ハジマリ
『武さん……』
『百合子……』
それは遠い遠い冬の幼き頃の私の記憶。
障子の隙間から覗いたその世界は、まるで知識のない幼少の私にとっては只の光景に過ぎなかった。別にその部屋を意図的に覗こうとしたわけではない。
ハジマリはほんの些細な出来事であった。
庭先で何の気なしに木の棒で蟻をつつくという子供さながらの遊びをしていた夜のこと。
都会の、しかも住宅密集地には珍しく、庭先に一匹の蛍が舞っている光景を私は目ざとく発見した。いや、季節とか土地柄とか考えればもう珍しいとかそんなレベルでは片付けられないと思うけれど。兎にも角にも、幼少の頃の私はソレにとても興味を引き、蛍を目で追った。
夜間に見える一匹の蛍は周りの黒の中で光り輝き、余計にソレが私の幼心を刺激したのだろう。
そうして蛍は寒空の下、ふわふわと風船のような動きをし、一戸建ての民家に向かっていく。その民家はまさに私と父と母の家だったのだが、私は蛍を目で追うだけでなく、ついにはふらふら~っと歩いて追っていった。そして、庭先の廊下を跨いだ先にある僅かに開かれた障子の隙間に蛍は入っていった。無論、好奇心に満ち溢れた幼い私がソレを見逃すはずもなく障子に手をかけ、部屋に入ろうとしたまさにその時。
障子の隙間から見えた光景は別世界だった。
『はぁはぁ……! あぁっ、あぁう……!』
『うっく、くっ……! 百合子……百合子!!』
頼りない蛍光灯の下、敷かれた布団の上に重なる男女二人。
揺れる裸体、ほとばしる汗、異様な臭気、パンパンッと定期的に鳴る音。
幼い私にはソレが只の光景にしか見えなかった。しかし、その光景が普段映る世界、視界とは全然違ったから。只の光景に見えても、私はその光景から目を離せなかった。
『違う……違うっ!! わ、私は……い、いやいやいやいやぁ!!!』
『は、はぁはぁ……はぁ、百合子、百合子っ、おっ、俺はお前のことを……百合子ぉ!!』
母の方は父の度重なる激しい尻打攻撃に耐えきれなくなったのか、四つん這いの状態から必死に離れようと試みるが、父の脂ぎった芋虫のような指が白い尻を掴み、それを許さない。只の風景として捉えていた幼少の私には父が母を苛めているようにしか見えなかった。今思えばあれは、何ていやら……げふんげふん。とにかく、そんな光景を見せられては掴みかけた障子を開く勇気はなかった。
『あ、あなた……も、もう……』
『うっ……うぅ。百合子……俺はまだ、まだまだだ。はぁはぁ……それとも、何だ? お前は俺を差し置いて、勝手に、はぁはぁ……勝手に行くのか……? んん? えぇ、おい?』
『そ、そんな……ひ、酷いっ、あうっ!!』
父は尻打攻撃だけでなく、弱弱しい子犬を責めるような口調で母の耳元で囁く。母は母で口では嫌々言いながらも、もっと躾けてくださいっていう表情を浮かべている。
人が違う。
私に対して教師の如く厳格でいつもつらく当たっていた母。
正反対に、私に対して優しくも、赤の他人のような物腰で気遣っていた父。
言わずもがな、日常風景はかかあ天下であることは言うまでもない。
それがどうだ。
獣のような荒々しく、切羽詰まった形相でただひたすら目の前の獲物を喰う父。
獣の捕食活動に、ただただ涙を浮かべ、ひたすら喰われるがままにいる母。
何だこれは。
人間こうも変われるものなのだろうか。
幼い頃の私がそこまで考えが及んでいたわけではないが、少なくとも奇妙なモノだと感じていただろう。
その時の私は……一体、どんな表情をしていたのだろう。
『はっ、はっ、やっ……あぅ、あぅ!』
『はぁはぁ……! そっそうだぁ、お前はそうやって犬のように鳴いていればいいんだっ……! 俺が上でお前が下……そうだよなぁ、百合子ぉ!!』
…………。
ところで一体いつまでこの悪夢を見続けなければならないのだろうか。
立派でたわわなバデェに育った私にとってはその行為の意味するところは無論、知っているので両親の粗相は苦痛でしかない。ぱんぱん、ぱんぱん、ぱんぱん、ぱんぱん……こらぁ、早く出せ遅漏おやぢ。
『うぅ……うっ』
『あっ、あ……』
唐突に仰け反る二人。
それはその行為の終着点を意味した。そして、疲れ切った二人は服も着ないで、同じ布団の中で抱き合った。そうして、二人は互いに見つめ合い呟くのだ。
『百合子、好きだよ』
『えぇ……私、も』
そうして優しい抱擁の後のキス。
その光景の一部始終を見つめていた私は、扉の障子に再び手をかけーー。
そこで私の悪夢は途切れた。
「お前とお前の父親は三日後に死ぬ」
目の前にいる少女もとい男の娘である秋桜は淡々とした表情と声色で私にそう言った。
私が……死ぬ?父も……死ぬ?それも、三日で……?
…………。
まさか、この少女兼男の娘は未来を予想できるマジカルでトロピカルな能力を所有するエージェント……という中二設定が自分にはあると思い込んでいるのだろうか。
『……痛い、激しく痛いのよ』
「わふぁひぃのふぉふぉもふぁへふぃふぃふぁふぃひ(翻訳:「私の頬も激しく痛い」)」
私はぶっ飛んだことを仰る目の前の野郎の頬を無意識に抓っていた。
しかし、まさか男の娘の上に中二病を患っている方と出会うとは……これも変人を引き寄せる魅力的なナイスバデェの所為ね、ふふん(←テングな方)。
「……ふぃふぬー(翻訳:「……ひんぬー」)」
秋桜は私に頬を抓られながらも、何処かシラーっとした瞳で私を見つめて口をもごもご動かす。
……今なんか馬鹿にされたような気がしないでもないけれど、兎にも角にもこの状態では話にならないのよ。私は手を離し、解放してやった。
「……痛い。……向日葵はとても激しい」
解放された秋桜は抓られて赤くなった頬をサスサス触り、涙目になる。
こら、そんな女みたいな挙動を取るんじゃあないのよ。この野郎、本当に野郎なのかしら。
疑わしいものは確認しないといけないのよ。そう、今奴が油断している隙にセーラー服のスカートとパンティをずり下して…………冗談なのよ、もしかして本気にした?
『とにかく、冗談でもそんな性質の悪い冗談はやめなさい。本気で怒るわよ?』
「……ごめんなさい。もう言わないから……向日葵に嫌われたくない……」
じわ……。
秋桜は涙声でそう呟く。
くっ、くぅ……な、何かしら。この罪悪感は……私は全然悪くないのに、悪くないはずなのに。な、何よ……そんな上目遣いで見つめてもな、何も出ないのよ……。な、何よこの可愛い生き物は。お、恐るべし男の娘。
「あ、あっーー!! お、お前っ、私のにぃにに何してる!?」
突如、背後で声が聞こえてきたかと思い、振り向くとそこにはふんぬーの表情をしたセーラー服姿の女の子がいた。こいつは……目の前の涙ぐんでいる男の娘とふんぬー少女を交互に見やる。瓜二つの容姿を持つ姉妹もとい兄妹……。
『……単細胞生物なのよ』
「は、はぁ!? な、何だお前は! いきなりわけの分からないこと書くなぁ!! それより、にぃにを苛めたなお前!! 謝れっ、私に」
…………お前かよっ。
と、あれなのよ。こいつはつい先刻に出会った向日葵摘み取り娘、紫陽花なのよ。
しかし、二人並んでみて分かるのだけど、本当にくりそつね……。シャッフルしたら、どっちがどっちが分かんないくらいに。ただ、見た感じ性格は正反対のようだけれど。
「……紫陽花。にぃには向日葵に謝罪中なの。だから、紫陽花……謝れ、私に」
…………。
いや、それも何かがおかしいのよ。
「そ、そうなのか……にぃに、ごめん」
……謝るのかよ。
「そう、それでいいの。じゃあ、向日葵にも謝るの、紫陽花」
「わ、わかった……おい、お前」
紫陽花は兄の秋桜に私へ謝罪するよう促されると、ズイッと偉そうに私の前に出てきた。
……それが謝罪する態度なのか、おい。
「くたばれっ、ぱいぱん!!」
なっ、なぁ!?
「ところで向日葵、お前は駄菓子屋で何をしていたの?」
秋桜は再び、無表情で私にそう聞いてきた。
こら、さらっと流してんじゃあないのよ。くっくぅ……めちゃくちゃ腹立つのだが、ここで切れたら奴の思うつぼなのよ……。ムシムシ、子供の言う些細な悪口は無視するのが立派なバデェを持つ大人の心なのよ。そして考える、私は駄菓子屋に何しに…………。
『そ、ソーダ』
「……そーだ?」
『ソーダーよ! ソーダー! そこにあるソーダーが飲みたかったのよ!!』
「向日葵はうまいこと言う」
そ、そーだった……私はソーダーを飲みたくて駄菓子屋に立ち寄ったのよ。
けれど、私のポケットマネーはマジぱねぇ状態で……いったん戻って、父からお金を借りに、い、いや、目の前の駄菓子屋にあるソーダーは一本きり。戻っている間に誰かが買う可能性も……。ど、どうしよう。当初の予定では、UFOキャッチャーにいたガキふたりに恩を売って、お金を恵んでもらおうと思っていたのに……!く、くぅ、この男の娘が邪魔しなければ、邪魔しなければ今頃の私は、私はぁ……!
「ふっ、フフ……!」
『……おい、そこメス豚。何、笑っているのよ』
「このソーダは私が買うっっ!!」
『な、なんですってぇ!?』
ま、まさかの購買宣言!?
し、しまった……このメス豚もとい紫陽花はここぞとばかりに笑みを浮かべているのよ!?
そ、そんなことされたら私は、私はぁ……。
「フハハハハ、この私はソーダーを買うのだ。ではお金を……」
ごそごそ、ちゃりりーん。
紫陽花の掌にはギザ十が一枚。
「……にぃに、お金貸して」
「持ってない」
「…………」(紫陽花さんの只今の所持金十円)
『…………』(向日葵さんの只今の所持金九十円)
…………。
『よ、よこしなさいっっ!! 今すぐその十円を私によこしなさいっっ!!』
「い、いやだぁ!! これは私のだぁ! お前こそその九十円をわたしによこせばかぁ!!」
『なんでよっ!? あんたの方が圧倒的に少ないんだから私が買うのが筋ってもんでしょ!?』
「筋もクソもこんにゃくもあるかぁ!! うがぁー!!」
「……ソーダーごときで二人とも子供なの」
結局、ソーダーはそうこうしている間にどこぞのガキが買っていきました。