第四話 異界の門
一面鏡張りのその部屋は、集中力を高めるために造られたらしい。どの方向を見てもこわばった顔の自分が映っていて気味が悪い。とっとと集中してここを出ていく分には、確かに有効な部屋だと千佐都は嘆息した。次の生徒も待っていることだし、長居はできない。
意識を集中させる。普通、界や夢に渡るには、目的の座標があればそれを思い浮かべ、なければどういう場所に行きたいかを考えるのが基本だ。それくらいは千佐都も知っている。今回の場合は、最初だから異界の門に行くことは決まっているが、守護霊に会うという明確な目的があるから、彼女はじっと、理想の守護霊像を脳裏に呼び起こし、(突飛なのはよして!)と半ば懇願するような気持ちを込めた。精神を押さえつけ、心臓の音に耳を傾ける。
『異界よ われをみちびきたまえ』
静かに詠唱する。最後の文字が声になったとき、千佐都の身体は鏡部屋から忽然と消えた。
初めに感じたのはひどい痛みだった。地面に落下し、強く尻を打ち付けたらしい。はじめから躓き、幸先不安だ。這うような格好で痛みを沈めた後、眦に浮かんだ涙を拭い、ようやく立ち上がる。
どうやら無事に夢についたらしく、一面の荒野が眼前に広がっていた。辺りを窺ってみたが、魔の姿は見えない。たとえいたとしても、これだけ開けていたら、巨大な上級の魔が見えないはずがない。小さいのは千佐都にとってあまり脅威ではなかった。
「しっかしまあ、なんにもないなぁ」
掌で日よけを作ってもう一度周囲を確認した。穏やかな太陽光と、緩やかな風、大地には感心するほど岩しかない。岩が守護霊ではあるまい。そう思いたい。未来の守護霊が向こう側から歩いてくることを期待して、とりあえず捜索を開始した。
しばらく歩いてみたが、同じ景色が続くばかりで何もない。暇つぶしに始めた「岩批評」も飽きてしまった。少しでも、「鋭角に切り込んだ割れ目が良い」だなんてコメントをした自分が馬鹿らしく思えた。ちょっとこのあたりで冷静になるべきか。
「それは良い考えだ」
と呟いて、すわり心地のよさそうな岩に腰掛ける。するとじわじわと沈み込み始めた。ものすごく嫌な予感に額に汗がにじんだ。
こういう予感は、割と当たるのだ。他人事のようにそう思った瞬間、岩が一気にがくんと落ちる。千佐都は体勢を整える余裕もなく、新タイプのクロールのようにばたばたと腕を回し、ぽっかりと開いた地面の中へ一直線、岩とともに落ちていった。
くるくる回って着地、十点満点。とはいかなかったが、今度はうまく着地した。周囲には岩とその破片が転がっている。上と違うのは、地面にしっかりと雑草が根付いていることだ。地下に落ちたはずなのに明るいそこは、木々が生い茂る森だった。奇妙に思って見上げると、落ちてきたはずなのに、穴もなければ天井もない。清々しい青空を見て怖気が走ったのは初めてのことだった。澄み渡る蒼穹に向かって、一本の巨木が群を抜いてまっすぐに伸びている。木に擬態した高層ビルのようだ。その巨大さは一目で虜にするほどの異彩を放っており、怖いもの見たさの好奇心を刺激した。同時に、あれは特別だと確信めいた思いが生まれる。
(行ってみよう)
木々の間を走り抜ける。心地よい風が頬を撫でた。《風》もまた《火》のように、千佐都には親しみがあった。どこまでも自由な案内人だ。
彼らが駆けていくほうへ続くと、巨木の根元に近づいていく。聳え立つ巨躯が、深緑の苔の端切れを身にまとった巨大な生き物のように映った。地面へ向かって四方に伸びる根は、そばにある木々の何倍もの太さだ。地面との落差も激しい。目を眇めて見上げれば、緑色の傘の間から光が漏れ、その枝葉が風に揺れるたび、地面にできた巨大な影もゆったりと連動した。
儀式のことなど忘れ、緩く口を開けたまま、千佐都は巨木を陶酔したように見上げる。何かに突き動かされるように歩きはじめ、岩のように固くなった木の皮に手をかけ、太い根を上っていく。幹に抱きつき耳をあてると、中で脈打つ音が聞こえた。
「……すごい」
生きている。
驚きよりも先に、圧倒的な力を感じて身が震えた。この場所はなんなのだろう。
耳を離して見回すと、ふと、谷間のような根の間に白いものが見えた。慎重に降りるべく体をかがめたが、コケに足を取られてバランスを崩し、叫ぶまもなく落下した。ぼすん、と鈍い音。そして体の下に予想外の柔らかさ。身を起こした千佐都はその正体を知り、今度こそ短い悲鳴を上げた。
「っ!」
落ちたのは人の脚の上。大量の蔦に四肢や体を巻きつかれた青年のものだった。彼は根の間に背を預け、座っている格好だ。慌てて離れた千佐都は、微妙な距離を保ちながら、恐る恐る様子を窺う。
(死体、とか……?)
褐色の滑らかな肌、短い黒髪。白シャツに黒いズボンの上に白衣を羽織っていて、皮のブーツを履いている。腰には鞘に収まった一振りの剣。瞳はしっかりと閉じられていたが、彫像のような端正な顔立ちをしているのがわかる。背は高く、均整がとれた体つき。顔色は悪くない。眠っているようにも見える。
観察に夢中になっていたのか、千佐都は無意識に青年に近づいていた。無意識に手が頬に触れようとしていた。恐ろしい手だ、と自分を叱咤したが、生きているか確かめるのはこの場合必要なことだろう、おそらく。死体だったら冷たいのだろうと想像しただけで顔が引きつる。やっぱりやめておこうか、いやでも……と、千佐都の手は伸びたり引っ込んだりを繰り返す。
(って、いい加減にしろ千佐都!)
女は度胸だ。いくしかない。
(脈ってどこで測るんだっけ)
混乱したまま頬に触れた。ほんのりと温かく感じ、相当気が引けていたのか小さくまた悲鳴が上がる。
(死体じゃない、死体じゃない……あったかいんだから)
そう、必死に言い聞かせる。腕を取って脈を診るが、よくわからず首をかしげる。それならば心臓だ、と白衣をどけようとして、これって変態みたいじゃないか、と我に返る。
(首もいけるんだっけ?)
気を取り直して白衣を戻し、首に手をやろうとして、ふと左肩に視線が落ちる。そこだけ血がにじんでいた。服をめくってみると、肩にひどい傷があった。噛み痕のようにも見える。
自然と眉間を寄せていると、青年に絡まっていた蔦の一部が緩んで解け、千佐都の目前で怪しげに揺れ始めた。蔦の先が割れ、中からどろりと濃緑の液体がしたたり落ちる。
(これって、お母さんが良く作ってる薬に似てる)
母は父のため、よく薬を作っていた。調合方法は見当もつかないが、独特のにおいは覚えていた。知識が少しでもあれば、怪しげな液体に手を出すことなどなかっただろう。千佐都は迷うことなく液体を掬い取ると、青年の肩に躊躇いもせず塗りつけた。見る見るうちに傷が癒え、感嘆を漏らす。
「うわ、すごい効き目。今の見た?」
蔦に話しかけると、蔦は頷くように揺れた。
傷はもう見る影もない。確かめるように指で触れた。とたん、指先に火傷したような痛みを感じ、反射的に手をひっこめる。何の痕もない。怪訝に思って青年の肩に視線を戻すと、それまでにはなかった金色の刺青のようなものが浮かんでいた。10センチ弱の円に、文字のようなものが刻まれている。
「なに、これ」
呆然として呟く彼女の眼前で、金色の円は脈打つように上下していた。飛び出す映像のように、浮いて見える。怖々と確かめるように触れた瞬間、鎖骨のあたりに焼け付くような痛みが走った。暑さに喘ぐように、ブレザー下のシャツのボタンを取り、大きくはだけた。
「っ……!」
青ざめた彼女が見たのは、その鎖骨の下あたりに、見えない誰かが針で印を描いているかのように、ゆっくりと現れ始めた金色の印。痛みはない。
青年のほうはといえば、同じような印が、すでにあった円の上に覆いかぶさるようにして出来上がっていく。成す術もなく円の出来上がりを迎えた彼女は、青年の瞼が震えてすぐ、ぱちりと青い目が開かれるのを見た。
刹那、その背から何か黒いものが飛び出す。ひらひらと花弁のように舞い落ち、禍々しくも蠱惑的な空間を造る。
青年の背に現れたもの。
それは艶やかで、ぞっとするような美しさを孕んだ、一対の黒い翼だった。