向日葵
「向日葵」
雲一つないお天道様の下、私は父のしゃがれた声に呼ばれて振り向いた。
私の振り向いた視線の先には、両手で何株ものヒマワリを抱えて子供の様な人懐っこい笑みを浮かべた初老の父がいた。
「お前知っているか?ヒマワリの種は食えるんだぞ? これが意外といけてなー……ほらっ、試しに食ってみるか? ヒマワリの種は栄養豊富で……えっと、確か鉄分とか鉄分とか鉄分とか、とにかく凛々しい男になるのに必須な食べ物だぁ。ははっ、でもまぁ向日葵は女の子ちゃんだからキョーミ無いか」
父は摘み取ったヒマワリを地面に置き、懐から出したヒマワリの種を私に差し出してくる。
私はただただ黙って種を受け取り、呆然と摘み取られたヒマワリと手の中にある数粒の種を交互に見やる。
ヒマワリが可哀想だよ。
その一言を私の口から直接、父へ伝えたくても伝えられない。
だって、私は不完全な娘だから。
父のしゃがれた声を聞き受け取るこの耳と、田舎の美味しい空気を肌と鼻で感じ取り、ヒマワリ畑と父を見る目。
人間にとって、殆どの機能を神様から授かっている私はこれ以上贅沢は言ってはいけないのかな。
もっとも、その贅沢も言えないのだけれど。
「…………」
「おいおい、向日葵。別にそんな真剣な顔して種と睨みっこしなくていいんだぞ? 嫌だったら、無理して食わなくていいし……ただ、父さんはビールのあてに食ったら意外にご飯がススム君でなぁー……」
父は白髪の頭をボリボリと掻き、照れ笑いを私に見せる。
私は父の見せるその態度が私に気を遣っているということは既にお見通しであった。
父は何かを誤魔化すとき、照れ笑いを浮かべる癖がある。
父と母が私の親権の問題で喧嘩して一時期、別居していた時のこと。
幼少のころの私は内心ハラハラしながら、二人を交互に見やっていたのだが、そんな恐らくは過度なストレスを抱えていた頃の父は私に向かって、こう言ったのだ。
『母さんなぁ……生理で荒れてんだよなぁ。あー、おっかねぇカミさんだぁ。向日葵、だから母さんに近づくんじゃあないぜ?』
にっと何故か照れ笑いを浮かべながら幼少の私に母に近づくな、と暗に警告したのだ。
当時の頃の私は頭に謎マークを浮かべながらも、云々と父の言うことを聞いていたのだが、今からして思えばあれはあぁなるほどそういうことか……と理解できるのだ。
でも、理解はできても納得はできない。
年端もいかない鳥が自分の翼で親の力を頼らず巣立っていくように、私は父のソレが疎ましく思えた。
私は私で、父は父だ。
父が言葉の力で母を口喧嘩で言い負かすことができても、私には無理だ、と言われているようなのだ。
実際にそれは嘘ではないし、私は機嫌の悪い母を抑える自信はなかった。
けれど、それを認めたくなかった。
私は言葉がなくても、こうして生きているのだ。
不完全な私でも、不完全な私をひっくるめて向日葵という私がここにいるのだ。
実のところ、私は苗字はともかく自分の『向日葵』という名前が嫌いだ。
ヒマワリの花言葉は『私の目はあなただけを見つめる』。
他にも『いつわりの富』とか『にせ金貨』とかネガティブな花言葉もあるけれど。
そんなことよりも私はその『私の目はあなただけを見つめる』という花言葉が大大大……いくら大がつくか分からないほど嫌いなのだ。理由は単純明快。私とはまったく無縁の花言葉だからだ。
どういう意味ってそれは……。
と、私が脳内で自分の考えに浸っていると、いつの間にか父がじーっと、怪訝な表情で私を見つめている。え……何、何なの……?意地の悪い子供が丹念込めて作った泥団子を好きな女の子に食べてもらうのを今か今かと待っていますよみたいな表情は……。
「えー……そっ、そんな嫌そうな顔すんなって! はは、別に毒じゃねぇし……よしっ、だったら父さんが見本としてボリボリこいつの種を貪るように食ってやろうじゃあないかっ! よーし、見てろぅ……」
何故かいつの間にか私が食べないといけない展開になってる……。
さっきの父のセリフは何だったのだろうか。というか、父の嬉々とした表情でヒマワリの種を貪るように食べる姿なんて見たくもないのだけれど。というか、その種って本当にそのまま食べられるの……?何か大変ばっちぃような気が……。私は呆然と、父の姿を見つめていた。
「よーし、いくぞぅ……バクッガリッボリッ、んがっ……むっ、か、固いなぁこりゃぁ……案外。ボリッボリッ」
本当にリスみたいに貪るように食べ始めた……。
それに案外……?この人は本当にヒマワリの種を食べた事があるのだろうか?
私は何とも残念な人にしか見えない父を視界から外し、遠くに見える田舎町の方に向いた。
山々に囲まれた小さな家屋が点々と疎らで申し訳ない程度に存在している。
あの町が私と父の新しく住む町……。
今まで車の排気ガスやカルキ臭の強い水に囲まれた生活を送っていたから新鮮だなぁ。
けれど、こんないかにも大気汚染を招きそうな軽トラが綺麗な田舎町の、しかもヒマワリ畑に止まってもいいのだろうか……。
父は『どうだぁ、俺の自慢のぽるしぇだぞぅ』とか言いながら、引っ越し前に私に胸を張って自慢していたけれど。
何だ、この体たらくは。私はこんな色んな意味で情けない父を持って、本当に恥ずかしいです。
何だか甲斐性無しの父に無性に腹が立って私は射殺すように父を睨みつけた。
「……ん?ボリボリッどうひたぁ?」
まだ口をもごもごと動かしている父は私の死線、もとい視線に気づいていないようであった。
私の父はどうやらアホゥのようである。私はそんな父を見て、諦めた。
こんな時に言葉が言えたら。こんな時にうまく言葉が言えたら。
「おうおうおうおう……しかぁし、本当にここいらはヒマワリの多いこと多いこと! 俺の娘がいっぱいにその辺に咲いてらぁ。いつかどこぞの馬鹿野郎に種付けされんだろうなぁ、いてっいててっ! ば、馬鹿! 向日葵、父さんのいたいけな腰を蹴るなよぅ! じょ、冗談だっ冗談!」
本当に誰かどうにかしてこの下品な馬鹿おやぢ。
言葉の暴力が駆使できないのなら、普通の暴力に走るしかないのは自明の理である。
私は下品なおやぢを無視して、田舎へ通じる道を歩き始めた。
「お、おぉい! こら、向日葵ぃ! こ、こんな可愛らしい父さんを置いていくなよぅ!」
私は父の悲痛な叫びを背中で感じ取りながら、父から見えない位置でヒマワリの種を口に放り込んだ。
ヒマワリの種はちょっと固くてほろ苦い味がした。