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センチになって ~ I’m Getting’ Sentimental Over You

 リハは続いていた。今日のスタジオは仕事じゃない。病気のことを考えれば今すぐにでも楽器を置くべきなんだろう。来月には手術を受ける。それが主治医の大河原との約束だ。それまでは、せめて音を出していたい。一樹は無理を言って、ベテランのスタジオミュージシャンたちが自主的に組んでいるリハーサルバンドに交ぜてもらった。このバンドには、ライブの予定もなければCDを出す気もない。ただ、好きな音楽を好きなだけ。

トランペットにテナーサックスにトロンボーン、三管編成のバンドはリズム楽器だけと違ってとにかく音がにぎやかだった。近くの人間と話をするのにも大声を出さなくてはいけない。広いスタジオの片隅で事務所の横沢が何やら怒鳴っているようだが、内容はわからなかった。一樹はプロテクターの金具をはずすと、そっと楽器スタンドにトランペットを差し込んで横沢の方へと向かっていった。

「メール、メールみたいですよ」

 横沢が叫んだ。それに聞こえてますよと大声で返し、一樹は自分のバッグをたぐり寄せた。

 篠原からだ。

 一樹は画面を開くのをためらった。リーダーの永井がリズム隊に指示を出している。ベースのリフが合わないようで、長くかかりそうだ。メールを読むのは後にするか、そうも思ったが自分の心が後ろ向きなことがイヤだった。思い切って携帯のボタンを押す。一瞬画面がぱっと明るくなった。

「十五日を空けといてください」

 最初の文字が目に飛び込んでくる。意を決してカーソルを下に動かす。篠原らしい簡潔な文のメールだった。忙しいと思うけれどよかったらその日、式とパーティーに参加してください、トランペットを忘れずに、と。

 二人の結婚式の案内だった。

 桃子さんが下した決断は、そういうことなのだ。

 一樹の心が相反する二つの思いでいっぱいになった。胸がぐっと詰まる。だがここで泣き出すわけにもいかない。一樹は自分のあまりの子どもっぽさに逆に笑い出しそうになった。ポケットに差していたサングラスを取りだすと、あわてて掛けた。うまく表情が隠せるだろうか。心許ない。一樹は携帯をバッグに落とし込むと席に戻った。楽器を左手に固定してマウスピースをはずす。軽くバズィングをするとあの日の唇の感触が思い出されて、一樹は目をつぶった。

 桃子さんは篠原さんを選んだ。そしてそれは正しいことなのだ。大切な二人が幸せになって欲しいと願うのは、紛れもなく一樹の本心だった。なのに、心はどんどん冷えていった。冷たい氷の固まりが胸の奥底に置かれたような息苦しさがあった。耐えなければならない、これから一人で耐えなければいけないのだから。

「あのさカズさんや。君はマッピ握りしめて何やっとんの?」

 いつの間にかリハはホーンセクションへと標的が移っていたようだった。永井が呆れた声で一樹に声を投げかける。はっとしたように一樹はマウスピースを楽器に差し込むと、構える姿勢を取った。

「すいません、あの、どっからでしょう……か」

「アホ!おおかたカノジョのことでも考えとったんだろうが!」

 スタジオ中に笑いが起こる。この中では一樹が一番若い。もう一度すいませんと繰り返し謝る。サックスの佐久間がそっと譜面を指さす。二つ目の決めの前、ハイノートで主旋律を取るところだった。少し気合いを入れてアンブッシュアを作る。ドラムがカウントを刻む。パーンと最初の音を出した、つもりだった。なのに見事に音をはずした。こんな失敗はジャムズでもしたことがない。みんな肩すかしを食らった形になって、また笑われた。一樹は一人焦ってハイノートを出そうとするが、気持ちが先走るばかりでちっとも音にはならなかった。

「そこさあ」

 永井がスコアに鉛筆で書き込みながら指示を出す。キー下げようか、と。

「いえ大丈夫です。すいません、いつもなら何てことない音域ですから」

「ホントに大丈夫?じゃあさ、ダルセーニョして戻ったら譜面に書いてあるよか四度、上げて」

 永井がさらっとトランペッターには過酷な条件を突きつけてきた。もともと高い音には自信があった。だがさらにその四度上ともなると、さすがの一樹でもコンディションに左右される。少なくとも今日は、無理だ。冷や汗が流れる。気持ちがちっとも集中していない。何てざまだ。自分のふがいなさに呆れた。永井の求めるサウンドに応えきれない自分がイヤだった。一樹は掛けたばかりのサングラスをむしり取ると、もう一度お願いします、と大きな声を出した。今度は譜面通りの高さでハイノートを決めた。明日には必ずこの四度上で吹きますからと永井に宣言するが、いいよ無理しなくて、と受け流されてしまった。悔しい。唇を噛む。

 休憩に入るとトロンボーンの向山が、きっついよなダブルハイB♭は、と笑って話しかけてきた。

「できないのはできないって早めに言っちゃった方が楽だよ。じゃないと永井さんどんどん酷いこと要求してくるから」

「すいません、迷惑かけて」

 素直に頭を下げる。できないのは演奏技術の拙さからではなく気持ちの問題だ。プロとして集中できなかったのは最低だ。一樹は自分を責めた。

 誰もいないロビーで、一人一樹は座っていた。革のプロテクターを外す。最初に作ってもらってから、もう何代目になるだろう。楽器の重みがある点に集中してかかるから、思ったよりは長くもたなかった。汗がにじみ、ベルトはよれている。それでも、このプロテクターのおかげで、今までプレイヤーとしてやってくることができたのだ。大事そうに革のそれをケースにしまうと、一樹は左手をもう片方の手で包み込むようにした。

 手の甲に残る大きな傷跡、そして三本の全く動かない指。鈍く続く痛み。

 おれは、いつまで吹き続けられるのだろうか。

 一樹はそっと目を閉じた。



(つづく)

北川圭 Copyright© 2009-2010  keikitagawa All Rights Reserved

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