夜長ノ気休メ、其ノ弐
「……ねえ、貴方達、晩御飯は食べたかしら?」
優香は私と秋桜を交互に見ながら、気持ち悪いくらいの笑みを浮かべてそう口を開いた。
まるでこれから舞踏会にでも出ようとでも言いたげな出で立ち、いや……今のこのおばはんは何故かネグリジェなのだから実際にそんなことをすれば、只の痴女で頭のおかしい人扱いされるだけかもしれないけれど。いや、すんごいムカつくのだけれど……下品ながらもどこかプライドの高さ所以か、気高さが感じ取れた。……単に身長がでかいから上から目線でそう聞こえるだけかもしれないけれど。
「……まだ。食べてないよ、優香さん」
秋桜は淡々と優香の問いに対して答える。
……その時の秋桜の表情は、いつもの通りの無表情で、だけれどいつも以上に表情の仮面を被っているようで。その語調からは秋桜の考えていることは読めないけれど。……赤の他人、血の繋がっていない家族。無味無臭、無味乾燥……何故か私の脳裏に殺伐とした熱砂の光景が思い浮かんだ。……いや、コラァ、別に頭の病気じゃないのよ。『優香さん』……かぁ、やっぱり秋桜にとっての優香はママハハなんだと改めて実感できた。
「あら、そうなの……じゃあ、私が腕によりをかけてご馳走しちゃうわね…………三分で」
優香は何が可笑しいのか、さらに顔を醜く緩ませて、鼻の穴を大きくする。
……毒見役は、そうだ、紫陽花にしちゃおう。きっと、フンフンと鼻を鳴らし、『にぃにと関節キッスができる!』とか言いながら犬のように貪り食ってくれるだろう。見ている方は只々その行為にドン引きなのだけど。
「ちょ三分って……優香チャン。それってもしかして、即席麺じゃあ……」
三分という言葉に突っ込まれずにはいられなかったのだろう。我が父は、恐る恐る優香の顔色を見ながら尋ねる。娘である私としては、おやぢの『優香チャン』とかいういい歳こいたオッサンが使うべからずな言葉の方が気になるのだけれど。そしてちょっとその顔色を見ながら、下手に出て相手のご機嫌をうかがっている窓際係長的な父親の姿がもっともっともぉぉぉっと気になるのだけれど。もっとも、我が父は優香というメスに対してでなく、どーも、大人のメスに対しては下手に出てヘコへコする習性があるようだ。……ふんだ、盛りという名の脂がのった中学生じゃあるまいし、バカじゃないの。
「ああ、ホント良い世の中になったわよね武義兄さん。熱湯を注いで三分待つだけではいできあがり状態だなんて……」
「ああ、さいですか……あの、優香チャン? もしかして……家事とかできないタイプ?」
「家事? ハァ? 笑わせてくれるわね、武義兄さん……米って重曹で洗えばいいのよね? この間、どこぞの子が洗剤で洗うとかぬかすから鼻で笑ってやったわ、ハァン! ……ってね」
優香は父の問いに対し、両手を組み、鼻を鳴らして得意気にそう囀る。
……ナニがはぁぁあんよ、喘ぐなコラ。一体全体、どうして奴は周囲の人間に対して無差別にこうも嫌味な視線あんど上から目線を送ることができるのか理解不能なのだけど。もしかしたら、優香の頭の中にはカブトムシでも入っているのかもしれない。そうでなくても、優香の半分は世の中の嫌らしさでできているに違いないのよ。残りの半分は痴女的な何か。間違いないのよ。
「そ、そうだね……ははは、ハハ……ははっ」
我が父は乾いた笑みを浮かべて、ただただ縮こまるばかり。
……。
何よ、このうだつの上がらないバーコードおやぢは。いや、おやぢの名誉のために言っておくと決してバーコードではないけれど。あー、何だかイライラしてきたから卍型に刈り上げてやろうかしら。間違ってコ●ちゃんみたいな髪型になったらゴメンねだけど。……いや、刈り上げ談話はこれくらいにして。
ともかく、無性にイライラするのよ。目の前のおばはんは勿論の事、父に対して、そして自分自身に。
ここからはあくまで、私の妄想……絵に描いた様な想像のお話だ。
現在、一人身の父。父には娘である私が傍にいるが、本来あるべき姿のあるべき役柄のあるべき人間がそこにいない。私にとっての『母』という席は空席のままだ。それはこれからもずっと変わらぬ普遍的なものだろう。しかし……父にとってはどうだろう。ポッカリ抜けたその穴を塞ごうと塞ぐために代替として娘で補うのだろうか。しかしこれはあくまで、私視点で見た考え方だ。父からしてみれば、やはり穴を埋める人間が必要だ……それは時が経てば経つほど思いが強くなる……だろう。その穴をふさぐ人間は……。
「……向日葵?」
色々と抽象的な思考に耽っていると、私の顔を覗き込むように秋桜の小顔が私の視界に現れた。それで私の思考スイッチはエセ哲学モードからいつもの色情モードに切り替わった。……ナニが哲学よ、らしくもない。そんな独りよがりな事を考えていても、そしてこの目の前の色欲ババァを目の敵にしていても何にもちっとも現状は変わらないのよ。只々、心に嫌悪感という名の汚泥が蓄積していくだけなのよ。
「……向日葵ちゃんも……私の手料理、食べられるかしら?」
優香は私に視線を向け、フッと笑みを浮かべてそう言う。市販の即席麺を持ってそんなセリフを呟くだなんて滑稽以外の何物でもないのだけれど、今はとりあえず置いといて。『られる』何て言う所が実にねちっこくて嫌らしい奴の性格が滲み出ているような気がするのは私だけだろうか。しかしここで、奴の淫靡な瞳から目を逸らして、そのまま奴を避けるような真似だけはしたくない。そんな事をすれば自分自信が嫌いになりそうだからだ。私はお返しばかりにできもしない笑みを浮かべて(口角を無理くり上げて……寧ろ、他人様から見ればそれはほくそ笑んでいるように見えるかもしれない)、筆記する。
『ダイエット中なので、遠慮します』
私は坊ちゃん刈りの良家のお利口さん坊ちゃまの様にお辞儀をする。最後に『マダム』とでも付け足したかったのだが、やめた。キレやすい若者、と言われるように人間何がスイッチでキレちゃうのか分からない。見た限りの印象では優香のババァはキレやすいようには感じないし、ましてや若者でもないのは理性を失った野生のゴリラでも分かるだろう。しかし、自分から争いの火種を巻く必要もなく、ましてやその火の粉が身内……父や紫陽花、そして秋桜に降りかかってくるのは何としてでも避けたいのよ。
「なん……だと……? 向日葵、パパは……パパは……ダイエット中だなんて聞いてないぞ。年頃の女の子が食事を抜かすなんてイケナイぞ。パパは絶対そんなの許しませんよ。さあ、たんとお食べなさい」
目ざとく私のノートを見ていた父は、キッと目に力を込めて、真面目な顔をしてそんなことを言う。
ナニが、たんとお食べなさい、よ。そんなにエサが好きなら無理矢理エサを口に入れて、人間フォアグラにしてやろうか。……いや、多分に父が言っていることは正しいと思うのだが、何故だか心情的にムカァっときて私の心の中は怒りのヴァ-ゲンセール状態だった。
「あらそう、じゃあ……秋桜は?」
私が親切ご丁寧にお断りすると優香は私に既に興味を失ったのか、今度は私の隣にいる秋桜に尋ねる。……そういえば、このおばはん紫陽花の存在に気付いているのかしら?さっきから私と秋桜ばかりに目を向けて紫陽花と喋ろうとし……あ、あれれ?周囲に紫陽花がいない。何処へ放浪したのかしら?ついさっきまでいたのに(砂になっていたけれど)。……もしかして、またしーしーか?それとも、このおばはんが登場したから?
【…………あんなの、私たちのママじゃない】
…………。
そういえば、あの子、優香の事を話したらそう言って毛嫌いしていたような気がする。まあ、紫陽花と優香の性格を考えると、まるっきり彼奴等の相性が合わないのは自明の理であるだろう。『嫌味ババァ』と『生意気小娘』……ラードをオカズにマーガリンを食べているようなものね。
「……いいよ、優香さん。私は……何だか調子が悪いから、いい」
秋桜は俯き加減でそう呟く。嘘、先刻から私の隣からくぅくぅ可愛らしい腹の虫が鳴いているのよ。
『お腹が空きましたー』って鳴いているのよ。仮にその音が腹の虫じゃ無いのなら、お腹を下したとしか考えられない。しかし、とうの秋桜はお腹なんて押さえてないし、顔色も実に健康色だ。だったらそれは嘘。これは想像だけれど、もしかしたら秋桜も紫陽花ほど露骨ではないけれど、仮初の母にヨロシクナイ感情を抱いているのかもしれない。ヨロシクナイ感情って、別に親子丼とかそういう意味合いじゃあないのよ、スケベ。
「ふうん……あ、そう」
意外にも優香は秋桜の色よくない返事をきくとくるっと方向転換をして、部屋に戻っていこうとする。
その後に父がおろおろとした様子で私と秋桜、それに優香の姿を交互に見つめながら優香の後についていく。……ただのヒモ男にしか見えないのよ。それに……やけに、気持ち悪いくらいあっさりだったわね。赤ん坊の様に駄々をこねると思っていたけれど。もっとも、熟女の駄々をこねる姿なんて見たくもないのだけれど。ホッと、やっと嫌な輩が去ると一息ついた瞬間……。
「…………ふん、喰えない奴」
聞こえるか聞こえないかくらいの声量で優香はそう捨て台詞を呟く。
……ところで、紫陽花は一体何処へ行ったのだろう。
…………。
あー……風が気持ち良い……。
あれから私はお風呂に入って(一人、タイミングを見計らって)、その後、縁側で夜風に当たっていた。ふう……今日は、ちょっと色々あって疲れたわね。こんな時には、これでもかってくらいキンキンに冷えたラムネをこれでもかってくらいにぐびぐび飲んで、お口の寂しさを枝豆でもつまんで紛らわしたいところね。これがおやぢならラムネのところが苦麦汁に代わるのだろうけれど。あー、誰でもいいから誰か私にキンキンに冷えたラムネとホックホクの甘味が多し枝豆を持ってきてくれる素敵な美少女はいないかなー、あー……。私はその場で仰向けにゴロンと転がる。
「……やっほ」
私の視界に映るはずの綺麗な夜空は日本人形のようなおなごに様変わりした。我らがアイドル、秋桜様のおな~りぃ~……なのよ。そして私の頬に何やら冷たいモノが当たった。……ラムネ。私はのっそりと冬眠から目が覚めた熊の様に起き上がり、秋桜を見る。
「ソーダ……向日葵、これ、好きなの。私も……好き。だから持ってきた」
『……そうよ、そうです私はソーダが大の大の大大大好物です。布団の中でも抱えるくらい愛くるしい存在で逐一ソーダを見ていないと不安で不安で仕方ないくらい……大好物なマイ・ベスト・オブ・ザ・清涼飲料なのよ。……それはいいとして、そのひょうたんみたいな形した緑色の物体は何なのよ、コラ』
「……? 向日葵、この食べ物見るの生まれて初めて……?」
秋桜は不思議そうな顔して、ポリポリと緑色物体を摘まむ。……ええ、枝豆ですよこらあ。
まあ、ラムネは……昨日、私と紫陽花がラムネ争奪戦を繰り広げているのを秋桜が見ていたから分かる。でもね、枝豆って……。あまりに秋桜の給仕のタイミングの良さに、私はちょっぴり恐怖心を覚えてしまったのよ。もしかしてこやつは、前世の私の愛人だったのか、とか本当は人さらいにやってきた宇宙人なのかだとか、一瞬、色々と考えちゃったじゃない。
『お前はえすぱぁーちゃんか』
「ふみゅっ」
私は唐突に右手の人差し指で、秋桜の左の頬を軽く突く。柔らかい触感が指先に伝わってきた。
「えっ……ひ、向日葵」
『お前はえすぱぁーちゃんなのか?』
「ふみっ?!」
そして今度は、彼奴の両のほっぺを両手でサンドイッチする、柔らかい感触が掌に伝わってきた。
『お前はえすぱぁーちゃんなのかぁああああ!?』
「ふあっ!?」
そしてさらには、右手の人差し指で、秋桜の右肺の位置……おぱーいをつんつく。
はい、日向向日葵十八歳、完全に調子に乗りました……の巻。まあ、オトコノコだし……どうせあんたの胸板はあっつい筋肉で覆われているんでしょって気持ちで軽く突いたのだけれど。
……えへへっ、……こ、コラあ?あ、あによ……こ、この指先から伝わるだ、弾力のあるプリンの様な感触ははあ……いっ、いや?ま、まさか……まさか、まさかの?
『し、シリコンパット……ですか?』
「なっ何するの! ひ、向日葵のえっち! スケベ! 変態!」
秋桜はハバネロ暴君みたいな顔色で私を罵しり、ポコポコと痛くもないぬこぱんちで私の頭を叩いてくる。しかし今の私は秋桜の羞恥の反応なぞどうでもよく、謎の触感に混乱と挫折と興奮その他いろいろな感情が頭の中でひしめいていた。……さ、最近のパットはやけにリアルに作られているのねえ……オトコノコのくせにやるじゃない……あははは、はは……は。……現実逃避、多分きっとおそらく秋桜はパットをつけなければならぬなんらかしらのオトコノコ事情があるのだろう。そうだ、オトコノコ事情だ、私が証明してやる。……だめね、混乱してる。何を意味不明な事を考えているのよ、私。
『まあ、それより……秋桜、ラムネと枝豆、ありがと』
「そ、それよりぃ!? ひ、ひどいの向日葵!! 私にセクハラしておいてそれよりはないと思うの!!」
『やかましい、穢れのない高潔で淑女で立派な私の神の手があんたの貧相な胸に触れられただけでも感謝しなさい……おっぱいご馳走様でした』
「う、うわあん!! ひ、向日葵が壊れたの!! 向日葵がいつもの向日葵じゃない!!」
秋桜は大声で向日葵ガ-向日葵ガ-と鳴き始める。
う、うるさいのよ、バカ。ご近所様の玉の様な赤ん坊が泣きだしたらどう責任取るつもりよ。私はあーあー喚く秋桜を適当にあしらいながら、口に枝豆を入れる。……現実逃避って、ほんと、すっごく大事なのよ、ね?
「はあはあ……向日葵って時々、常人では考えられない行為をする……」
秋桜は目じりに少し涙をためて胸を隠すように手を交差する。
……あー、そのあんたの羞恥心に満ちた表情を見ていたらまた良からぬ想像をしてしまうような気がする。猜疑心に服を着せたような性格をした私にとっては、今にも彼奴の身に着けているものを剥ぎ取って、この疑心に満ちたモヤモヤな脳内をすっきりさせておきたいのだけれど。そんなをキチ●イ行為をすれば、私はすぐさまブタ箱に連行されるだろう。そして今思えば、昨日、お風呂場で秋桜は身体にタオルを巻きつけていた。……もやもや、か、確認したいぃ、いや別に彼奴がオスであろうとメスであろうとどっちでもいいのよ。『先っちょだけでいいから見せて?』とでも言おうかしら。……コラ、これじゃあただのエロおやぢじゃないのよ。
「……ど、どうしたの向日葵? 赤ちゃんが産まれる直前の妊婦さんみたいな顔して……」
……ぐぐっ、ぐっ。
が、我慢、なのよ。い、いずれ……秋桜本人が然るべき時に真実を語ってくれることを祈ろう。
ここで我慢しないと私は只の危ないお姉さんになってしまうのよ。私は奮い立っている自分を落ち着かせるように心の中で深呼吸をして、再び秋桜と向き直る。
「だ、大丈夫? 向日葵」
至近距離で秋桜の顔が映る。二重瞼の瞳、瑞々しい唇、愛くるしい小動物の様な小顔……。
うっ……やばい。ナニがやばいのか自分でも分からないけれど、とにかく私の中の何かが決壊しそう。力強い何かに押し出されて。私は自然に火照ってくる自分の顔を隠すように秋桜から目を背ける。
「こ、これ飲む……? ほとんど残っていないけど」
秋桜は私の眼前に中身が半分くらい残ったラムネを差し出す。コ、コラ……それは間接キスじゃないのよっ。……あ、あれえ?間接キスで赤面だなんて……お、おかしい、何が可笑しいのか自分でもよく分からないが何時から私は恋する中学生状態になってしまったのだろうか。前だったら間接キスなんてアホ臭く思っていたというのに。や、やばい……ほんとに、ヤバい。しつこいけれどナニがやばいのか自分でもよく分からないけれど、このままでは自分という自分を抑えきれそうにない。は、はやく……ここから離れないと。少なくとも、秋桜がいないところに……。
『も、もう、お子様はおねんねする時間なのよ……さ、さいなら』
「お子様がおねんねする時間って……まだ八時にもなってないの。って、ひ、向日葵!?」
私は奴の言葉を無視するように家屋に逃げ込む。
はあーはあーはあー……この胸の高鳴りは何なのよ、コラ。わ、私は何かの病にかかってしまったのだろうか。とにかく、こんな時は、早く床について、ぐっすり眠るのがいいのよ。うんうん、そうしよう。私は未だ鼓動がやまぬ胸を押さえるようにして自分の部屋に戻った。
何時までも涼んでいると体に悪いし、夜更かしすると肌の美容にも悪い。
湯冷めで風邪をひいちゃあ、だめなのよ。そう考えた私は疲れた身体を引きずる様に自分の部屋に戻り、自分の部屋の布団の中に潜り込む。うーん……太陽のかほりがする。誰かが干してくれたのだろうか。ふとエプロン姿の父を想像する。……何故、尻が丸見え状態なのよ。私は気分が悪くなって、目を瞑る。ふっくらとした布団の感触に身をゆだねた私はそのまま睡眠。
おやすみー。
「おやすみなの、向日葵」
ええ、おやすみー。
…………。
って、おい、何故、お前がココにいる。
目を開け、視線を右隣に向けると、いつもの、無表情を装った秋桜の顔が現れた。