第二話 不思議な家族
卒業パーティーの件は、ようやく存在を思い出されたらしい学級委員の二人が仕切ることになった。進行は簡単だ。プリントに書いてある事項を追っていけばいい。千佐都たち三人はジュース係を割り振られた。担任教師は「参加は制服でね」と念押しを忘れなかった。
帰宅した千佐都を待っていたのは、《フライング卒業祝い!》とでかでかと書かれた横断幕だった。達筆というには個性的すぎる字が躍っている。ンがソに見えるのは父の字の特徴だ。フリルのついたエプロンを身に着けた年齢不詳の女性が出迎えた。松原佐那。千佐都の母だ。二人が並ぶとお世辞ではなく姉妹に見える。身長160センチを超える千佐都はもちろん姉のほうだった。栗色のボブカットにハニーフェイス、小柄な母はフリルやリボンが似合う。これで来年40、タイトルをつけるなら「永遠の少女」だ。
「おかえりなさい、ちーちゃん。みて! すごいでしょう! パパが作ったの!」
両手を顎の下で組み、満面の笑みを浮かべる母。千佐都の緑の目は母方の遺伝だった。
「た、ただいま。なんでまた今日なの?」
母はその問いにきょとんとして、しばし小首をかしげたまま動作をやめた。そこに不健康そうな細身の男性が遅れてやってきた。松原陽助。父親だ。妻の肩を優しく撫でたあと、勿体をつけて代わりに答える。
「何が起こるかわからないからね」
不吉な一言に千佐都の唇が引きつった。卒業式を指しているわけではないだろう。儀式だ。クラスの誰もが問題など起らないと楽観的な中、彼女だけが危険を想定したのはこの父が原因だった。横に流すように分れた前髪の下には黒い眼帯があり、優しげな細面に陰気な雰囲気を添えていた。いつ失くしたのかと尋ねる娘に、彼は残された黒い瞳をじっと向けて、決まり文句のようにこう答えた。「大事なことだったんだよ」。彼女たちにとって、「大事なこと」といえば、家族、友人、それから、儀式。それに連なるすべてのことだ。そこで失くしたのだろう、と千佐都はずっと考えていた。
父と娘が探り合うように互いを見つめていると、母がいじけたように口をとがらせる。
「ちーちゃんとパパだけで、なんだかずるいわ」
母は踵を返し、リビングのほうへ戻っていく。父はすぐに追おうとしたが、娘を振り返り、にっこりと深い笑みを口元に浮かべた。
「それでも、千佐都なら大丈夫。何も気にすることはないよ」
なんて矛盾だ。千佐都は奥に向かった父の背中を睨みつける。かわりに出てきたのは、くたびれた黒のコートを着込んだ青年だった。人のよさそうな顔を、申し訳なさそうに少し俯かせる。滑るように千佐都に近づき、慰めるように肩を叩いた。にこにこと笑う彼を見ると、やり場のない思いがスッと解けていく。
「ごめん、ありがと、ブルース」
彼は何も言わない。すっと目を細める仕草が、彼なりの「どういたしまして」だった。
二階の自室に戻った千佐都は、のろのろと制服に手をかけ、ベッド端に無造作にひっかけてあった部屋着に着替えはじめた。脱いだ紫苑のブレザーをハンガーにかける。これを着るのは明日で最後だ。夢想院中等部を卒業した後、高等部に進学する。そのために必要なのは、筆記試験でも面接試験でもなく、儀式だ。彼女にとって、また彼女のような人間にとって不可欠なものを、そこで得る。
世界について、どのくらいの知識を持っているだろうか。千佐都のいるその世界は、【人間界】と呼ばれている。人間という種族が住むからと安易なネーミングだが、実に判りやすいものでもある。なぜ名付けるのかと言えば、自分たちが住む世界に敬意を表したのか、単に無いと不便だったのか。色々と理由はあるだろう。ただそれは結局、その世界に住む自分たちへの配慮でしかない。
もしも、世界の外にまた、異なる世界があるとしたらどうか。名がないととても不便だ。この世界からちょっと離れたところにある人間という種族が住む世界、なんて長ったらしい。だからここは【人間界】と呼ばれる。他でもない、異界に住む者たちに。
しかし、異界を認識できる人間は実のところそう多くはない。だから彼らは、人間であると同時に、夢見の人とも呼ばれる。通称夢見。母を除く松原家の住人、千佐都と陽助は、夢見の人だった。
夢想院は夢見のための学校で、高等部からは人間界の外に出ることを許されるが、そのためには必要なものがあった。界の外と人間界とのズレを埋める、【守護霊】という存在だ。
「守護霊、か」
実は授業でも何度か扱われた。
遥加に言わせれば「いないと超困るやつ」で、真奈美が補足すると「人間ってあんまり外への耐性が強くないから、いわゆる防護服みたいな感じね」だ。そのあたりの説明は【異界】という小難しい、「界はより大きな界である外界の中に存在し……」云々、といった睡眠導入剤となってしまう。結論を言えば、千佐都はあまり守護霊について分かっていなかった。守護霊がいないと正式な夢見として働けない、と知っていればいいのだと開き直っている。ただ、それを得る儀式とやらが簡単に想像できず、危険をはらんでいるかもと少々気おくれしていた。
(何が起こるかわからないって、どういう意味?)
守護霊がどんなものかは知っている。数多くの守護霊に出会ったことはないが、少なくとも嫌な印象はない。父の守護霊がいい例だ。いつでも笑みを浮かべ、優しく朗らかで、無口だが気配り上手。名前はブルース。ただの影の薄い青年ではない。異界から召喚された《死ニ神》だ。救急箱を手にせっせと父の治療をしている場面をよく見かけるので、まったく怖いイメージはなかった。
(ああいう癒しのある守護霊がいいなあ)
人形でも獣型でも、とにかく可愛くて癒されるタイプが一番だ。頭が良ければ完璧だ。足りないものを補うことの重要性を、千佐都はちゃんと分かっていた。聞くところによると、体がとろけたアイスのような不死生物型や、妖艶な美女もいるらしい。要するに何でもアリなんだろう。
そろそろご飯にしましょうと母が呼んだので、千佐都は階下に向かった。リビングはすでにパーティーらしく華やかに飾り付けしてあり、移動させたらしい横断幕だけがどこか白々しい。丸い食卓の中央にはワンホールのレアチーズケーキが鎮座している。白地にブルーベリーソースの波模様が美しい。その周りには所狭しとご馳走が並んでいた。千佐都の喉が無意識に鳴った。目はチーズケーキにくぎ付けだ。
全員が席に着き、父が一家の主らしくグラスを持ち上げる。乾杯、と続くところに、妻の待ったがかかる。
「炎呼ちゃんがまだだわ」
父と娘は合点がいったのか互いに顔を見合わせ、頷いた。千佐都は目を閉じて数秒、目を開けて「大丈夫みたい」と両親に告げる。父は少しリビングのソファを動かし、母はキッチンから大きな銀皿を持ってきた。千佐都は間の空いたリビングの床に立ち、すっと右腕を目の前まで上げる。
『われはよぶ』
呟くように唱えながら、右手の三つ指を揃え、素早く空中に大きな円を描く。指の軌跡は金の光となり、キラキラと輝く円が浮かび上がった。その中央に開いた手を乗せる。ぐっと力を込める。きたれ、とつぶやいた。下腹部のあたりが熱を帯びると、はっきりとその名を呼ぶ。
『炎呼』
金の円からじわりと赤い波が揺らいだと同時に、激しい炎がほとばしり、ぐるり一周円をまわって火の輪と化す。円の内側から熱をはらんだ一陣の風が吹き抜けリビングの外へと抜けたとき、千佐都の前にはしなやかな体躯を伸ばす、一体の獣がいた。体高1メートルほどの金色の獅子だ。体毛が長いので大型の犬にも見える。赤い瞳がリビングをぐるりと見やった後、
《……出陣の宴か?》
物騒な問いに千佐都は首を振る。
「炎呼ちゃん、ちーちゃんは明日卒業するの。だからそのお祝いなのよ。炎呼ちゃんも一緒にどうかしら?」
母の明るい声に、千佐都を見やる獣。炎呼という千佐都の契約獣で、《古ノ火ノ獣》である。
「ちーちゃん、炎呼ちゃんどうするって?」
「あ、了解だって。ご飯はわたしが用意する」
《本当か。分厚いのを所望する》
炎呼のふさふさの毛に覆われた尻尾が喜びに左右に振れた。目がキラキラ輝いている。ワンホールのケーキを好きにしていいと与えられた子供のようだった。母から銀皿を受け取り、千佐都はその中に分厚いステーキのような物体を乗せた。
異界の獣のごはんは特殊だ。この世には《属性力》という力が存在する。全部で7種類あり、登場からも明らかなように、炎呼の属性はそのうちの《火》だ。口から火を噴くし、故郷の異界は火山地帯だと千佐都は聞いている。その主である彼女も火を扱うことができる、属性持ちである。火の力を形成したのが、そのステーキ肉もどきだった。炎呼は口に咥えると二口ほどで平らげてしまう。満足そうに口周りを舌で拭ったあと、僅かに開かれた口から間抜けな爆発音と灰色の煙が漏れ出た。
「ステーキの感想は?」
《毎日食べたい》
と炎呼はぐるぐると喉を鳴らした。満腹でご機嫌なのか、リビングの床に横たわる。
「あらあら、一足先にお祝いしちゃったのね」
「僕らもそろそろいただこうか。お腹すいちゃったよ」
父と母の会話を聞きながら、苦笑を噛み殺し、千佐都は寝そべる炎呼の腹を撫でていた。
祝われている感じが全くしないのは彼女だけらしかった。
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