嘘は罪 ~ It's A Sin To Tell A Lie
「篠原さん、いつもは遅いの?」
カボチャをほおばりながら一樹が聞く。ライブが長引いて夕飯を食べそびれてしまっていた。ほらあわてないで、桃子がお茶を差し出す。今までの確執が何もなかったかのように自然に会話が続くのが二人にとって不思議だった。このままでいられたら、でもきっとそれは無理な話なのだ。一樹は右手だけで器用にタッパーを開けると、次のおかずに取りかかった。
「そうね、平日はいつも九時過ぎかな。朝もわりと早いし。でも通勤に時間がかからないだけいいんじゃない?」
桃子は洗い物に戻ってそう答えた。神原の家では当たり前の日常だったことも、今の一樹には縁遠いものになっていた。たった一人誰もいないこの部屋に帰る。それがどんなに寂しいことか、でもそれは桃子には決して言えないことだった。自分で決めたことなのだから、もう自立しなければ。一樹は相反する気持ちと一人たたかっていた。
「シアトルに出発するまで、篠原さんがジャムズに住めて良かったじゃない」
「一樹を追い出したんじゃないかって、ずいぶん気にしてるわよ」
「そんなこと、ないよ。残りの荷物はそのうち取りに行くね。CDコンポは篠原さんに使ってもらっていいから。後は服ぐらいかな」
「本当にここでずっと暮らすつもり?」
桃子が一樹に真正面に向き合った。一樹は思わず目をそらした。タッパーを手で隠すようにたぐり寄せる。一樹!桃子が声を大きくした。
「……そうだよ。一人暮らしをするって決めたんだから。一人の方が気兼ねしなくてすむから楽だよ。休みの日に布団干すからって朝早く叩き起こされることもないし、訳わかんない当番もないし、毎晩ジャムズで飲んだくれなくたっていいし。桃子さんだってその方がいいだろ?」
幾分拗ねたような口調で一樹が答える。桃子は優しい眼差しを彼に向けた。
「いつでも帰ってきていいのよ。部屋はそのままにしてあるから」
「横浜と下北とここと、おれ一人に三つも部屋はいらないよ。ジャムズの部屋は片づけちゃっていいからさ。篠原さんだって客室じゃ狭いだろう。おれの部屋だったところに荷物を置けば…」
目を合わせないまま一樹がそう答える。桃子はタオルで手を拭くと小さいテーブルの華奢ないすに腰を下ろした。近くの量販店で買ってきた間に合わせの家具。殺風景な部屋の雰囲気にそれは妙に似合っていて、余計に寂しかった。
「ご飯だけでも食べに来たら?外食が続くと身体に悪いわ」
「それじゃ家を出た意味ないじゃん。大丈夫だよちゃんと魚も食べてるし。それより」
結婚式はいつやるのさ、一樹が箸を置いて下を向いたまま桃子に訊いた。今度は桃子が黙ってしまった。一瞬沈黙が流れる。あきらめたように桃子がため息をつきながら続けた。
「式は挙げないわ」
「どうして。ダメだよそんなの!ちゃんと結婚式しなくちゃ。ドレス着てさこうやってブーケ持って、マスターが桃子さんの横を腕組んで歩いて」
「そんな、ドレス着るっていう年じゃないし」
「ダメだよ、年なんか関係ないじゃん!みんなだって楽しみにしてるし」
何故か一樹はしつこく食い下がった。桃子は苦笑いをしながら細く綺麗な指を胸の前で組んだ。篠原から贈られた銀色の指輪が、左手の薬指に光っていた。桃子は右手の親指と中指でそれをそっと回す。それは桃子の指のサイズとは微妙に合わないその指輪をもらった時からの彼女の癖になっていた。
「式は、挙げないわ。結婚するかどうかもわからないのに」
「まだそんなこと言ってるの?いい加減にしなよ桃子さん!一緒に暮らしてるのに今更何言ってんだよ、篠原さんだから待っててくれてるんだぜ。普通怒るよ、桃子さんあのね!」
「そんなに…」
桃子が一樹の声を遮るように口を出す。思い詰めたような声だった。
「そんなに私を結婚させたいの?」
その言葉を聞いた途端、一樹は表情をこわばらせた。顔を上げると荒々しく立ち上がり桃子の手を取って無理矢理立たせた。急に引っ張られて桃子はバランスを崩し、テーブルに片手をついた。
「痛い、何するのよ一樹!」
「帰れよ!もう帰れよ、帰ってくれよ!二度と来るな」
「何よ、怒ったの?急に何を言い出すのよ」
一樹は有無も言わさず桃子を狭い玄関の方へ押しやった。彼女の荷物を乱暴にまとめると桃子の手に押しつけた。
「これ持って帰れ。もうここには来るな!」
「何だかわからない。何でそんなに怒っているの?」
「桃子さん、無神経だよ。何だってそんなこと言えるんだよ。わかんないの?もういいよ!」
一樹はドアを開けると桃子の身体を外へ押し出した。桃子があわてて靴を履く。それを待つ間もなく鼻先でドアをばたんと閉めた。
「一樹!ちょっと一樹?開けてちょうだい、まだ話は…」
「もう帰れ!」
後ろ手でドアを押さえる。桃子の一樹を呼ぶ声だけが背中で響く。それもしばらくして静かになり、やがて桃子のパンプスの硬い靴音が廊下を遠ざかっていった。
雨の音が部屋の中にまで聞こえてきた。傘を持っていただろうか。もういい、そんなことどうだっていい。一樹は一人になった部屋で、まだ玄関に立ちつくしていた。
廊下を過ぎ、エントランスホールまでついたのか。もう外に出てしまったか。一樹は動けないままだった。何かをこらえるかのように歯を食いしばり、顔を必死で上げていた。目をつぶる。
限界だった。
押さえきれない何かに突き動かされるかのように、一樹はドアを開けて廊下へと飛び出した。もういない。踏み出した足が一瞬止まる。一樹は頭を振ると唇を噛み、外へと駆け出した。雨が一樹の身体を叩く。顔にかかる雨も気にせず、マンションの前の細い路地を走り出す。桃子の水色の傘が目に入る。一瞬のためらいの後、一樹は桃子さん、と呼びかけた。
振り向くな、気づくな、こっちを向くな。本当の気持ちとは裏腹に一樹は願った。気づかなければいい、そのままでいてくれたら。
なのに、雨の音が大きいはずなのに一樹の声が聞こえたのだろう、桃子の歩みが止まった。傘が振り向く。驚いたような表情を浮かべる。一樹は息を飲んだ。今なら引き返せる。だがもう遅かった。足が勝手に動き始めていた。桃子に近づく。最初は一歩一歩が重かった。重力の何倍もの力が身体全体を押さえつけていた。なのに止めることができない。止めろ、引き返せ。冷静なもう一人の自分が必死に叫んでいる。それを振り払うようにして一樹は足を速めた。桃子が訝しげに立ち止まっている。雨足が強くなってきた。
「一樹?」
もう桃子の声が届く距離まで近くなった。一樹は何も言わない。走り寄ったまま腕を伸ばし、力一杯桃子を抱きしめた。
「……!?」
一度だけ桃子が小さく抗った。傘が足元に落ちる。一樹は手の力を緩めなかった。長身を少しかがめ、桃子の肩を引き寄せる。そのまま自分の胸に桃子の華奢な身体を押しつけた。左の頬を桃子の顔につけるようにしてぎゅっとかき抱く。胸の鼓動が聞こえてしまいそうなくらい近くにいる。一樹は目をつぶった。何も言わずにただ抱きしめ続けた。
一樹にとって気の遠くなるような長い時間がすぎる。桃子はされるがままになっていた。振りほどこうともしなかった。
一樹はそっと目を開ける。すぐ近くに桃子の整った横顔が見える。雨で前髪からしずくがしたたり落ちている。それをわずかに動く左の親指でそっとぬぐう。桃子がほんの少し身体を寄せた。一樹の方を見る。視線が絡み合う。
一樹は右手で桃子の顔を引き寄せるとおそるおそる自分の顔を近づけた。桃子は逆らわなかった。そのまま唇を重ねる。最初はほんの少し、触れあうかどうかわからないくらいに。引き寄せる手に力を込める。何度も何度も、桃子のルージュをなぞるかのように、そして深く。桃子の身体から力が抜けていった。ためらいがちに腕を一樹の背中に回す。雨は変わらず二人を強く濡らしていた。
遠くからクラクションが辺りに鳴り響いた。
はっとしたように一樹は唐突に唇を離した。桃子の潤んだ瞳が一樹を見つめる。一樹はもう一度桃子の顔を自分の胸に押し当ててから、わざと乱暴に彼女の身体を引き離した。 伸ばした腕の分だけ、二人の間に距離ができる。その距離は一樹には到底乗り越えられそうもないものに感じられた。抱きしめていたかった。触れ合っていたかった。このまま唇を重ね、肌を重ね、桃子の体温を感じていたかった。
だが一樹はそうしなかった。力無く腕を下ろすと、桃子の滑り落ちたバッグと傘を拾い、彼女に手渡した。桃子は何も言わない。ただ真っ直ぐに一樹を見つめ続ける。先に目をそらしたのは一樹の方だった。
「……さっさと結婚しちまえよばかやろう。桃子さんなんか」
声がかすれていた。突き上げてくる思いが苦しい。それをぐっと押さえつける。
「桃子さんなんか大嫌いだ」
そのまま身体の向きを変えると部屋に向かって歩き出した。桃子は雨に打たれるままになっていた。一樹は一度も後ろを振り向かなかった。後ろを向いてしまったらもう気持ちを抑えることができないだろう。そしてもう自分は二度と桃子にも篠原にも会うことはできなくなるだろう。その思いだけで一樹は歩き続けた。雨なのか涙なのか、自分にもわからなかった。部屋に戻って思いを断ち切るかのように鍵をかける。自分の薄い形の良い唇にそっと触れる。桃子の感触が蘇ってくる。うっすらと口紅が指に残る。一樹は右手をぎゅっと握りしめた。
(つづく)
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