CASE25.脱出劇
だらりと垂れた手。
広がる血の海。
彼女に馬乗りになり茫然としている火野。
全てが非現実。
なのに。
動かない手が。
痛む足が。
眼前に広がる光景を現実だと肯定する。
「何故、俺を拒否した…何故…」
疑問を繰り返し、火野は虚ろな瞳を揺らす。
「『火野』だと…?抵抗のつもりか?なぁ、紫月!?」
確かに滅多刺しにされる中、紫月は火野の事を名前では無く苗字で呼んでいた。
他人に戻るのだという決意表明かのように。
「木ヶ山…お前の所為か…?」
「…ふざけんな!この期に及んでまだンな事言うのかよ…!?」
火野がゆらり、と立ち上がる。
右手に握られたままになっていたナイフから、血が滴り落ちた。
それは紫月の命。
四郎の目から涙が溢れる。
「紫月…紫月ッ…」
「お前は、帰るんだ…」
「何を…」
火野が顎をしゃくって合図を出す。
あの黒子達だ。
「紫月と一緒になるのは俺だ。死体だってお前には渡さない…」
「ふざけんな…お前に、何の権限があンだよ…!!」
「黙れ…生かしてやると言っているんだ。大人しく従え…」
黒子は四郎の両手を持って引き上げた。
痛みが脳天を突き抜ける。
しかし此処で意識を失うわけにはいかない。
「返せよ…紫月を!!!」
その声にだらりと投げ出されたままだった紫月の手がぴくりと動いた。
血塗れになった虚ろな瞳が四郎を映す。
「…、」
「!」
まだ彼女は生きている。
火野からは死角になっていて紫月の姿は見えていない。
彼女の口が薄く開いた事すら気付いていないようだ。
「おめでとう、木ヶ山四郎…このゲーム初の脱出者だ…」
出口と思しき階段が体育館の中央から現れた。
ずるずると引き摺られるまま四郎の体は其処へと向かう。
(後‥少し、)
失敗すれば後は無い。
横目で全ての位置関係を把握する。
痛みを頭の中から追い払い、ただ期を待つ。
(今だ‥!)
「っらあ!!」
両手足を負傷した四郎に抵抗されるとも思ってなかったのだろう。
黒子たちの拘束は存外あっさり解けた。
そして四郎は直ぐ傍にあったバスケットボール籠を引き倒す。
跳ねるボールに怯んだ黒子達を掻い潜り、その中の一つを拾い上げた。
コントロールには自信がある。
思い切り振り被り、火野目掛けてそれを投げつけた。
「くっ、」
重みのあるボールが火野の側頭部に命中する。
火野の体が揺らいだ。
「紫月!」
「し、ろ‥」
出来た隙をついて四郎は紫月に駆け寄る。
痛みはとうに限界を超えていて、今にも意識は遠のきそうだ。
しかしそんな弱音に心を傾けている暇はない。
唯一力の入る右手を支えに紫月を抱き上げると口を開けたままになっている階段へ放り込んだ。
「やってくれる…無駄な足掻きだ…」
「無駄ならやらねぇ…!!」
取り出したのは校内を探索した際に美術室で見つけた彫刻刀。
万が一の時を思ってポケットへ忍ばせておいたのだ。
「お前にだけは…譲れねぇ!!」
渾身の力でそれを火野の右目に突き刺した。
人殺しになる、とか。
気持ちが悪い、とか。
そんなことは頭から失念していた。
ただ目の前にいる男には殺意しか湧かない。
「ぐあぁぁぁっ!!」
響く断末魔をそのままに、四郎は階段へとひた走る。
紫月の赤い手が弱弱しく伸ばされているのが視界に入った。
「し、づき…!」
その手を目指し、ただ駆け抜けた。
しかし、その時がくりと体が揺らいだ。
意識に反して足が急に動かなくなる。
視界までが急速に白み始めた。
「し・・・づ、」
体の方が先に限界を超えたのだ。
伸ばした手の先で、ゆっくりと階段の扉が閉まっていく。
(…お前、だけでも…無事なら、良いんだ…)
扉が完全に閉まると同時に、四郎の意識はぷつりと途切れた。
その口元には僅かに笑みが浮かんでいた。