第九話 彼女の結論
金曜日の午後一番、お馴染みとなった自然界論の授業を終えた千佐都は、現在事務課へと全力疾走中だ。すれ違う学生たちは一体何事かと彼女を振り返っていく。後続はいない。友人たちはまだホールに残っているし、ズィアードは「用事があるからパスだ」と最初から講義に出ていない。
「お、お疲れさま」
と事務員に声を掛けられたが、返事が出ない。
たどり着くなりその場にしゃがみ込み、息を整え、すっくと立ち上がり、出窓の淵に手をつく。
「結果、ください」
唇を真一文字に引き伸ばしたその表情は、極度の緊張に見舞われ、強張っていた。
「ズィアード!」
寮に駆け戻り、リビングに誰もいないことを確認した千佐都は、ズィアードの部屋のドアを慌ただしくノックした。煩そうな顔をしたズィアードが窺うように姿を見せると、容赦なく腕をつかみ、部屋から引っ張り出す。
「来て! とにかく見て!」
白衣のポケットに手を突っ込み、何やら実験中らしかったズィアードは、げんなりとしながらも促させるままにソファに腰掛け、差し出された封筒を受け取った。
「なんだこれは。手紙か? あいにく俺に文通の趣味はないが」
「こんなとこでボケないでよ。とにかく見て」
千佐都は興奮冷めやらぬ様子で、その表情は生き生きとしている。ズィアードは納得したように頷きながら、封筒から取り出した紙を手に取り、文面を開いた。目に飛び込んできたのは、「合格」の二文字だ。夢見検定・初級の合格である。
「そういえば、今日の午後だったな。授業後すぐに事務課に行ったのか?」
合格通知を見てのその発言に、千佐都はあからさまにがっかりした顔をした。盛大なため息をつき、ソファのひじ置きに大げさに倒れこむ。
「……期待したわたしが馬鹿だった」
落ち込んだのかと思いきや、すぐに顔を上げ、静かに通知を封筒に戻すズィアードに勢い込む。
「ねえ、合格だよ、合格! もっとさ、こう、なんかないの?」
口調には懇願の色が滲んでいた。
ズィアードは冷静に一瞥をくれた後、封筒をテーブルに置いて、白衣のポケットに手を突っ込み、何かを取り出した。掌に収まるほどの紙袋が一つ。
ぽんと投げてよこされてた千佐都は、目を白黒させるばかりだ。
「期待通りに動かしたければ、相手をその気にさせるんだな」
千佐都はハッと我に返ると、紙袋の感触を確かに感じながら、おろおろと膝頭に視線をさまよわせる。祝ってほしい、褒めてほしいという自分の気持ちはすでにお見通しだったらしい。なんだか子供っぽいな、と千佐都の頬が高潮する。誤魔化すように呟いた。
「べ、別に、期待してなかったもん。報告したいなって思っただけだし、べつに、」
「別に、なんだ?」
覗き込むように尋ねられ、逡巡の後、千佐都は俯いた顔を少し上げた。
「……わたし、合格したよ。秋口先輩のおかげだけど、でも、ズィアードにも、お礼言いたかった。ありがと」
因みに秋口には異界鳩を飛ばしてある。泣き笑いのような顔をした千佐都に、ズィアードは嫣然と笑い、やや低い位置にある頭に手を置いて、すっと撫で下した。
「よくやった」
まさか、と千佐都の目が皿のように広げられた。耳の横まで滑り下りた大きな手が名残惜しげに離れていくのを視界の隅で確認し、驚きの表情でズィアードを見やった。
「なんだ? これじゃあ不満か?」
可笑しそうに笑って、ズィアードはソファに背を預けた。カッと頬を赤らめた千佐都に、袋を開けるように促す。
中から出てきたのは3センチほどの小瓶だ。透明な瓶の中で、赤色に煌めくとろりとした液体が揺れている。蓋と底の部分には、見慣れない印が刻まれていた。ガラス越しでも、指にじわりと感じる温かさ。千佐都にとってはすでに血潮にも等しい《火》の力を感じた。
「……こ、れ」
千佐都は愕然として、問いを求めるようにズィアード視線をやった。
「例の姦しい妖精たちに頼んで、《火》の構成を彼らに訊き、分析した。俺の天才的な頭脳の導き出した結果は、《火》の要素と俺が名づけた構成物質があり、それが大きなプールの中で整然と並べられている状態が、コントロール下にある状態だ。反対に、一度離れるとプールの中で要素の列が乱れ、均等性が失われる。それが偏りだ。さて、どうすれば支配下を離れた《火》を均一にできるか。その答えは、『濃縮』だ」
千佐都があ然とする一方で、ズィアードの愉しい講義は続いていく。
「その瓶は、蓋と底の部分に《強化》と《圧縮》の陣を刻んだものだ。人間界風にいえば、印だな。そこに妖精たちに《火》を投入させる。強化された瓶は圧縮が済むまで力を取り込み続け、まあ、わかりやすくいえば、その瓶の中のプールは、真夏の混雑状況を思い浮かべてみればいい。ぎっしりと隙間なく詰め込まれているわけだ」
「――ってことは、あの、この前わたしが言ってた、花の?」
「まだ試作段階だが、使える物にはなっている。火の濃縮液、と言ったところだな」
「いや、なんていうか、これその、」
面倒だなんだと、確かに断られたはずだ。無垢なる女王の研究を飛躍的に発展させるだろう、濃縮液。それが今、この手の中にある。千佐都は信じられない気持ちだった。
「合格したらご褒美、だろう?」
ズィアードはにやりと口角を上げる。
「ほ、ホントに? いいの?」
「あいにく、俺は氷の領域に行くつもりはない。これをどうするかはお前次第だ」
それがどういう意味か、分からない千佐都ではなかった。これは向こうへ行くためのきっかけだ。試験に合格した今、何かをやり遂げて、その向こうに待ち受ける次なる未来が一体どういうものか、少しわかった気がした。現実は否応なしに、先へ先へと続いていき、待ってはくれないのだ。がむしゃらに、立ち向かうしかないのだ。千佐都はそう思った。
「……わたし、もう戻れないよ。だって氷燐に会ったし、リーダーの人とも話をした。だからあとは、進むしかないと思う。これが、わたしなりの結論」
そう言って、すっくとその場に立ち上がり、指を回して円を描いた。薄い桃色の波動に揺れ、姿を現したカルミアを掌に降り立たせ、告げた。
『わが言葉をつたえよ カルミア』
主の言葉に、鳩は一度鳴き、嘴を開いて小さな火を吐いた。空中に不自然に浮いた火の玉に向かって、千佐都は息を整え、言葉を送る。《託》は初めてではないが、ひどく緊張した。
「――【あの場所で待ってる】」
声は少し掠れていた。カルミアに頷いて見せると、火の玉は再び小さな嘴の中へと戻っていく。
「わたしからって伝えて。この前預けた羽根の主に送ってほしいの」
クックルーとカルミアは了解し、千佐都の頭上を旋回したのち、羽根で円を描き、姿を消した。それを見送った千佐都は、急に力が抜けたようにソファに座り込む。
「それがお前の結論だな」
ズィアードの言葉に、そちらを振り返り、眉を八の字にさせて笑った。
「ズィアードのおかげだよ。――ホントに、ありがと。今から行って、待ってみる」
「いつになるかわからないぞ」
その言葉に、千佐都はとうとう困ったように笑った。
「居ても立ってもいられないから」
人間界と自然界の狭間にある無魔――薬草の森に降り立ち、氷燐と出会った場所にやって来た千佐都は、岩を背に座り込んだ。
暖かい日差しが降り注ぐ中、荷物の奥から引っ張り出した防寒着はあまりにも場違いだ。長袖Tシャツ一枚となって、分厚いコートを地面に置いた。
時刻は3時半。返事が返ってくるのはいつになるだろう、と空を仰ぐ。《託》は手紙を運ぶのとは違って短い文章しか送ることはできないが、カルミアの場合は《火》を使って、遅くとも数分で転送できる。メッセージはもう、氷燐のところに届いているだろう。
「……来てくれるかな」
青い空がやけに眩しく見え、目を眇める。
こうしていると、氷燐の話はすべて、物語の中の出来事に思えた。ここはこんなにも平和だ。不甲斐ない長、勝手な貴族たち、虐げられた領民たち。千佐都にはまだ、それらが現実かどうか実感がなかった。ただ、今ではそれを、知らなければならないと思っている。
ポケットの中の濃縮液を指で遊ばせ、零のことも考えた。研究について生き生きと語る彼の顔は鮮明だ。そして氷燐。一緒に昼食を取り、ふわふわホットケーキを食べたいと夢を見て……。
「……確かにそこにいる、存在」
話をするときどんな顔をしていたか、一つ一つを覚えている。彼らは千佐都の現実に生きている。千佐都にとって、今はそれがすべてだった。現実は待ってはくれない。だから、すでに過ぎ去ったものは、追いかけるしかない。
「『うずくまるな。立て。前を見ろ。進め。思うままにやってみろ』……『現実は、」
さく、と小さく足音が聞こえた。森の奥に、人影が見えた。千佐都は立ち上がり、じわじわと湧きあがる喜びに頬を緩ませ、勢いよく地面を蹴り、駆け出す。
――現実はいつでも目の前にある。ただ、気づかないだけだ。
近づいてきた相手も千佐都の姿を認め、はにかんだ。
二人は向き合って立ち止まり、互いの姿を確認するように上から下へと見やって、ほぼ同時に嘆息する。千佐都の見立てでは、氷燐に著しい変化は認められなかった。怪我もないようだ。顔色も悪くはない。
「あ、あの、来てくれてありがと。その、突然でごめん」
おずおずと紡がれた千佐都の言葉に、氷燐は緩く首を振った。
「ううん。連絡もらえて嬉しかった。あたしこそありがとう。……この間は、ごめんね」
千佐都の脳裏に翔の言葉が蘇ったが、取り乱すことはなかった。
「あの人の言ったことは、ホントだよ。わたしは何も知らなかったし、知ろうとも思ってなかった。長とか貴族にちょっとムカついたから、殴ってせいせいしたいって。ホント、それだけだった。中途半端って言われて、目から鱗っていうか……それで、逃げて、その、ごめんなさい」
頭を下げた千佐都に、氷燐は黙りこんだままだった。
「――でも、氷燐と知り合って、零とも出会って、わたしの現実と少し重なったっていうか、二人はわたしの現実に生きてるっていうか……だから、もう逃げたくない」
「千佐都」
静かに呼ばれて顔を上げると、困ったような顔の氷燐と視線が合う。水色の目には、薄く涙の膜が張っていた。
「……あたしのお父さんね、拡張工事で起こった落盤事故で、亡くなったの。それからあたし、ずっと一人だった。こんなに暖かい森の中でも、どこか寒々しく感じてた。薬草をつみながら、どうせ何も変わりはしないって思ってたの。革命なんて大それたこと、出来るはずないって諦めてた。長が亡くなるか、あたしが死ぬのが早いか、どちらにしろ、それまでずっとこのままで、明日もこうして薬草を集めてるんだろうって。それがあたしの現実だった」
氷燐の告白に、千佐都は何も言えなかった。氷燐は唇をかみしめ、震えはじめた指先を隠すように服の裾を握りしめる。
「ちょっとムカつくって、それくらいの感情さえ湧かなかったの。それが現実だって、あたしこそ逃げてた」
微かに震えだした唇を真一文字に伸ばし、氷燐はのど元までせり上がった嗚咽を飲み込むように話を切った。決壊しそうになる涙を掌で拭い、自嘲の笑みを浮かべる。続く言葉は、ほとんど涙声だった。
「――千佐都が、事情を分かってないんだってことは、なんとなく、気づいてた。それなのに、こっちに来たいだなんて、驚いたの。翔くんと会った後、帰っちゃって、さすがに面倒だって気が付いて、も、もう、来ないかと、っ、思って……でも、戻ってきた……!」
感極まったかのように、氷燐の目から大粒の涙が零れ落ちる。
「もう逃げないって、どういうこと? あたしは自分の現実からも逃げ出してたのに! 知らないふりして逃げたらいいのに! 誰も責めたりしない! だってそれが普通だもん! あたしなんか、あたしなんか……ずっと、逃げてたのに! 見ないようにしてたのに!」
とうとう大声で泣き始めた氷燐は、その場に座り込んでしまった。
千佐都はただただ、目の前の出来事に驚くばかりで、立ち尽くしている。父親が亡くなったことを告白されたとき、責められる流れだと覚悟したのだが、話を聞く限り少し違うようだった。
「あ、あの、氷燐? わたしのこと、怒ってないの?」
恐る恐る尋ねれば、氷燐はぐずぐずと泣きながらも、不思議そうに首をかしげた。
「ど、どうして? あたし、ちさとがもどってきてくれて、うれしかった、のに!」
それだけ答えて再びサイレンのように泣き出した氷燐に、千佐都はおろおろと戸惑い、事情を知らない通行人のように周りをうろつくことしかできない。
「ひょ、氷燐! 泣かないでよ。可愛い顔が、ああ、泣き顔も可愛いけど、いやいや、とりあえず泣き止んで」
思わず本音をこぼしつつ、必死に慰める千佐都だった。




