第三話 儀式
主である千佐都の知識が乏しいこともあり、契約獣である炎呼もまた、儀式や守護霊についてよく知らなかった。そのかわり、千佐都の理想の守護霊像はうんざりするくらい聞かされていた。せいぜい俺の縄張りを侵さない者がくることを祈っている、と興味なさげだ。炎呼の縄張りなど想像もつかない千佐都は、頑張ってみる、と微妙な返答をするしかなかった。
《それにしても、父上殿の言葉、気になるな。何が起こるか分からないとは……何か起こるのか?》
だんだんと思考タイプが似てきた気がするなあと余計なことを考えつつ、千佐都は頷く。炎呼は鼻面を布団に押し付け、考え込むように唸り始めた。
二人は今、千佐都の部屋にいた。パジャマに着替えてベッドに寝転がり、寝る準備は万端。炎呼は千佐都を壁際に押しやって、ちゃっかり残りのスペースを占領していた。
「あーあ、炎呼が一緒に行けたらなあ。こんなにびくびくしないですんだのに」
《こっそりついていくか》
炎呼の大きな体を上から下へと眺めた後、千佐都は乾いた笑みを浮かべる。
「気持ちだけ受け取っとく。バレたらたいへんだしね」
《それもそうか。……まあ、大丈夫だ》
「お父さんと同じこと言うのね。根拠もないのに」
《確かになんとなくそう思ったことは否定しない。だが、意外とあっさり終わるかもしれないぞ》
「だといいなあ」
どこか不安をぬぐえない千佐都に、今日はこちらに留まろうと炎呼は告げた。柔らかい体毛に顔を埋めると、少し心が落ち着いたのか、眉間のしわが薄くなる。やがてゆっくりと眠りが訪れたとき、穏やかな表情に戻った。
《松原家の人間だ。なんとかなるに決まっている》
静かにベッドを下りて、炎呼は壁にある電気のスイッチを消した。主の寝顔を一舐めし、そのまま床に横になる。窓から差し込む月明かりが、膨らんだ布団の上を淡く照らし出していた。
卒業式の朝はすぐにやってきた。昨夜のしんみりした様子は一欠けらも窺えない。ドタバタと部屋中を駆け回り、紫苑の制服を着こんだ千佐都が半狂乱で駆け回っている。
「院章がない! なんで! 一番上の引き出しにあったはずなのに!」
《俺は確かに見たぞ、1年ほど前に》
「そのあと何度か行事があったから!」
《それ以後は管轄外だ》
炎呼は呆れたように頭を振り、鼻先を冷たい床に押し付ける。お手上げの合図だ。
「あきらめないで! 探して!」
考えている風の炎呼に、ステーキでどうだと懇願する千佐都。しばらく静かに思考を巡らしたのち、
《……たしか、内ポケットに入れていなかったか?》
おそらく、と床を神経質に引っかきながら、炎呼は確かめるよう促す。千佐都はすぐに胸元を探った。硬い何かに触れ、瞬時に顔色が明るく輝く。銀色に輝く夢想院の印章を高々と掲げた。
「あった! すごい炎呼さいこう! だいすきだあいしてる!」
《言葉はいらない。現物支給を望む》
「時間がないから帰ったら用意する! それまで待ってて!」
《必ず帰ってこい》
「まかせて!」
力強く頷き、ドアを開けて出ていった。
炎呼は眩しいものを見るように目を細めた。どたどたと階段を下りていく音がして、朝食はどうするのかと尋ねる母の声がして、「食パンかじっていく!」と千佐都の返答。のんびりと寝ぼけたような父の「いってらっしゃあい」と送り出す声が聞こえ、バタンバタンと戸が閉まる音がして、遠くで「行ってきます!」と怒鳴るような声が響いた。
《…………案外なんとかなりそうだな》
朝からなんだか疲れた、いったん帰るか。そう思いつつも、ベッドに寝そべり、動けない炎呼がいた。
千佐都が予想していた以上に卒業式は感動に欠けるものだった。保護者の参加はなく、生徒と教師陣が存在感の薄い校長の祝辞を聞く、という儀式の前座に過ぎないので、それも当然だった。諸々の都合により、卒業証書は儀式の後だ。守護霊を伴った者に渡したほうが感動的だから、と説明されていた。教室に戻る生徒たちの群れに続きながら、再来年辺りは式自体がなくなっているかもなあと千佐都は思った。
教卓の後ろには担任教師の堅川が立ち、生徒たちは自分の席に座る。普段の朝礼と違うのは、ブレザーの胸元にある一輪の祝いの花と、生徒たちの興奮しきった様子だけだろう。
「さあ、ようやくお待ちかねの儀式の時間が来ました。今から説明をしますね。まず、家族の人から契約獣の類は借りていませんね? 隠し持っていた場合ははじかれてしまうので、出しておくように」
すると、数人の生徒がしぶしぶポケットから何かを取り出した。ピーピー高い声で鳴きはじめる。伝書鳩ならぬ、異界鳩の類かなと千佐都は思った。貸し借り可能なことも含め、それくらいしかポケットに入らないだろう。炎呼はとても入りそうにない。第一、生徒の契約獣なんてものは、普通あり得ないのだ。
「では次に行きますね。鳩はそのまま掴んでおいて。あとで預かります。まあ鳩なら問題ないでしょう。僕は表向き、何も見なかったことにします。鳩は毎年出るんです」
堅川先生も、どうやら少し普段と様子が違っていた。口調にとげが感じられた。ストレスたまってそうだもんなあ、と千佐都は同情したが、いやいや真剣だからだよ、と思い直す。異界鳩の鳴き声がうるさい。
「儀式はつまり、君たちが初めて《渡界の力》を使い、初めて夢に渡ることを意味します。もう何度も説明しましたが、夢についてはちゃんと理解していますね」
生徒たちは一斉に頷く。
【夢】は界のなりそこないだ、と千佐都は認識していた。そこでは界には生まれない【魔】という害悪が発生する。より強大な魔は下位の魔を食べ、強大化する。その魔が放つ【魔気】によって、界に自然災害を引き起こしたり疫病をはやらせたりと、様々な影響が出る。それを食い止めるのが夢見の主な仕事だ。生徒たちはみな、異界を認識し、界を渡る力を持った夢見の卵である。
「その夢の中でも特殊なのが、【異界の門】です。これは今日初めて説明しますね。異界の門は、君たちのような、初めて《渡界の力》を使う人のみが渡ることができます。異界の門にたどり着けるのはたった一度だけ。どういう仕組みがあってその夢に飛ぶのかはまだ分かっていません。ですから【魔窟】のように魔がいる夢もあれば、【無魔】のように安全な夢もあり、千差万別です。過去の記録から言えば、魔が現れることはほとんどないと言っていいでしょう。心配いりません。そこで、君たちは自分だけの守護霊を得ることができます」
異界担当の教師よりうまい説明だと千佐都は思った。そういえばあの人は臨時で訪れた教授だったかなあと、ぼんやりと思いだす。今では顔もおぼろげだ。
「あとは呪文を教えたらおしまいです。『異界よ われをみちびきたまえ』。これが呪文です。覚えましたね。集中して唱えてください。未来の守護霊に会いたいと念じてもいいでしょう」
生徒の何人かは、教えられた呪文をぶつぶつと唱え、練習していた。斜め前を見やると、遥加が冷たい視線を彼らに向けていた。それくらい覚えられないって何、と苦々しい顔に書いてある。真奈美を見れば、うっとりと堅川を見つめていた。
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