第五話 呪いの契約?
陶然たる面持ちでその場に座り込んでいる千佐都は、しばらく自分だけの世界に浸っていたようだ。徐々に浮上し、ようやく、目の前の青年が自分を睨みつけていることに気が付いた。
物言わぬ彫刻が、一対の冷たい光を放つ瞳により、精悍な顔立ちの青年に変わる。ただその視線は、どう好意的に見ても、千佐都を忌々しげに睨んでいた。
「なんだ、おまえは」
手負いの獣のような強い警戒の態度が窺えた。友達にはなれないだろうな、と千佐都は予感した。こういう場合は譲歩して、自分から名前を言うべきだろうか。とても癪だ。青年は巻き付いた蔦を払いながら、吐き捨てるように、
「まあいい。興味もない。ここはどこか教えろ」
「え、えーと、夢?」
戸惑ったように首をかしげる。
「馬鹿なのか? 誰がそんなことを聞いた。座標を言え」
「座標はわかんない。ここ、異界の門だし」
ぼそぼそと自信なさそうな口調だ。
「異界の門? ……まあいい、天界からどのくらい離れている?」
「て、天界?」
千佐都は混乱の極みだ。青年は信じられないものを見るような顔だ。
「ちょ、ちょっと待って、天界って、あの、天界?」
「他にどの天界がある」
「いや、だって、天界って、天使が住むっていう、あれ? 上級異界だからって入るには天使が一緒じゃないとダメっていう、遥加曰く『ちょう排他的な奴らの巣窟』って、あれ?」
「馬鹿なうえに失礼な女だな。ハルカとはなんだ、虚言もいい加減にしろ」
「礼儀云々はあんたに言われたくないけど……」
「なんだと?」
きつく睨まれ、千佐都は口をつぐんだ。手で「なんでもない」とポーズを送ってみる。青年の顔が怪訝そうに歪んだだけだったので、失敗のようだ。彼はすっかり蔦を落として、その場に胡坐を組み、盛大なため息をついた。
「おまえ、天使じゃないな?」
そうだと信じたい、とその顔には書いてある。
「逆に聞くけど、天使なの?」
「おまえが何か言えば教えてやろう」
「人間だけど」
とたん、青年の片方の眉が器用に上がった。
「人間? ……おいちょっと待て、今物凄く嫌な予感がした。この黒い羽根はお前の仕業ではないんだな」
「あたま、へいき?」
気遣うように訊けば、青年の額に青筋が立つ。今時のキレやすい若者のようだ。千佐都は彼と少し距離を取った。
「おい、なぜ下がる。悪い病気かと思ったか。安心しろ、戻ってこい」
言葉の割には殺気にも似た威圧感は消えていない。おそらく青年も混乱しているのだろう。可哀そうな人かもしれない、と千佐都は同情した。天使だと主張しているが、本物かどうか知る以前に謎が多すぎて判断できない。翼も黒いので、守護霊にはときどき現れるらしい《有翼人》の一種だと思っていた。そこではた、と気が付き、千佐都は突然声を上げた。
「ああああっ! そっか、そうだったんだ!」
突然現れた金色の印。あれはそういうことだったのだ。千佐都の頬は興奮で赤く上気している。
「なんだ、意味が分からない。説明しろ」
「わたしの守護霊だったんだ!」
千佐都は手を叩いてはしゃいでいる。
「守護霊? なんだそれは。おまえの守護をするのか? かわいそうな奴だな」
嘲笑う青年に、千佐都はふと落ち着きを取り戻し、非常に言いにくそうに躊躇いながら、
「あんたのことだけど……?」
青年は一瞬きょとんとして、一気に火がついたように吠えた。
「呪ったのか!」
「の、呪いなんてひどいな。人間は外に出ると、魔気に弱いらしくてね。その、わかる?」
「俺の天才的な頭脳をもってすれば、な。おまえ、説明力も壊滅的だな。つまり守護霊との契約印が、人間の体に何らかの作用を及ぼすんだろう? それが、そうだな、さしずめ人間の身体強化といったところか。人間は魔気への耐性が低いと聞いたことがある」
「そ、そういうことかな?」
千佐都がやんわりと笑い、小首をかしげる。目は泳いでいた。青年は呆れかえっている。
「人間の未来は明るくなさそうだな。……まあいい。つまりその呪いが、俺にかかったと?」
「呪いじゃなくて、契約? ほら、あんたの左肩と、わたしは、見て、ここ」
くしゃりと寄せられただけのシャツを再びはだけさせ、鎖骨の上あたりを見せつけ、指で示す。金色の印を確認させようと勢い込んだとき、青年に強く頭をはたかれた。
何すんのよ、と千佐都は青年を睨みあげる。
「ばかか! 婦女子だったら慎みを持て!」
「ふ、腐女子? え、やだな、ちょっとその気はないこともないけどね、美形と可愛い子のセットは大好物だし、でも、やだな、見た目でわかるの? そういうのって」
「またわけの分からないことを……女の自覚がないとは嘆かわしいな」
青年はこめかみを押さえ、がっくりと項垂れる。どうやらその手の知識はないようだ。勘違いに気が付いた千佐都は、人知れずほっと息をつく。
「とにかく、同じ印でしょ? これってたぶん、契約印だと思うのよ」
「百歩譲って俺がおまえの守護霊だとして、俺にはそのわけのわからん義務を果たすつもりはないぞ」
「や、やだなあ。わたしの話、聞いてた?」
「同情しろと? はっ、無理な話だな。ばかばかしい。おまえ、俺がなんだか分かっているのか?」
「何って、天使だよね? あとは、すごい俺様?」
「おまえ、いちいち癇に障るな。…まあいい。この翼、見てどう思った」
千佐都は大きく広げられた一対の翼を見上げた。抱いた感想をそのまま口にする。
「禍々しくて、怪しくて、うっとりする」
青年はとうとう、その顔色を青ざめさせた。のけぞり、信じられないと言わんばかりだ。
「おまえ、危険思想か? ……黒い翼は古くからの罪の証だ」
告げた青年の口調は重苦しく、ようやく千佐都も事態の重さに気が付いた。斜め上ではあったが。
「人と違うっていうのは、個性っていうのよ?」
「……おまえ、俺が生来この色を持って生まれ、他者と違うことに嘆いていたとか、そういう過去をねつ造したのか? そのポンコツ頭は意外と、想像力豊かだ」
「褒めては、いない?」
当たり前だ、と青年は苦々しく吐き捨てる。千佐都は逡巡し、冗談めいた口調で、
「殺しちゃった?」
「おまえの軽すぎる口調は見逃してやろう。……まあ、何らかの罪を犯したと考えるのがまともな思考だな」
寄せられた眉間のしわが、さらに深いものになる。千佐都が黙っていると、青年は観念したように口を開いた。
「まるで記憶がない。どうしてこの場にいるのか、さっぱりだ」
目が覚めたら罪の証を背負っていた。そんな状況に自分が陥ったら、と千佐都は考えてみた。混乱するに決まっている。状況を知ろうにも、もしも犯罪者だったとしたら。
「他のことは覚えてるの?」
「……おまえの意味するところと俺が理解した結果が符合すれば、答えはイエスだ」
のろのろと答え、青年は立てた膝頭に額を当て、俯いた。千佐都はしばし沈黙し、突然勢い込んで話し出す。
「あ、あのね、わたし、松原千佐都! 15歳! 好きなものはチーズケーキで、好きなことは食べることで、好きなタイプは可愛いの! それと、えっと、何か他に訊きたいことある? 今ならリクエスト、受付中だけど」
尻すぼみの千佐都の言葉に、青年はちらと顔を上げる。冷たい青の瞳が意外そうに揺れていた。
「別に、何もない」
ばっさりと切り捨てるすげない青年に対し、千佐都は口をとがらせ、ひどく残念そうにし、その場に座り込む。膝頭の間に頭を埋めて唸る千佐都を、青年は目を眇め、じっと観察する。ふと口元を緩め、顔を上げた。
「ズィアードだ」
唐突な言葉に、千佐都は反射的に頭を上げた。
「俺の名前はズィアード。記憶によれば、19歳だ。あとのことは、勝手に探れ」
千佐都の顔がじわじわと喜びに花咲き、破顔するのを見て、青年―ズィアードは笑みを浮かべた。