第六話 自覚と逃避
氷燐との森での再会は正午だと決めていた。
もちろん、ズィアードには出かけることを伝えてある。前日の買い物の続きなのか、千佐都にはようとして知れなかったが、彼自身も用事があるらしい。朝食後千佐都を授業に送りだし、それきりだ。
一方の千佐都は、一限目に入っていた異界考察入門が終わった後、夢想院大図書館にいた。待ち合わせには一時間と少し余裕があるからといって、暇つぶしに来たわけではない。世界を広げよう、をさっそく実行してみようと思ったからだ。
氷の領域について、自然界論の教科書を読めば話は早いのだが、教科書を開くとなんだか負けた気になり、読み進められないでいた。勉強の二文字が関わると、急に拒否反応が出るのだ。その土地について書かれた学術本ではなく、気軽に読める旅行雑誌のような雰囲気が千佐都には必要だった。
しかし、火や風、地の領域とは違い、氷の領域は閉鎖されている。行けない場所の旅行マップが見つかるはずもなく、さっそく暗礁に乗り上げた。
氷燐の言った通り、ずいぶん前から閉鎖状態のようである。まるで収穫なし。
飽き性の千佐都は本の捜索をあっさりと諦め、早めの昼食にはもう少し時間があったので、近くの棚にある本を適当にあさり始めた。背表紙を指でなぞりながら、タイトルを呟いていく。ふと、指の動きが止まった。
「……『これであなたも異界間結婚できる!』……?」
なぜこんな場所に結婚のハウツー本があるんだ、と千佐都は不審そうに半眼した。うちの両親もこれに当てはまるのだろうと、風の領域のページを開く。目を引いたのは、「告白方法」と書かれた欄だ。
【風の人に告白したいあなた。
まずは頭に巻ける大きさの青い布を用意しましょう。晴天の日の澄みきった青空の色がお勧めです。次に意中の相手に布を渡します。あなたに好意を持っています、付き合ってくださいという意味になります。
言葉は要りません。むしろ布を渡す前にぐだぐだと言葉を連ねると冗談だと思われてしまうので注意。手渡したら、あとは待つばかりです。
相手がOKならその布を普段巻いている布の下に巻き、あなたの前で解いてくれるでしょう。ダメなら返却されます。受け取っただけの段階では、考えてみます、との意思表示なので、早合点しないように】
風の精霊は頭に布を被っているということは千佐都もよく知っていた。母がたまに里帰りする際には、丁寧に茶色がかった布を巻いてから出かけていく。茶系は既婚の証だ。外界から来たものも、布を被っていると受けがいいらしい。そういえば父も被っていたな、と千佐都は思い出す。
しかし、あの父がこんなことをしたのだろうか。それとも母のほうから……? 知りたいような、あまり想像したくないような、不思議な気持ちが千佐都の心に渦巻く。結果、後者に軍配が上がる。そろそろ昼食を食べに行こうと思い、本を棚に戻し、図書館を出て行った。
昼食を食べた千佐都は、さっそく薬草の森へと転移した。風に導かれ、氷燐と出会った岩の前で待つ。しばらくすると森の向こうから、千佐都の名前を呼びながら走り寄ってくる氷燐の姿が見えた。
その後方から、長身の男がゆっくりと歩いてくる。セーターの上にくたびれた茶のジャケットを羽織った若い男だ。褪せた銀髪は刈り込まれ、洗いざらしのジーンズに、先の尖った黒のブーツを履いていた。
「おまたせ、千佐都。もしかして待たせちゃった?」
今来たところだと千佐都が答えたとき、のんびりと歩いてきた男が到着した。背はズィアードと同じくらいに見える。男は千佐都と目が合うと、にっと唇を歪ませた。
「はじめまして。氷燐から聞いてるかもしれねぇが、俺の名前は翔。【雪原の狼】のリーダーなんかやらしてもらってる。……聞いたぜ、こいつが世話になったみたいだな」
こいつ、と氷燐の頭をぐちゃぐちゃに撫ぜる様は、妹を可愛がる兄のように見えた。野性味のある精悍な顔立ちに、大人の落ち着いた雰囲気を漂わせ、この場に真奈美がいたら思わず黄色い叫びをあげそうだと千佐都は客観的に思った。
「い、いえ、わたしのほうこそ色々とお世話になったんです。何も考えずに無理言っちゃって」
考えなしめ、とズィアードの揶揄するような声が千佐都の頭に響いた。急いで消し去り、笑みを浮かべる。
「そんなことないよ。昨日も言ったでしょ、あたしすごく嬉しかったの。ね、翔くん」
氷燐の言葉に、翔は素直に頷いた。どうやらいろいろ聞いているらしい。
「ああ、何だったか、張り手をかますってのが愉快だったな」
「でしょ! それでね、あたし、頑張らなきゃって思ったの」
「それは何より。……でも、驚いたな」
翔は不思議そうな顔をして、千佐都を見やった。
「驚いたって、なんのこと?」
氷燐の笑みがぎこちないものへと変化した。その瞳には険しささえ見える。そちらを向いた翔は、数秒探るように見つめた後、くつりと笑った。
「――驚きとしか言いようがねぇだろ。事情を知らない人間のお嬢さんが、そこまで同情してくれるとはな」
「なっ! 翔くん?!」
同情。
千佐都にとって、その言葉に良いイメージはない。反射的にむきになって反論していた。しかし、ただ単に「同情なんかしてない!」と叫んだ千佐都に、翔は冷たい視線を向けた。
「じゃあなんだ? 教えてくれねぇか。――話は聞いたんだろ? 同情以外に何を思ってこっちに来る気になったんだ?」
「ちょっと翔くん、昨日そんなこと言ってなかったじゃない!」
氷燐は翔の腕をつかむと、ぐいと自分のほうに体を向き直らせた。翔は心外だと言わんばかりに眉をひそめてはいるが、口元は笑っていた。
「氷燐。思ったことは全部口に出せなんて、一体誰に聞いたんだ? 俺は教えてねぇぞ?」
「っ……!」
目を見張った氷燐の腕をやんわりと下ろさせて、翔は千佐都に向き直る。
「氷燐の話を聞いて、俺たちを可哀そうだと思ったのか? 食事を与えて満足したか? お嬢ちゃん、だとしたらそれは偽善じゃねぇか? 中途半端に手を出されるのが一番困る。迷惑だ。何を思って殴りこみたいと思ったのかしらねぇが、軽々しく俺たちの事情に踏み込むんじゃんねぇよ。遊び場じゃねぇんだ」
違う、そんなんじゃない。
そう言おうとしたが、唇が震えて言葉にならなかった。考えなしめ、とズィアードの声がまた響いた。中途半端、と翔の言葉が重なり、悔しさに唇をかみしめる。
「ちょ、ちょっと翔くん!」
唖然としていた氷燐が、ようやく我に返って止めに入る。
その姿を見て、もしかすると氷燐も翔と同じことを考えていたのでは、と千佐都は思った。翔が氷燐の話をどう理解したのかは分からない。しかし、彼にとって千佐都は、「事情を知らない」「人間のお嬢ちゃん」なのだ。同情という言葉はさらに千佐都の心を苛んだ。
同情なんてしていない。同情さえしていない自分が、考えなしに行動しただけなのだ。
足元から急に現実が押し寄せてきた。氷燐に受け入れられて、上手くいくと思っていた自分がいたことに今更ながら気が付いた。ズィアードの言葉が蘇った。
――考えなしはあとあと響くぞ
その通りだった。世界を広げる時間など、現実に生きている者たちが、どうして与えてくれるというのだろうか。
「ご、ごめんな、さい」
鼻の奥がつんと痛んだ。無意識に二人から後ずさりし始める。どうしようもなく恥ずかしかった。はっきりと線引きされた此方と向こう。考えなしの大馬鹿だ。
(逃げたい)
そう思ったとき、眦に溜まった涙の膜が破裂し、頬に流れ落ちる。ここから消えなければ、と思った瞬間、一陣の風が三人の間を吹き抜けた。
そこが限界だった。
おそらく、ごめんなさいと何度も呟いたのだろう。ぐちゃぐちゃになった頭で何とか言葉をひねりだし、そこから走り出す。後ろから氷燐の呼ぶ声が聞こえたが、構わず走り続けた。フォームは乱れ、時折木の根や石に躓き、とうとう地面に転んでしまう。
むくりと起き上がった千佐都の後ろに、誰かの気配がした。
「千佐都、待って」
氷燐だ。
驚いて振り返ると、困惑顔の彼女が立っていた。千佐都は慌てて立ち上がったが、氷燐はすかさずその腕をつかむ。
「千佐都、おねがい、聴いて。翔くんのことごめんね。あんな風に言ったのはきっと千佐都がまだ」
「謝らないで」
はやく逃げ出したくて、千佐都はぴしゃりと言葉を阻む。
「わたし、自分のことばっかり考えてた。氷の人のことなんて何も考えてなかった」
千佐都の言葉に、氷燐はしばらく黙ったままだったが、腕を放そうとはしなかった。気まずい沈黙の間、千佐都は何も言えずに立っているだけだ。早く家に帰りたかった。
沈黙を破ったのは氷燐だ。
「あたしは、千佐都は同情したんじゃないって思ってる。だってあの時、千佐都ホントに怒ってた。それを見てあたし、千佐都は何もわかってないんだって、そう思ったの。だから、……」
氷燐は何かを言いかけ、ハッとして視線をさまよわせた後、いったん口を閉じる。ほの暗い光が浮かんだが、すぐに奥に隠された。
「……それでも、あたしは嬉しかったの。だから千佐都とこれきりなんて、いや」
千佐都の正面に立つと、空いた手に何かを押し付けた。視線を落とすと、青みがかった白い羽根がある。千佐都は目を見開いた。
「あたしの異界鳩の羽根。持ってて。――あたし、待ってるから」
眩しいほどの笑みを浮かべ、氷燐はそう念押しする。頷く代わりに、千佐都は「ごめん」と呟いた。掴まれていた手が自由になり、おずおずと後退してから氷燐の隣をすり抜け、地面を蹴って走り出す。氷燐の呼ぶ声は、もう聞こえなかった。
夢想院に逃げ帰ってきた千佐都は急いで自室に飛び込むと、誘われるかのようにベッドに入った。顔を洗いに行く気力もなかった。鏡など見たくない。きっと酷い顔をしているだろうから。
仰向けになって天井を見上げ、手に持っていた異界鳩の羽根を目の前にかざした。しばらく見つめた後、空いた手で小さな円を描く。
『われはよぶ きたれ カルミア』
宙に描かれた円が淡い桃色の波動に揺れると、中から一羽の鳩が飛び出してきた。部屋の天井を旋回し、千佐都の顔の近くに着地する。
「おはようカルミア」
主の言葉に、カルミアはクックルーと鳴いた。その視線は千佐都の手にある羽根に注がれている。
「この羽根ね、今日もらったの。カルミア、預かってくれる?」
クックルーとカルミアは快諾した。羽を嘴で受け取ると、今度は自ら円を羽根で描いて、その中に姿を消した。
ぼんやりとそれを見送ったあと、千佐都は枕を抱え込み、壁際に身を寄せる。涙はもう止まっていたが、もう何もしたくないし、考えたくもなかった。目を閉じれば、消し去りたいような過去の自分が否応なしに瞼の裏に蘇る。それでも体は休息を求めていたのか、外はまだ明るいというのに、千佐都は眠りの世界へと落ちていった。
それからどれくらい経ったか。彼女はノックの音で目を覚ました。ぼんやりとした意識の中で、ズィアードの声を聞く。
「おい、千佐都。いるのか?」
呼びかけに答える気など起きなかった。
「千佐都? ……寝ているのか」
返事がないことに、寝ているのだと判断したらしく、ズィアードがドアから離れる気配がした。無視をしたことに、不思議と罪悪感を覚えることはない。
つくづく嫌な人間だ、と自嘲をこぼし、千佐都は眠りの世界に戻っていった。
その呟きを、ドアの向こうのズィアードが耳にしていたことなど、知る由もない。




