第一話 彼女の秘密
備え付けの本棚に教科書を収めると、他にはもう並べるべき本はない。漫画でも持ってくるべきだったか、と千佐都は思った。被害妄想かもしれないが、だからあんたは馬鹿なのよ、と憐れまれている気がした。
考えすぎだと背を向け、新たな居城となる部屋をぐるり一周見渡す。入口と並んだ壁際に本棚。白く塗り固められた天井と壁。入口のドアと、その真向いの窓は赤煉瓦で縁どられ、床にも円く敷き詰められている。入室して右奥にベッドが上、下には勉強机と二段になって設置されていた。左奥にはクローゼット。
今日からここがわたしの部屋。千佐都は新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。開け放った窓から吹き込む風は、春の匂いを含んでいた。
時は少し遡る。卒業式パーティーのあとだ。
ズィアードを紹介された両親は、よろしくと手を差し出し、特に驚いた様子はなかった。ステーキを心待ちにしていただろう炎呼は、肉もどきに噛みつきながら、これで本当に大丈夫かと千佐都に尋ねた。たぶんねと返すと、「健闘を祈る」。やや投げやりに励まし、帰っていったという次第。
それからの時間は、新生活に向けての準備で費やした。高等部からは寮生活となる。学舎や関連する建物や設備を含め、人間界に所属する夢【無魔】に建てられているからだ。
寮の部屋は学生とその守護霊それぞれに割り当てられており、どんな部屋がいいか、あらかじめ守護霊に対してはアンケートが配られた。ズィアードが感心した風に鉛筆を取り、専用の研究設備と実験室を要求する旨を書き記したのを見て、慌てて紙を取り上げ、無難に、「人型用の部屋」と書き直した。せめて本棚の数はある程度確保しろと迫ってきたので、仕方なく「可能なら本棚は複数おねがいします」と付け足した。
そして約一カ月後、千佐都とズィアードは無事高等部の入学式を終え、千佐都は今ようやく、荷物の整理を終えたところだ。
与えられた学生寮は、学生一人がリビングルームと部屋二つ、さらに浴室とトイレが付いたマンションを借りている感覚で、リビングを挟んだ向こう側にズィアードの部屋があった。浴室とトイレは入口のドアから向かって右と左に位置している。
部屋の整理を済ませ、浴室に洗面用品その他を片付け終わった千佐都は、一息つこうとリビングに戻った。リビングには簡易キッチンもある。飲み物を用意するには十分なスペースだ。コンロに小鍋を置き、ぱちんと指を鳴らす。すると青い炎が生じ、スイッチは「切」を指しながらも燃え続ける。沸騰すると、自然と火は消えた。
「あいかわらず便利ねえ。ところで何か面白いことはないかしら?」
突然かけられた声に、千佐都は特に驚くことはない。食器棚のカップを取り出してから、斜め上に視線を向ける。そこにはドレスワンピースを纏った女性が一人、顎に手を当てたうつ伏せの体勢で浮いていた。桃色の長い髪が風もないのに揺れている。
「カレンさんってば、もしかしてついてきたの?」
カレンと呼ばれた女性は、緑の目を愉しそうに細め、くるりと一回転する。白と灰のニーハイソックスがちらと見え、エナメルの靴が煌めいた。
「千佐都がいなくちゃ面白くないわ。それでなくても私、未練がましいの」
悪戯っぽく笑う彼女が、何らかの未練のためにこの世に留まっている《彷徨ウ魂》だと、千佐都は知っていた。体はほとんど生身の人間と同じ濃さ。強い未練を持つだろう彼女とは、松原家の倉庫にあった壺の中に眠っていた彼女を不注意で割った千佐都が起こしてしまってから、もう数年の付き合いだ。ふとした時に現れ、何か面白いことないかしら、と尋ねるのが彼女の常だった。
「今のところは特にないけど……まあ、期待には応えられそう。面倒事はないほうがいいんだけどなあ」
「無理じゃないかしら? ふふ、ずいぶん気位が高い《有翼人》ね、彼」
不敵な笑みに、千佐都はやんわりほほ笑むだけだ。カレンは何か納得した風に頷いて、またね、と言い残し、空気に溶けるように姿を消した。
「休憩か? 俺にも頼む」
入れ替わるようにズィアードが部屋から出てきた。相変わらずの命令口調だが、このへんの礼儀はちゃんとしているらしい、と千佐都は愛想よく頷き、二人分を用意しはじめる。
「それにしてもなぜ鍋なんだ?」
「やかんがないから。そうだ、あとで買いにいく? どうせ今日と明日は休みだし」
入学式後、授業などを含めた諸々の指示は明後日に、と説明されていた。
「そういえば地図があったな。あまりにも広大で見る気が失せた。買い出しなんてやってられるか」
うんざりとズィアードがそう言ったが、千佐都は適当に流していたのか、
「商店街のほうにね、雑貨屋さんがあるみたい。服とかも全部揃えられるみたいよ。カフェもあったし、ああそうだ、お菓子屋さんもあるって。それからスーパーも」
最後の言葉にズィアードは敏感に反応した。
「ポテトチップスはあるか?」
「あるよ、そりゃあ。スーパーだもん」
「よし、行こう。散策もいいかと考えていたところだ」
薄めのコーヒーを受け取ると、ごくごくと飲み干すズィアード。湯上りの牛乳か、と呆れる千佐都。ちびちびと飲んでいると急かされ、少しも休んだ気分になれなかった。
商店街エリアに続く石畳を隣り合って歩いていると、ふと思い出したようにズィアードが口を開く。千佐都は地図をくるくると回し、難しい顔をしていた。
「あまりにも溶け込んでいるから気が付かなかったんだが、あの炎呼という獣は、おまえの契約獣か?」
「え、あぁ、うん、そうだよ。物心ついたときにね、おじいちゃんが人間界に送ってくれたの。誕生日プレゼントだよーって。あれはびっくりしたなあ。おじいちゃん、生きてたんだもん」
「驚くのはそこか?……いや、いい、おまえの感性については今更だ。だが、まあ祖父が送ってきたというのなら納得した。どうやって契約したのかと疑問だったんだ。俺と出会った夢が初めての渡界先なら、辻褄が合わないからな……それにしても誕生日のプレゼントとは」
「なんかね、ほら、うちペット禁止だから。普通の動物はブルースのこと怖がっちゃって。お母さんは異様に好かれるし」
「死に神なら仕方がない。それにしてもあの母親、まだそんな特異な点があったのか。あとはなんだ、空でも飛べるか? 花の茎につかまって」
「花の茎を使ってるのは見たことないけど、飛べるよ、うちのお母さん。だって風の精霊だもん」
さらりと告げられた衝撃の事実に、ズィアードは「は?」と目を点にした。ようやく地図から視線を上げて、千佐都はきょとんとする。
「あれ、言ってなかったっけ。わたし、精霊と人間のハーフなの」
飛べないけど、風の属性力は使えるんだよ、と得意げに言う千佐都。ズィアードはがっくりと肩を落とす。急に老け込んだ様子の守護霊に、千佐都は不思議そうに問う。
「どうしたの?」
「……まだ秘密はあるのか? あるなら今言え。おまえの秘密は心臓に悪そうだ」
「秘密って、たとえば?」
訊き返されて、ズィアードは言葉に詰まった。
「そうか、おまえが秘密と思っていないと意味がないんだな」
仕方がないからおいおい訊く、と疲れたように付け加える。
そうしてちょうだいな、と千適当に流す千佐都。それからしばらく雑談を交わすうちに、二人は商店街エリアに到着した。