第十話 怪しい男
「……あたし、お姉さんなのに、泣いちゃって、恥ずかしい……う、埋まりたい」
ようやく泣き止んだ氷燐の不穏な発言に、千佐都は慌てて止めに入った。
「や、やだ、埋まらないで! 可愛い顔が拝めなく……こ、今度はわたしが泣いちゃうからね!」
なぜか自慢げにそう宣言した千佐都に、氷燐は愕然とした表情だ。
「な、泣いちゃうの!?」予想外の反応に、今度は千佐都が驚いた。
「な、泣かないよ。泣かない。ほ、ほら氷燐、とにかく立ち上がって。服よごれちゃうよ」
ようやく氷燐を立ち上がらせることができ、千佐都はホッと安堵のため息をつく。
氷燐が落ち着いたところで双方の気持ちを打ち明けあい、千佐都が【雪原の狼】の手伝いをすることに決まった。とはいっても、二人の間での決定事項だ。リーダーである翔に打ち明ける、という最後の難関が待ち受けている。決意表明は、氷燐相手のようには上手くいかないだろう。悪くすれば氷の領域に入ったばかりだというのに、強制退場させられてしまうかもしれない。そう考えた千佐都は、先に零に会って、ズィアードからもらった濃縮液を渡しておこうと決めた。追い出されてもしつこく門扉を叩くつもりだが、先に渡しておけば、研究がその間も進むと考えたからだった。
しかし、先に零に会いたいとだけ告げると、氷燐はとたん表情を暗くした。先に【雪原の狼】のほうに挨拶しておくべきなのだろう。リーダーの人に先に会いに行くと言い直せば、ホッとしたようだった。
「二度目まして、氷の領域へようこそ……と言いたいところなんだけど、ごめん千佐都。降りる場所間違えちゃった」
語尾に悪戯っぽい響きを加えて、氷燐はきまり悪そうに白状した。打ち明けられた千佐都は、あたりをぐるり一周見渡して、「そうみたいだね」と苦笑いする。二人が立っているのは、中央【グレイパゴダ】には似ても似つかない、針葉樹林の森の中だった。この場所も、【駅】の一つではあるのだろう。
「それでええと……ここは?」
足場を整えるために、10センチほど積もった雪を踏みならしつつ、千佐都は尋ねる。しきりにあちらこちらと視線をさまよわせていた氷燐は、ハッと我に返って、
「あ、えぇと、ごめん、中央と西の間かな」
と誤魔化すように笑う。どこか申し訳なさそうに見つめられては、責める気になど起るはずもない。千佐都は明るい笑みを浮かべ、根拠もないのに「大丈夫だよ」と慰めた。
「ご、ごめんね、千佐都。ホントにごめん」
「やだなあ、謝らないでよ。誰だって間違えの一つや二つ。わたしなんてしょっちゅう馬鹿やって怒られて……ああ、嫌なこと思い出した。とにかく、中央に行こう」
「う、うん。……こっち」
しょんぼりとしながらも氷燐は進むべき方向を指した。風もそちらを示している。生憎どのくらい進めば到着するのかは教えてくれなかったけれども。スニーカーに水がしみこむ前に着きますように、と千佐都は願った。指示された方向に足取り軽く歩いていく。氷燐も慣れた様子で隣を歩いた。木々の間には淡い色調の花々がひっそりと咲いている。無垢なる女王もあった。辺鄙な場所なのか、人気はない。動物たちの姿も見えない。――静かすぎる、と千佐都は直感した。人間界の常識しか持ち合わせてはいないが、この静寂は作られたものだと本能が察知したらしい。ぴたりと歩みを止め、氷燐にも制止をかけた。どうしたのかと開きかけた口を、視線で黙らせる。怪訝そうにしつつも、何か嫌な予感を覚えたのか、年上の美少女は頼りなさそうに千佐都のそばに寄った。
「氷燐。武器は持ってる?」
囁くように問いかけるその視線は、前方を見据えていた。氷燐の顔に動揺の色が浮かぶ。「武器?」と言いにくそうに呟いて、逡巡ののち、否定を口にした。この先に何かがいるのか、と心配そうに訊かれて、千佐都はしっかりと頷いた。
「千佐都、戻ったほうがいいんじゃ……?」
「戻っても同じだよ。たぶん追ってくる。――ちょっとここで待っててくれる?」
「どうするの?」
「―――、ちょっと偵察?」
一戦交えてくると言えば、十中八九止められる気がして、千佐都は疑問調にそう答えた。それでも納得がいかない様子の氷燐は、千佐都のコートの袖を掴もうとするが、ひらりとかわされる。声をあげようとしたときにはもう、千佐都は先へと走っていた。追いすがろうとするが、千佐都の手に瞬時に炎の剣が現れたのを目撃して、驚きに瞬きを繰り返しているうちに最後のチャンスは失われた。
「や、やだ、ちょっと千佐都?!」
氷燐がそう我に返ったときにはもう、千佐都はずっと先の方を走っていた。途中までは氷燐が何か叫んでいるのが聞こえていたが、今はもう静寂が辺りを支配している。速度を緩めて周囲を見回し、ようやく後ろを一瞥して嘆息した。その直後、微かにくぐもった音が聞こえ、すぐにそちらへと炎の球を放つ。やや弧を描いて木々の間に姿を消した瞬間、「うおっ」と野太い悲鳴が響いた。どうやら被弾したわけではなさそうだ。
「あらあら、その剣ははったりかなあ?」
ふいに後方から声がして怪訝そうに振り返ると、全身黒ずくめの怪しい人物が立っていた。声から判断するに男だ。頭には深くフードを被り、ゴーグルを着用し、口元も布で覆われているのでまったく表情が読めない。無手ではなく、銀の鉤爪を装備していた。属性術の類ではない。金属でできた得物だろう。
「だめだよ、剣があるなら剣を使わなきゃ。面白くないじゃない」
怪しい男は大げさにため息をついてから、一歩、また一歩と千佐都との間合いを詰めていく。あまりの得体の知れなさに、千佐都は自然と剣を握る力を強めていた。思わず喉が鳴る。この男、ふざけた態度に関わらず、隙がないのだ。気配を消すのも上手い。別に気を取られていたとはいえ、声を掛けられるまで気づかなかったのだから。
「……あんた、だれ?」絞り出すように訊いた。
「なんともロマンチックな質問だね。おれのこと知りたいの? 困ったなあ、未成年はアウトかも」
「は?」
「ああごめんごめん。こっちのはなし。こう見えてお兄さんね、成人してるから。炎を操る女の子とか、かなりドキドキしちゃうけど、未成年はちょっとね。お相手するにはまだかなあって。あっ、違うよ。一戦交えるっていうのはそういう意味じゃなくてね、剣ね、剣。おれの場合は鉤爪だけど」
芝居がかった調子で、一人話し出す男。関わってはいけないタイプの人間だ、と千佐都は決めつけた。
「狙いはなに?」
「氷燐ちゃん、って言ったらどうするの?」
「させない」男を睨みつけるも、剣は構えずにおいた。
「勇ましいなあ。じつはもう仲間が捕まえたって言ったら?」
「それはない」
「あらら、なんでそう思うの?」
おどけた様子の男に、千佐都は奇妙なものでも見るような顔だ。
「……誰の気配も動いていないし、狙いはわたしでしょ……殺気はないけど」
嫌そうにそう返せば、男は感嘆の声を漏らした。口布が妙な動きをし、千佐都にはにんまりと笑ったのだと予想がついた。ほとんど反射的に剣を振り上げると、顔の前に掲げ――、ガキィイインと硬質化した剣と鉤爪が打ち合う。とっさに体が動いたからいいものを、あまりにも突然の攻撃に心音が乱れていた。
「な、なんなの突然!」
「ん? ああ、やること思い出したんだよ」
「なんなの、やることって!」
大声で尋ねるも、男は答えず攻勢をかけてきた。深く踏み込まれると危険だ。二刀流と戦うのとも違う。両手で剣を握りしめ戦うには不利な状況だと判断して、一先ず後方へ跳躍すると、長剣を二本の小刀に分裂させる。ヒューと、男が軽快な口笛を鳴らした。
「いいねえ、楽しいかも」
浮き浮きと言われて、千佐都の全身に怖気が走った。敵意でもなく、今男が自分に向ける感情はなんなのか。純粋なる闘志など誰が言うか。この人気持ち悪い! 口角をひきつらせるも、相次ぐ攻撃にこちらも手を緩めない。キン、キン、キンと互いの得物が交わるたびに高い金属音が鳴り響いた。辺りの木肌は見る見るうちに傷だらけになり、枝葉が落とされ、地面の雪は踏みにじられて土と交じり合い、汚らしい色合いに変わっていく。両者接近しては、どちらかが間合いを取って跳躍し、相手が追い、剣戟が続いた後また同じ繰り返しが続く。男は最初から楽しそうな雰囲気だったが、それに感化されたのか、もともとその気があったのか、千佐都の表情も愉しげな色合いを濃くしていく。酷く冷静だが、互いのやり取りに興奮し、のめりこんでいるようだった。
しばらくして木が倒れはじめると、隠れているらしい気配に明らかな動揺が感じられた。「うそだろ」「まじかよ」「怖い」「鬼だ」と囁く声も出だした。雑音を鬱陶しく思ったのか、男が後方に跳躍し、千佐都とは反対方向の木に鉤爪を一閃する。ズズンと轟音を立てて木が倒れると同時に、奇妙な悲鳴が上がった。
「―――あんたら、煩いし」
怪しい男が冷たく言い放つ。物陰から躍り出た地味な顔立ちの男が、地面に尻もちをつき、コクコクと頷いていた。まわりに――近くに隠れていたのだろう――ぞろぞろと姿を現した仲間らが集まってくる。一触即発、というより、地味な男が切り殺されそうな雰囲気を宥めたのは、また別の男の大仰なため息だった。
「おいおい瀬木、その辺にしとけよ。十分楽しんだだろ?」
面倒くさそうに頭を掻いた男を見て、千佐都は目を見張った。――翔だ。なぜここに、と疑念が浮かぶも、すぐに納得できた。気配が妙だったのはそのせいか。おそらく周りの男たちは【雪原の狼】のメンバーなのだろう。じわじわと怒りが湧いてくる。
「まだまだ足りないよ?」
「足りとけ」
瀬木と呼ばれた怪しい男は、まだ何かぶつぶつ言っていたが、翔は相手にせず、千佐都の方へとまっすぐ歩いてきた。軽く右手を挙げ、
「よう、お嬢ちゃん。また会ったな」愉しげに唇を歪ませるが、その目は笑っていない。対する千佐都も、似たり寄ったりな表情だった。
「どうも。リーダーさん」
「まったく、お嬢ちゃんには驚かされっぱなしだな。瀬木に負けてないなんて」
「わたしたち、遊んでただけですから」
そう笑顔で言い切ると、瀬木が噴き出すように笑った。翔は呆れた様な表情を浮かべたが、構わず話を続ける。
「ところで氷燐は?」
「すでに確保してるんでしょ? 殺気のない彼らの誰かが」
メンバーと思しき男たちを一瞥すれば、彼らは体を竦ませ明後日の方を向いた。
「まあな。というより、危険なんか最初からなかったが。――氷燐にとっては」
「あなたの話なんてどうでもいいですけど、あとで氷燐に謝ってくださいね」
「あ? ――なんだお嬢ちゃん、氷燐がここに連れてきたってこと、分かってねぇのか?」
翔は意外そうに言った。やはり、と千佐都の脳裏によぎる。そもそも侵入地点はそう簡単に間違えないし、しきりに謝ったり、きょろきょろしていたのもそういうことだったのだ。
「だからなんです? ――指示したのはあんたでしょ。わたしをここに飛ばせって言った。たぶん、そうすれば森に行っていいとか、わたしに会っていいとか、そういう条件で。もちろん氷燐は、こんな闇討ちみたいなことは想像していなかった。街じゃまずいから森で顔合わせしよう、みたいな? ついてみれば誰もいないし、わたしは誰かの気配がするっていうし、」
続きを言いかけて、ふと思いとどまる。
「わたしも謝る。……わたし、ここまで突っ走ってきて、きっと心配かけた。だから、あとでそれは謝ろうと思う」
翔は話が途切れたことで、短くため息をつき、怪訝そうに言った。
「それで、どうして俺が謝らなきゃいけねぇんだ?」
「氷燐を心配させる状況を作ったことと、だますような真似をさせたこと。しょんぼりさせたこと。謝らせたこと。不安にさせたこと。――わたしを狙うなら、氷燐は別に勝手にやればよかった。闇討ちでもなんでも、暗殺でも勝手に、氷燐の知らないところでやって。気に入らないのは勝手だけど、氷燐を巻き込むなら許さない。でももう巻き込んだし、心配させた。可愛い笑顔を奪った。だから、あんたが氷燐を大事に思うなら、謝って」
言い切って笑顔を消し去り睨みつけると、翔は唖然として口がきけない様子だった。再び瀬木が噴き出し、腹を抱えて笑い続け、
「男前だねえ! だました氷燐ちゃんには怒ってないんだ?」
「わたし、別にだまされてないよ。むしろ中央まで氷燐とランデブーできるんだから、何も問題なし」
けろりとして返すと、それまで黙り込んでいた翔が口を開く。
「そもそもお嬢ちゃんが来なければ、氷燐はこんな目にあわずにすんだ。そういう風には考えられねぇか?」
「確かにそうかも。でも、氷燐に会ったから、わたしは氷燐を知りたいと思ったし、友達になりたいと思った。今は後ろは向かない。ただ、氷燐が辛いなら助けたい。氷燐はもうわたしの現実だから。危険を察知したら何度だって助ける。わたしが全力で守る。誰に何と言われようと、邪魔させない」
「ほう?」
翔の目が僅かに和らぐ。勢いしゃべった千佐都はとたん、きまり悪そうに唇を尖らせた。
「あと、わたしは確かにお嬢ちゃんだけど、美少女を守る戦士とでも思ってくれたらいいから。邪魔はさせないけど、言うことはちゃんと聞く。そうしたほうがいいなら、あなたの言うこともちゃんと守る。わたしが怪我をしても、それはわたしのしたいことに、……その、ついてきたようなものだから……えっと、とにかく、氷燐には何も言わないで。また無理言ってついてきただけだし……お、お願いします」
最後の方はごにょごにょと誤魔化すように言った。これでも駄目か、と言いたげに見上げる千佐都に、翔はふっと表情を崩す。可笑しそうに笑った後、慰めるように、ポンポンと頭を撫でた。
「ったく、仕方がねぇな」
敵意の去った声色に、千佐都は目を見張る。
「氷燐を守る奴がいてくれたら心強い。そうだな、戦士なら遠慮はいらないか。まあ、怪我はしないに越したことはねぇが。――あんまり心配させるなよ、お嬢ちゃん」
くるりと踵を返し、翔はすっかりおびえているメンバーに活を入れるべく去っていく。その背に、千佐都は叫んだ。
「あ、あの、翔さん! わたし、松原千佐都です!」
翔はちらと振り返り、薄く笑った。知ってるよ、と。
「ところで、おれは瀬木ね」
何かを成し遂げた様な清々しい気分を邪魔するように寄ってきた瀬木に、千佐都はうんざりしたような溜息をついた。
「へぇ」
「うわ、冷たい反応だ。つまんないなあ」
「怪しい男に話しかけられたら斬り殺せっていう教えがあるんだけど、実行するべき?」
「なにその物騒な教え」
「尊敬すべき師匠の言葉だけど、文句ある?」
「千佐都ちゃんさ、おれに当たり強くない? もしかして、おれにフォーリンラブ? やだ、おれ困るなあ。未成年は困るなあ」
と言いつつ、瀬木は千佐都の後方に回り、ぎゅっと腰回りに抱きついてきた。ぎゃっ、と乙女らしからぬ悲鳴を上げた千佐都は、ぎゅうぎゅう締め付けられて肘で瀬木を殴りつけるも、まったく効いていない。
「ぎゃあああ! 翔さん助けて! 変態に襲われる!」
「瀬木、ほどほどにしとけよ」何とも適当な注意をするだけで、見向きもしなかった。
「りょうかーい。千佐都ちゃんって、言いにくいね。ちーちゃんって呼んでもいい?」
「ぎゃああああ! マジでやめて!」
その後、事態を目の当たりにした氷燐によって無理やり引き離されるまで、二人の妙な攻防は続いた。




