交錯スル嫉妬
It's a continuation of nightmare.ー
ーThe second dayー
ふあ…あぁ……あ。
私は鏡の前で声のない欠伸を噛みしめる(だから起きたっていう実感を出すために心の中で噛みしめることにしているのよ)。あ~あ~……ほんと、何て締まりのない顔をしているのよ私。目ヤニもついているし、口元に涎の跡は残っているし、唇は乾燥しているしで、こんな顔とてもじゃないけれど素敵でオサレな殿方の前ではお見せできないのよ。
…………。
う、うえぇ……殿方とか自分でも似合わないと思うような言葉を考えたら胸焼けしてきたのよ。
とりあえず、朝のエチケットは肝心なのよ。
朝のエチケットに始まり、夜のエチケットに終わるってね。夜のエチケットとか決してエロいことではないのよ。
まず、歯を磨くのよ。
朝の歯磨きに始まり、夜の歯磨きに終わるってね。ちょっとしつこい?
健全な歯には健全な魂が宿るっていうし、いつも歯は白いペンキで塗りたくったかのようにピカピカにしておきたいのが女心なのよ。それに何かの番組で見たことがあるのだけれど、体の中で一番汚い場所は口内らしい。私は今までは、ごにょごにょごにょ……が一番汚いと思っていたけれど。そこははっきり言えないのは察してください、としか言えないのよ。とにかく歯を洗うのよ。例え不潔戦士横着マンが邪魔したとしても、私は押し倒してでも歯をゴリゴリと磨いてやるわ。
歯ブラシ歯ブラシ……あ。
無い。洗面所には白のプラスチック製のコップの中にピンク色の歯ブラシが二本寄り添うように置いてあるだけだった。
……ぺ、ぺあるっく?
よくよく二本の歯ブラシをじっと眺めると、『あじ×こすも』と書かれた名前シールが持ち手に貼られてある。
これは何なのよ。もしかして、海水魚と某石油会社のタイアップかしら。はたまたカップリングなのかしら。
……そんなわけないじゃない。
「あ、あぁー!? お前っ、私とにぃにのお揃いの歯ブラシをじっと見つめて何してる!?」
呆然と洗面所で立っていると、バタバタと子供が走るような足音がした。
振り向くと、洗面所の表の廊下にピンクの手拭を首にかけた紫陽花が私をキッと睨みつけていた。
……何となく、この文字の意味が分かりたくないけれど分かったわ。
「……はっ、ま、まさか……! お前っ、つ、使うつもりか……!? わ、私とにぃにが愛用しているこの歯ブラシを唾液ででろでろに汚すつもりだなっ、この痴女!」
『あんた、何てことを言うのよ。歯を磨きたいのだけど、よく考えたら歯ブラシ用意していないことに気付いたのよ』
「そして、あわよくばにぃにの使用済みの歯ブラシを……!」
『違うって言ってるだろ、こら。だいたい人が使っていた歯ブラシなんて気持ち悪くて使えないのよ』
「き、気持ち悪い!? にぃにが生んだ涎が気持ち悪いっていうのかビッチ!? お、お前なんかトイレのたわしで歯磨きすればいいんだっ……ひっ、あひっ、いはいいはいいはい!!」
『生意気なことを吐く口はこの口か、この口かっ』
私は壊れたオルゴールのように暴言を吐き続けるその生意気な口をギュッと抓ってやった。
よくもまぁ、でろでろ涎やらビッチやらたわしやら着やせしないタイプ(←言ってない)とか次から次へと暴言を吐けるわね。親の顔が見てみたいわ。……片親は既に見ているわね。
「く、くそう……唇がヒリヒリして痛い。わ、私をこんなにして、にぃにに言いつけてやるう!」
『あんたはどこぞのボンボンかよ。それにしても、どうしようかしら……』
「お前、本当に歯ブラシないんだな。ちっ、仕方ない。これをお前に進呈してやる』
いっそのこと櫛を歯ブラシ代わりにしようかとか考えていると目の前のおちびさんが私に半透明の袋に入った歯ブラシセットを渡してきた。こ、これは……どこをどう見ても使い捨ての歯ブラシセットなのよ。ど、どうしてこんなものをこの子が持っているのよ。しかし、それよりもこの生意気な小娘が親切にしてくれるなんて……。こんなことされたら素直に感謝したくなるじゃないの。普通に小娘とか言っちゃたけれどよく考えたらこの子私より一つ年上なのよ。ママ、とでも呼べばいいのかしら。
『え、この歯ブラシくれるのママ?』
「マ、ママってなんだ……。ばか、あげるわけない。これは交換条件だ。これを渡すことでお前はにぃにの半径百キロ以内に近づいてはいけない……これが対等なギブアンドテイクだ!!」
『対等なギブアンドテイクになってないじゃない……だいたいそれだと私は町から出て行かなきゃならないのよ。とにかくこの歯ブラシありがと、紫陽花』
「ふ、ふんっ、お前なんかに使われる歯ブラシはすっごく可哀想だな!!」
紫陽花は最後に憎まれ口を吐きつつ、洗面所から立ち去って行った。
…………。
しかし、あの子は一体何の用で洗面所に来たのかしら。
朝のエチケットをしにきたのなら、ここを使うはずだし。……まさか、私に歯ブラシセットを渡すため?……何だか違和感があるわね。もしかしたら秋桜の仕業なのかもしれない。しかし、人の好意を素直に受け取ることは乙女の礼儀なのよ。とにかく、歯をシャコシャコと磨くのよ。私は歯ブラシのブラシ部分に軽く水をかけ、歯磨き粉のチューブをにゅるっとブラシ部分につけ……。
…………。
チューブの口からにゅるっと黄土色の歯磨き粉が出てきた。
うわーい、カラフルな歯磨き粉で私の胸がドキドキワクワクするの~、これをおでんや皿うどんにかけて食べるとおいしいの~、舌もヒリヒリ私の心もヒリヒリ~……って、こら、これは歯磨き粉じゃなくて練り辛子なのよ。あ、あのガキ……やっぱり、ロクなことしないのよ。仕方ない……今日は歯磨き粉無しで我慢するのよ。こうして私は一人、洗面所で泣く泣く朝のエチケット活動に勤しむのであった。
本日は誠に日柄がよく、そしてお天道様も昨日以上にバリバリに働いております。
お天道様は外にいる動物に分け隔てなく、ガンガンに直射日光を与えてくれます。
私とちびっ子双子も例外ではありません。我々人間の水分は直射日光によって汗の形で引き抜かれ、脱水症になる可能性があります。つまり何が言いたいかというと……。
『あづい……のよ』
「ほら、向日葵。もうすぐで着くから頑張るの」
何故か私と双子の三人はクソ暑い中、獣道をひたすら歩き続けていた。
どうしてこんな展開になったのか説明するのよ。
私が朝のエチケット終えてから朝食時のこと。
紫陽花が『今日は川釣りをするの』とか不意に言い出したので、『いってらっしゃい』と笑顔で返事しようとしたが、『向日葵は絶対』とかワケワカメな言葉で制止された。当然、私は不満たらたらな表情をすると、『夏休みだから向日葵は何もすることがないの。町も案内するよ?』と正論で返された。悔しいけれど、ぐうの音も出ないとはまさにこのことね……。
秋桜が行くということで、当然、紫陽花もついていくことになった。
六花とかいうホモは『町でナンパするから無理だお』とかふざけたことを言って、断った。
……何がナンパよ。あんたはおばはんやハードゲイにアタックしていればいいのよ。
そして、変態メイドの瑠羽は『瑠羽はメイ道を極めたいので無理ですぅ~』とか言って、断った。
メイ道って何なのよ。まいど~……思わず背筋が寒くなるほどのおやぢギャグを言ってしまったわ。
わけのわからないコメントだが、とにかく行きたくないという意思表示なのであろう。
そして私はその二人が拒む理由を身体で痛いほどヒシヒシと身に染みて感じていた。
……何だか、とてつもなくいやらしい表現になっちゃったけれど。とにかく今日は昨日以上に体力を持って行かれるのだ。
町のはずれの獣道は当然歩きにくいし、蚊に刺されるし、得体のしれない虫と出会うし、無駄に汗をかくし、気持ち悪いしでいいとこ一つもない。私が都会のもやしっ子でスタミナが無いからとか言われるとそれまでだけど、ハッキリ言ってこれは苦行だ。私は別に修行しに田舎町に来たのじゃないのよ。クーラーの効いた部屋でゴロゴロしながら昼ドラを見てキャッキャッウフフするのが性に合っているのよ。……あれ?それって都会に住んでいた頃と何も変わってないじゃない。
「にぃに~……抱っこしてぇええ」
「紫陽花? にぃには子豚を背負えるほど力持ちじゃないの」
「にぃにぃいい、何気に酷いことさらりと言ってるよぉおおお」
このうだるような暑さに音を上げたのか、紫陽花は秋桜におんぶを要求するが軽くあしらわれる。
流石にママにおんぶって歳じゃないし、私的にはザマーミロって感じなのだけれど。
…………。
「あ、あぁ……もうだめ。さようならこの世。こんにちはあの世」
『何、辞世の句みたいなこと呟いてんの。ほら、私の手に掴まって? こんな所で倒れられちゃ、迷惑だし辛いのはあんただけじゃないのよ。秋桜ももうすぐって言ってるし、頑張るのよ』
「……お前の手、何かねたねたするぞ。気持ち悪い……」
『そ、それはお互い様なのよ。猛暑なのだから、手汗ぐらい出るのよ。だいたい、淑女に向かって気持ち悪いとは何事か』
「うん……わかった」
紫陽花は気持ち悪いと言いながらも私の手を頼りにまたゆっくりと歩く。
……何よ、妙にしおらしいわね。いや、この暑さのせいか。暑さのせいで脳内がオーバーヒートしているのね。
それなら、納得なのよ。そして、歩いていると背後から何かの視線を感じたので振り返ると、秋桜が無表情でありながらも細眼でジッと私を見つめていた。
「…………向日葵はいつの間にか紫陽花と仲良しになったの」
秋桜は私と目が合うとそう言って、私と紫陽花よりさっさと前に進んで行った。
……何なのよ一体、急に不機嫌になって。
心配しなくても別にあんたの妹は取らないのよ。男……じゃなくて、男の娘の嫉妬は見苦しいのよ。
数十分後。
痛い足を引きずるようにしてさらに歩くと、ようやく目的地の川原に到着した。
この辺りの川は清流で、地元の人にはよく魚が釣れる釣りスポットで有名……らしい。
らしいというのは、私が朝食時に秋桜から聞いた話だからだ。しかし、私にとって魚釣りとか正直どうでもいい……。今は足が痛くて、明日の筋肉痛を心配する方が最優先だ。
「わぁー! わぁー! 川だ、川だっ、川だぁー!!」
紫陽花はというと、私が川原で尻もちついて横になっているのを尻目に無邪気に子供の様な笑顔で川の中ではしゃいでいた。……何よ、さっきは死にそうな表情で私に手を引かれていたくせに。これだから子供は……ぶつぶつぶつ。
…………。
よくよく考えたら、私は年齢的にあの子より子供なのよ。
ふん、悪かったわね。どうせ私は元気のない都会のもやしっ子ですよーだ。ぷんぷん。
「あれまあ、あそこのお譲さんは元気良いのに、こちらのお嬢さんときたらモヤシみたいにへなへなしとるっぺねぇ」
ぎょぎょぎょっ!?
私が仰向けになって真上に視線を向けると、麦わら帽子をかぶったよぼよぼのおぢさんが私の顔を覗き込んできた。
び、びっくりしたぁ……い、いきなりこのおぢさんが話しかけてくるから心臓が口から飛び出そうになったのよ。仰向けになった瞬間、年寄りのどアップは勘弁してほしいのよ。
「あ、海蔵さん。お久しぶりなの」
「ん? おーう、お嬢さんは……あれだろ? 兵頭さん家の友子ちゃんだっぺ?」
「ちがうの」
「え? そいじゃあ……波平さん家の多羅雄ちゃんだっぺ?」
「ちがうの」
「う? え、えーっと……緒方さん家の恵子ちゃんだろっぺ!?」
「ちが……うの」
知り合いなのか、秋桜が麦わらのおぢさんに声を掛けるがおぢさんは知らない様子。
自分は覚えているのに、相手に忘れられるなんて切ないのよ……。ほら、秋桜なんて涙目になっているじゃない。
「あ、あぁ! あれかっ、日向さん家の秋桜ちゃんかぁ! 元気にしてたか?」
「おぢさん、絶対、一瞬、忘れてた……」
ようやく思い出したのか、麦わらのおぢさんは秋桜の頭を撫でながら陽気に笑っている。
どうして田舎のおぢさんは何かを誤魔化すとき、とりあず笑うのよ。笑っておけば、何でも済むとでも思っているのだろうか。しかし、そんなことよりそろそろ紹介してほしいのよ。
「あ、おぢさん。そこでラッコのように横になっている子は私の親戚の日向向日葵なの。それで、あそこの川で気が狂ったかのようにはしゃいでいる元気な子は私の妹の紫陽花。覚えてる?」
「あぁ、覚えているさぁ。この白クマのように寝そべっている子はあれっぺ? お前さんらとよく遊んでいた女の子だろう? えらい美人さんになったなぁ……。で、向こうにいるのが、ハハ、まだ色気より食い気って感じだっぺ」
麦わらのおぢさんはニッと笑ってそう言う。
…………。
ふ、ふん……私を褒めたって何も出ないのよ。
けれど、このおぢさんも私のことを知っているのか……例の如く、私は全然記憶にない。
記憶喪失ってわけではないはずなのだけど。そうか、記憶喪失なら記憶がなくなっているかどうかすら判断できないのよ。
…………やっぱり、そう、なのかな。
「向日葵、このおぢさんは鮎釣り名人の海原海蔵さんなの」
「よろしくなぁ、向日葵ちゃん。あれか、嬢ちゃんくらいの歳なら魚を釣るより、そこいらの男どもを釣る方が好きっぺなぁ? がははははっ」
よ、余計なお世話なのよ。何よ、その下品な笑い方は。
よし、手帳には『海蔵は笑い声がレイパーなおぢさん』とでも追記しておくのよ。