CASE26.結末
見慣れた天井が目に入る。
どうやら此処は自分の部屋のようだ。
「あれ・・・?」
痛むと思っていた体は全くと言って良いほど痛まなかった。
そもそも何で痛むのかと思ったかも分からない。
携帯電話を取り出し、登録されている番号へと電話を掛ける。
暫くのコール音の後にそれは途切れた。
『お掛けになった電話番号は…』
「え…?」
画面を確認するとそこには見覚えのない番号が表示されていた。
何故この番号に掛けようと思ったのかも分からない。
分からない事ばかりで段々と恐ろしくなってくる。
その時手にしていた携帯電話が逆に着信を告げ始めた。
恐る恐る電話を耳に押し当てる。
「…もしもし…?」
『もしもし?紫月か?』
「廉二?」
『あぁ…急に声を聴きたくなってな…』
「そうなんだ…」
『様子がおかしいようだが、大丈夫か?』
心配そうに尋ねてくる恋人に紫月は安堵した。
「大丈夫…ありがとう、心配してくれて」
『なら良いが…』
火野の低い、落ち着いた声。
酷く安心するものの筈なのに、どうしてだろう。
涙が止まらないのは…
『泣いているのか…?』
「ごめ…何か、解んない、けど…」
『直ぐ行く…!』
「え、廉二…っ?」
通話が切れる。
紫月は耳に当てていた携帯電話を床に落とした。
言い知れない不安に襲われる。
泣いていれば駆け付けてくれる恋人。
優しくて、大人で。
不安なんて全て取り去ってくれる筈の存在なのに。
「何なの…っ、」
涙は止まらない。
次から次へと溢れ出る。
─じゃあ、今度さ…
「ッ…、」
誰かと約束した。
誰かは解らないけれど、きっと大切な約束。
床に落ちた携帯電話に表示されている日付。
今日は6月6日…
「し…、ろ、う、」
口をついて出た名前。
それを口にした瞬間、あれほど迄に流れていた涙がぴたりと止まった。
開けていく視界。
やらなければならない事は唯一つ。
紫月は腕で涙を拭った。
「紫月、入るぞ?」
返事は無い。
火野は閉ざされたドアに手を掛けた。
中は暗く、窓から差し込む月明かりだけが唯一の光だ。
その窓辺に彼女は立っていた。
「紫月?」
「廉二…、私に嘘吐いてるよね…?」
「……」
月明かりに照らされた横顔は青白く、死人のようだ。
「その眼帯は…どうしたの?」
「覚えて無いのか?お前と一緒に交通事故に巻き込まれたんだ。」
「嘘だ!」
確信めいた言い方に火野は口元を歪める。
「思い出したのか…?」
「…やっぱり嘘なのね…」
火野の口振りに紫月が噛み付いた。
断片的な記憶が手繰り寄せられていく。
それと同時に火野の表情ががらりと変わった。
「薬の効きが悪かったか…」
「薬…」
「健忘性のある薬剤を点滴で投与した…お前を手に入れるのは本当に骨が折れるな…」
このはっきりしない感覚はどうやら薬の所為らしい。
目の前にいる男は目的の為には手段を選ばない人間のようだ。
「もう一度点滴を入れよう。濃度の調整が必要なようだ。」
「冗談じゃない…!私は廉二の玩具じゃない!」
「聞き分けの無い奴だ…」
じりじりと距離が詰められていく。
紫月はただそれをじっと見つめていた。
「おいで…」
抗い難い声音。
思わず動きそうになる体を叱責するように、紫月は手の中にあるものを握り締めた。
「嫌…私は、帰るの…」
「もう帰ってきている…」
「違う!」
望む場所は此処では無い。
「我が儘な奴だ…」
動こうとしない紫月に焦れた火野が先に動いた。
手を伸ばし、紫月を無理矢理引き寄せる。
「どう足掻いても、お前は俺からは逃げられない。」
耳に落ちるのは死刑宣告。
きつく締め付けてくる腕の中で、紫月は身を捩った。
しかし拘束は解ける気配が無く、諦めたように紫月は腕を下ろした。
「それで良い…」
満足げに火野が紫月の髪に口付けたその時…
「ダウト、…火野廉二。」
「紫、月…、お、前…」
鮮血が勢い良く吹き出し、みるみるうちに紫月の顔はが赤く染まっていく。
「私はアナタをダウトした筈だよ…、廉二。」
「ッ…ははは、油断したよ…、」
火野の首には、鈍く光るガラス片。
躊躇う事無く刺し込まれたそれは、火野の頸動脈を貫き通していた。
首元を押さえている火野の手の隙間からは、ごぽごぽと血が溢れ出している。
「望み通り狂ってあげる…でも、アナタのものにだけはならない…」
返り血を浴びながら、紫月は綺麗に微笑んだ。
それが火野の目には何よりも美しく映った。
「悔、しい…な、今の、お前こそ、欲し…かった…のに…」
「良かったじゃない…後悔を残して、死ねばいい…」
「そう、だな…」
蒼白な顔色で、火野はそれでも笑っていた。
「だが、後悔するのは…案外お前かも、しれない…」
「馬鹿言わないで、」
「唯一の理解者を、失うんだ、…お前は必ず、俺に焦がれ、る…」
倒れていく火野から視線を外す。
少し遅れて、どさりという音が響き彼が事切れたのだと解った。
呪いのような言葉を残して。
無感情に、紫月は窓際へと戻る。
窓から見える月が、真っ赤に染まっていた。
「終わったんだよね…」
答えてくれる相手はいない。
紫月は静かに瞳を閉ざした。
「四郎…、」
目蓋に焼き付く「赤」に、彼を思い出した。
しかしそれは直ぐに壊れていく心にかき消された。
「ダウト…、」
「一宮、紫月…」
罰ゲームを執行するため。
紫月は開け放った窓から身を乗り出した。
落下していく浮遊感。
叩き付けられる衝撃を待たず、紫月の意識は途絶えた。
最期に思い出したのは、「彼」の笑顔。
心は既に壊れていた。