最終話 卒業パーティー
黒い翼をもつ天使―ズィアードは、左肩にある金色の契約印をまじまじと観察したのち、なかなか興味深いな、と呟いた。その表情はまるで、新しい玩具を与えられた子供の笑みに似ていた。しかしすぐに、何かを発見したのか、嬉々とした様子が一変する。
相変わらず有頂天の千佐都はその変化に気が付くと、ひょいと覗き込んで訊いた。
「どうしたの?」
「……おまえのと、少し違う気がしないか?」
「下のが透けたんじゃない?」
ズィアードは目を丸くし、「下の?」と復唱する。
「これの下に、もう一つ印があったのか?」
「わたしと契約する前にね、ちらっと見えたの。大きさは同じで、文字が書いてあった」
ほう、とズィアードは眉を上げる。どうかしたかと訊く千佐都に、なんでもないと首を振る。その表情には一種の喜びがほの暗さを伴い、見え隠れしていた。
「確認なんだけど、守護霊になってもらっていいんだよね?」
おずおずと訊いた千佐都に、ズィアードは少し感心したようだ。
「言葉の裏を読むことができたんだな。まあ、すでに守護霊になってしまったのだから、不本意ではあるが、どうせ今の状況じゃ表だって動けない。付き合ってやる」
「なんか引っかかるんだけど、助かるのは本当だから、ありがと」
「どういたしまして、と言っておこう。だが忘れるな。俺には記憶がない。目立つことは避けたい。それは理解しているな? まあ、いくら人間界に入ることは容易でも、おそらく天使が人間界に行くことはそうないはずだ。大抵は俺と同じで異界、特に下位の異界などどうでもいいんだからな。きっかけさえなければ、人間界にいて追手がかかることはまずない。……ところで、ここを出たらどうするんだ?」
「夢想院に戻って、あ、学校のことね。卒業パーティーがあるかな。終わったら家に帰るよ」
ようやく家に帰れる、と浮き浮きした言葉に、ズィアードはうんざりとした顔で頭を掻いた。
「一応聞くが、そのパーティーとやらには俺も出席するのか?」
「あ、別に格式ばったものじゃないから、気楽にしてくれれば」
「誰がそんなことを心配するか。まあ、面倒くさいことこの上ないが。おまえ、そこで俺を守護霊だと紹介するだろう? なんていうつもりだ? まさか馬鹿正直に、《天使》のズィアードです、とでも?」
事の重要さにようやく気が付いたようで、
「まずい、よね?」
と千佐都は気まずそうにズィアードを見上げる。
「おまえの天界への無知さから推し量るに、上を下への大騒ぎだな」
千佐都は夢想院の中が大騒動にひっくり返るさまを思い浮かべた。片付けが面倒臭そうだな、と青ざめる。
「しかも黒い翼だ。何が起こるか……天界からいくらか派遣されてもおかしくない」
「黒い翼かぁ……あ、そうだ。別の種族だってことにしたらどう?」
「なかなかいい考えだ。たとえば?」
「有翼人とか、どう?」
ズィアードは急に真顔になり、きっぱりと答えた。額には青筋が立っている。
「最悪だな。よりによって有翼人? は、馬鹿馬鹿しい。却下だ」
「な、なんでそんなに嫌うのかは知らないけど、翼のある人型って他にある?」
強気な指摘にズィアードは唇を真一文字に伸ばし、不満そうだ。凝視しながら返答を待つ千佐都を見返す。無言の戦いを制したのは千佐都だった。
「……仕方がない。黒い翼の有翼人でいこう」
この上ない恥辱だ、と言い出しそうな様子を慰めようと、千佐都は口を開いた。
「大丈夫。その翼の立派さは、今時ないくらい発育が良くて、ってことにするから」
にっこりと笑い自己満足に浸る千佐都を見て、ズィアードは本日何度目かのため息をついた。
「……もういい、好きにしろ」
絞り出すように、そう返した。
夢想院の鏡部屋に戻った二人を迎えたのは、担任教師の堅川だった。どうやら千佐都が最後だったらしい。みんな教室でパーティーの準備をしているよ、と告げた。ちらとズィアードを見やってから、千佐都に視線を戻し、にっこりと笑う。
「素敵な有翼人だね。おめでとう、松原さん」
とたん、隣の青年の額に青筋が立ったのは言うまでもない。視線でたしなめ、腰にある剣に手が伸びるのは防げたようだ、と千佐都は安堵した。
教室に戻った千佐都に気が付いたのか、真奈美と遥加が駆け寄ってきた。他の生徒は、堅川の姿をみとめてパーティー開始だと喜びに湧いた。
彼らに冷ややかな視線を向けた遥加は、肩をしゃくりあげるだけで苦いコメントは控えたようだ。その隣には燕尾服に身を包んだ紳士が立っていた。体はうっすらと透け、顔はほとんどぼやけており、口元だけが読み取れる。千佐都の注視に、スッときれいな一礼をした。
「お初にお目にかかります。遥加様のご友人の千佐都様とお見受けいたしました。わたくし、《彷徨ウ魂》のエスクレールと申します。以後よろしくお願い申し上げます」
「よ、よろしくおねがいして、おねがいします」
滑らかで仰々しい挨拶に戸惑った千佐都の返答に、ズィアードは小さく「馬鹿か」と零した。
足を踏んでやろうかと構えた千佐都であったが、真奈美の後ろに隠れるようにして立っている存在に気が付き、怒りなど忘れて、彼女にキラキラとした視線を送る。真奈美は短く嘆息したが、その表情は朗らかだ。
「ほら、あんたも。自己紹介くらいできるでしょ?」
押し出された少年は、おどおどと視線をさまよわせた後、躊躇いがちに口を開く。
アイヴォリーのくせ毛の合間には茶色の動物耳がのぞいている。幾何学模様のポンチョに水色の半ズボン。お尻のあたりからはふさふさの耳と同色の尻尾が飛び出ていた。犬耳少年…!と千佐都の背後に雷が落ちた。
「ぼ、ぼくの名前は、ウルルです。《獣人》です」
飴色の目が潤む。いけない、可愛い、鼻血でそう。千佐都はとっさに鼻を押さえた。真奈美と遥加は互いを見合い、「やっぱりね」と零す。真奈美は居丈高にウルルを下がらせ、今度は千佐都の番だと促した。突然だったので言葉を濁す千佐都に焦れたのか、こそこそと彼女に近づき、耳にささやく。
「やだ、千佐都。すっごいイケメンじゃない。あの涼しげな目元、無駄のない身体。戦士かしら?」
流し目を送られたズィアードは訝しげに眼を細めた。千佐都はぎこちなく首をかしげるが、真奈美は「照れてどうするのよ」と勘違いした。
手筈を忘れたのか、とズィアードが耳打ちする。色めき立つ真奈美。
「失礼した。千佐都のご友人。俺はズィアード。種族は《有翼人》だ。いささか立派すぎる翼だが、気にしないでほしい。遺伝だ」
どこからそんな声が出るんだ、猫かぶりめ、と千佐都はこっそり顔を顰める。《有翼人》への強すぎるアクセントを見逃さなかった。
真奈美はとろけた様な表情で「はい」と従順に頷いている。遥加は完全に白けている。そんなにこの俺様がいいなら、ウルルくんと交換してもらえないかなあ、と千佐都は現実逃避していた。
「……そういえば。確か隣の乾ってやつ、千佐都の幼馴染だったっけ」
物凄い勢いでズィアードに質問を浴びせかける真奈美は放置し、遥加は千佐都にそう訊いた。乾といえば、乾遼平のことかと確認してそうだと頷いた千佐都に、彼女は至極興味なさそうに言う。
「そいつの守護霊はフェレットだって。ちょうかわいぃって、妙な声で女子どもが話してた」
「へ、へぇ」
幼馴染の顔を思い出しながら、なぜフェレット、コメントしづらいな、と複雑な心境だ。微妙な顔でありがとうと返すと、遥加が無表情の上に、ちらりと不敵な笑みを浮かべる。
「千佐都なら分かってくれるって思ってたよ」
それはどういう点で、と千佐都には訊き返せそうになかった。
何の話をしているんだと、真奈美の猛攻を軽くかわしてきたらしいズィアードが尋ねたが、やんわりと誤魔化した。ズィアードは追求せず、かわりに他の生徒がいるほうへと顎を向けた。
「あそこにある大皿に入った料理について訊きたい。薄く、黄色味がかった、たゆたっているところを無理やり固められたようなものだ。わかるか?」
指されたほうにはテーブルクロスに飾られた机があり、その上にはお菓子の皿が並んでいる。該当するものは一つだ。
「ポテトチップスのこと?」
「食べてもいいか?」
「ご、ご自由に?」
許可を得て満足したのか、ズィアードは早足にそちらへ向かい、大皿を抱えて戻ってくる。近くにいた生徒が目を丸くしていた。そりゃそうだ。皿ごと持ってくる奴があるか。千佐都は額に手を当てた。あちゃあ。
「これは、なかなかイケるな。絶妙な塩味だ。硬さもいい。なによりこの音がいい」
塩に塗れた指先をなめ、満足げに感想を述べる守護霊を見て、前途は多難だと千佐都は予感した。
まあしかし、なんとかなるだろう。なんとかするしかあるまい。どういったって、この俺様とは長い付き合いになる。
だが彼の存在が、この先彼女に大きく影響を及ぼすことを、千佐都はまだ知らなかった。