は、よろよろと今にも車道に飛び出しそうだ。車の中が酒臭くもならなかったから、酔っ払っていた覚えもない。しかし、まるでそういった種類のダンスであるかのように、男はふらり、ふらり。ヤジロベエのように定まりなく歩いている。
女は、それを気にとめる様子はない。寧ろ楽しそうにそれを見ているようだった。
まるで、そうなるようにし向けたように。
なぜ自身がその発想に至ったかはわからない。しかし、あまり見ていていいものではない、とも直感が告げていた。彼の直感は、生まれてこの方外れた試しがないのだ。こういった時はさっさと立ち去るに限る――駐めたままだった車を発進させると、あっという間に彼のタクシーは男女を追い越した。
……大した長さの商店街ではない。しかし、末端の方になると、急激に灯りを失っていった。深夜なのだ。彼は交差点で車を一時停止させる。その為に1度、右側を向いた。
左側を見る。女がいた。
息を飲んだ。女は先程よりも、ゆったりと歩いていた。しかし、おかしい。全力疾走でもしなければ、この車に追いつくのは難しい事なのに。彼は車を発進させるのも忘れた。そして白い街灯、その下で歩く女を見た。
長い髪の、黄色いノースリーブのワンピース。高いヒールの靴で、ゆったりと歩く。いっそ優雅な程に。しかし、おかしかった。男はいなかった。
もっとおかしいのは、女が右手に携えているものだ。
あれは、なんだろう。バスケットボールぐらいの大きさに見える。しかし女の手の大きさでは、そのままを片手で鷲掴みにするのは少しばかり難しい。鷲掴みにしているのではない。何か、何かが、手で掴めるものが、生えている。
黒い髪が。
彼は車を発進させた。
……そして家に帰ってきて、床についた。あれは疲れていたから見た幻覚だ。そう言い聞かせて。
「けれど、夢を見たんだ」
目を瞠る自身に、父はいう。それが夢ではなく、今日、正確には昨日、実際にあった事なのだと知ってショックを受けた。しかし父は娘に与えた衝撃にはまだ気付かぬ様子で、言葉を綴る。
……彼はどこかにいた。恐らく、若い頃だろう。友人の家に泊まりに行った時のようだった。勝手知ったる友人の家、友人の母と共に朝食を用意していた。友人の家はとても大きい。屋敷といっていい。使用人もいる。それでも家族の料理を主に用意するのは友人の母の役目だったという。
そこで、「痛み」が出た。
痛みとは、そのまま。死に神のようなものだった。痛みは、廊下に出た自分達や使用人に襲いかかってきた。捕まった使用人は、この世のならざる悲鳴を上げた。痛みとは、つまり、言葉そのまま。通常の知覚では得られないような痛みを与えてくる。終いにはその痛みで心臓が停まってしまう。若い彼は、何とか巧みに逃げようとした。しかし、不意に、夢の中に「それ」が蘇った。
男の首を持つ、女。
その恐怖が蘇った途端、それが夢だと自覚した。これが、荒唐無稽なものだと気付いたのだ。だから、意識を失ってしまう事にした。そうすれば現実で目を覚ます筈――その場で倒れて目を瞑る。目論見通り、意識が遠退くのを感じた。
刹那、首筋に触れるもの。
冷え切った手の温度だった。それは、彼が夢から出るのを妨げるように、ひたり、ひたり。触れてきた。彼は夢の中で青ざめた。気付いたのだ。
触れてきたのは「痛み」ではない。なぜならそこに、痛みがない。ならば、ならば、この、執拗に首に触れてくる、この、なよやかな手は。触れてくる、長い髪は。
気配が笑った。
目を覚ました。跳ね起きる。そこはいつもの布団の上だった。
「……」
彼女もまた、息を切らしていた。時計を見る。昼の12時を回っていた。胸を大きく膨らませながら、彼女は辺りを見渡す。いつもの、散らかった自分の部屋だ。閉め忘れたドレープカーテンの向こう、レースカーテンの向こうには、いつもの住宅街が並んでいた。彼女は首を傾げる。
夢を見ていた。自身はタクシー運転手の父を持つ娘になっていた。しかし、現実の父は公務員だ。確かに母は1年前に亡くした。そろそろ1周忌だ。恋愛に淡泊なところも一緒だが、髪は頭皮から徹底する様子を一切見せていない。それぐらいの差異があった。額を押さえる。
このところ、忙しかった。こんな時間まで眠ってしまう程に。彼女は溜息を吐いて起き上がった。布団を片付けないと。その前にカーテンを開けよう。パジャマ姿のまま立ち上がった。
そして気付く。
今は昼の12時だ。その筈だ。夜でもない。
なのに、なぜ、外は夕暮れ時のように橙色をしているのか。
慌てて部屋を飛び出し、階段を駆け下りる。しかし1階の窓から見ても外は夕暮れだ。それに父も姉もいない。カーテンを開けながら、彼女は愕然とした。
夢だ。夢の筈だ。なのに、これは。
彼女の項が晒されている。長い事ロングヘアだったが、先日、美容院で短く切ったばかりの髪。フードの上に、白い項が晒されていた。
ひたり、
End.