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帰ってくれたら嬉しいわ ~ You’d Be So Nice To Come Home To

 意識を取り戻すと、そこには真理子の心配そうな顔があった。

 身体を起こそうとする一樹を、あわてて真理子は両腕で制する。

「さっき、栗林医院のおじいちゃん先生が来てくださったのよ。貧血でしょうって。ちゃんと食べてるの?」

 柔らかな日差しが、カーテン越しに一樹のいるベッドまで届いていた。ここは自分の部屋。あの日出ていった時から、ここは時が止まっていた。机の本棚には音楽史の教科書、数学のノート、壁には…制服。何もかもあの時のまま。

「病気だったって、本当なの?何も知らなかったわ。たった一人で、辛かったでしょうね」

 柔らかなベルベットボイスが、一樹を包み込む。姉の声を聴いていると、すべてが夢で、自分はまだほんの小さな子どもで、家族みんながこの家にずっといたのではないかと錯覚してしまいそうだった。一樹の胸の奥が、ちくりと痛んだ。

「私一人が、何も知らずにパリにいたのね。自分だけお父様とお母様を独り占めして。一樹、ごめんね。本当にごめんなさい」

「お姉様のせいじゃない。それに一人じゃなかった。僕には」

 桃子がいた。篠原もいた。勇次が、たくさんの年上の友達連中が、そして何より音楽が。けっして一人ではなかったのだ。

「あの頃、お父様はパリ・ニューフィルハーモニーとトラブルを抱えていらして、とても精神的にお辛かったと、後から別の方に聞かされたわ。私はあまりに子ども過ぎて、何もわからなかった。私にできたのはバイオリンを弾くことだけ。お父様にもあなたにも、私は何の力にもなれないのね」

「そんなこと、ないよ」

 優しい響きの言葉が心地よかった。そっと目をつぶる。

「この家に帰ってきたら?また四人で、一緒に少しずつ家族をやり直しましょう」

 姉の声が甘く心に届く。切ない夢。でもきっと、それはかなわない。一樹はそっとかぶりを振った。

「帰るよ、自分ちに」

「だめよ、まだ顔が青いわ。それに、一樹の家はここよ」

「……ここじゃない。もう、ここじゃないんだ」

 だが、神原の家に居られるのも、あとどれくらいだろうか。今度こそ独りぼっち。その時おれは、いったい誰にすがればいいのだろう。身体を起こす。ベッドから立ち上がる。上体がぐらりと傾いだ。真理子が手を差し伸べるのを、そっと押しやる。上着を取ろうとクローゼットを開けると、見覚えのある中学の詰め襟とともに、真新しいシャツやトレーナーが目に入った。

「何、これ。誰の?」

「あなたの服よ、一樹」

「おれの?」

「あなたがいつ帰ってきてもいいようにって、お母様がご用意してくださっているの」

 一樹はとまどいを隠せなかった。お母様が、どういうことなんだ。

「今年はね、私も一緒に買いに行ったのよ。サイズがわからなくてとても困ったわ」

 姉がいたずらっぽく笑う。少女のような笑顔だった。

「今年は、って、どういうこと?去年も買ったっていうの?」

「あなたがこの家を出てから毎年。去年まではパリから送っていらしたわ」

 一樹は手のひらで口元を覆った。なぜ?感情が錯綜して、一樹は何も言えなくなった。

 部屋を出て階下へ降りる。父はまだ居間にいた。スコアを広げ、何かを書き込んでいる。なるべく音を立てないように一樹は歩いたつもりだった。しかし、すぐに父は気づいて、顔を上げた。

「もういいのか」

「すみませんでした。帰ります」

 自分の父親に頭を下げる。他人行儀な親子の関係も、この家では当たり前のことだった。

 孝一郎の脇を通り過ぎ、玄関へと向かう。後ろからあわてて真理子が駆け寄ってくる。

「お父様、一樹を引き留めて。そんな言葉じゃなくて、もっと優しく抱きしめてあげて。やっと帰ってきてくれたのよ。手放しちゃだめ!お父様!」

「お姉様、いいんだよ。また来るから」

 姉に精一杯の笑顔を送る。ソファに置いたままだった楽器ケースを手に取る。もう一度頭を下げた一樹に、孝一郎が鋭く言葉を投げかけた。

「クラシックに興味はないのか」

「えっ?」

 不意打ちを食らって、一樹は動揺した。とまどう一樹に孝一郎は言葉を続けた。

「男が生まれたら、指揮者にするつもりだった。じいさんは孫を二人ともバイオリニストにする、と頑張っていたがね」

 一樹は黙った。父の言葉を信じられないとでもいうように。

「たとえ指が動かなくとも、指揮者にはなれる。音大なんぞに行かなくとも、いくらでも音楽の勉強はできる。そう思っていたのは私だけだったか」

「……お父様」

「興味がないのならいい。伸子のところのメソッドを手伝いなさい」

 それだけ言うと、孝一郎はまたスコアに向かった。

 静寂が戻り、一樹はしばらくそこに立ちすくんでいた。


#10

 広大は、せっせとジャムズの黒く輝くテーブルを磨いていた。今日は天敵の一樹も姿を見せていない。自然と鼻歌がついて出る。リムスキー・コルサコフのシェヘラザード。一樹にはわかるまい、この旋律の美しさは。

 カラン、と音を立てて木製の分厚いドアが開く。広大は手を止めて、すいません、お店は十一時からなんです、と明るい声を出した。

「ごきげんよう、お店の方かしら」

 入ってきた女性を見て、広大は一瞬で固まってしまった。

柔らかい髪は肩先で揺れている。ふんわりとしたレースに、パフスリーブ。フレアのスカートが風を受けてそよいでいる。すべてがパステルで、まるで妖精のようで。

「た、た、た…高橋真理子さん!?」

 口をあんぐりと開け、次の言葉が出てこない。真理子は広大に向けてにっこりと微笑んだ。

「あ、あのボク、高橋さんの大ファンなんです!ファンクラブ『白百合の会』にも入ってます。ほらこれ、会員証。肌身離さず持ってます。会員番号は六千二百五番です。あの、その、サインください!」

 広大は矢継ぎ早にそうまくし立てると、近くにあったメニュー表を真理子に差し出した。

 真理子はそんな広大の姿も、いつも見慣れているのか、あわてることなくボールペンを取り出して、小首を傾げて広大を見つめた。

「いつも応援してくださってありがとう。何とお書きすればよろしくて?それにこれ、書いてしまってもいいのかしら」

「どうぞ、どうぞ、全然平気です。あのできれば、佐藤広大さんへ、って書いてもらえるとうれしいかなって」

 にやけた顔で広大がそう言う。手をエプロンでごしごしこすり、次は握手もしてもらおうと準備万端構えていた。真理子が美しい筆跡でサインするのをうっとりと見ている。

 奥にいた結香が、何事かと寄ってくる。それに、この方が高橋真理子さんです、どうです、美しいでしょう、と広大が自慢する。

「ランチタイムは十一時からなんですが」

 おそるおそる結香がそう告げる。それににっこりと微笑みを返すと、真理子は落ち着き払って言った。

「神原桃子さんはいらっしゃるかしら。お会いしたいのだけれど」

「桃子さんですか。上にいると思いますが、あのどういったご用件で」

 その時、階段を下りる軽い足音が響いた。桃子かと思ってほっとして結香が振り向くと、それは一樹だった。

 一樹は真理子を認めると、二階に向かって大声を張り上げ桃子を呼んだ。

「来たんだ」

「ええ、素敵なお店ね」

 真理子が辺りを見回す。それだけの動作も優雅で美しさを際だたせた。広大は思わず見とれたが、ふと気づいてハッとしたように真理子に問うた。

「あ、あの、ところで、どうして高橋さんがこんな所に?」

 そのセリフに一樹は、底意地悪そうににやりと笑って、広大に向かって言葉を投げかけた。

「あれ、言ってなかったっけ。これ、おれのねーちゃん」

「はいーっ!?」

「一樹がいつもお世話になっております。佐藤さん、弟によくしてくださって本当にありがとう」

「お、お、おとうと……弟!?」

 広大の叫び声が響く。一樹を指さしてわなわな震えている。結香は目を見開いて、一樹と真理子を交互に見比べている。

「ずいぶんにぎやかね。お客様なの?」

 桃子が降りてきた。手にしていた食器をカウンターに置くと視線を騒ぎの中心に向けた。言葉が途切れる。桃子は息を飲んだ。

「高橋…さん。」

 桃子に向かって真理子がにっこり笑いかける。口を開きかけた時、どたっと大きな音がした。

「わっ!広大がぶっ倒れた!」

「ちょっとぉ、大丈夫?広大くん!」

 広大は床にひっくり返って、目を回していた。

「うそだ!悪夢だ!白百合が!妖精が!何でよりによって一樹さんなんかと……!」

 

 桃子がとっておきのフォションを開ける。辺りに紅茶の豊かな香りが広がった。

 さっきまで広大が磨いていたテーブルに、そっと片ひじをつき、細いしなやかな腕を柔らかなシフォン生地のパフスリーブから伸ばし、真理子は優雅に微笑んでいた。

 隣には一樹が行儀悪く脚を投げ出して座り、にやにや笑いながら広大をかまっていた。

「姉と弟で、どうしてこうも違うものなんでしょうか」

 ショックを隠しきれずに、しょんぼりとした顔で広大がつぶやく。

「えっー、そうかなあ。いろんな人から似てるって言われるんだけどなあ、おれたち」

 意地悪な一樹の言葉に、広大は、全然似てません!と力を込めた。

「一樹、それくらいにしてあげなさいよ。広大くん、可哀想じゃない」

 桃子の言葉に、首をすくめる。

 結香と桃子がカップを皆に配る。それに、真理子はありがとうと微笑んだ。

「神原さん、本当に何とお礼を申し上げてよいのか。今まで一樹をこんなに大切に育ててくださって、ありがとうございます。本来なら父と母がここに来るべきなのでしょうが」

「いえ、別に。あたしたちは」

「一樹と叔母から聞きました。この子が病気にかかった時も、神原さん、あなたがずっと付き添ってくださったと。一樹の命の恩人ですわ」

 真理子は深々と頭を下げた。桃子はなぜか、ひどく居心地が悪そうな表情で、口ごもった。

「一樹が家に帰ってきてくれた時、私本当にうれしくて、これでやっと、家族が元のようになれるのだとほっとしました」

「一樹は……一樹くんは横浜に住むんですか?」

 かすれた声で桃子が問う。いつもの桃子らしくない。

「いえ、東京での生活もあるでしょうから、当分は代々木上原にある、高橋が持っている部屋に住まわせるつもりです。今は誰も使っていないものですから。ねっ?一樹」

「うん」

 幾分神妙な顔つきで、一樹が返事をする。桃子は何も言わない。きゅっと唇を閉じ、視線を下に向けている。

 真理子が海外での生活や、マエストロとのエピソードなどをユーモアを交えて話すのを、広大も結香も興味津々という風に身を乗り出して聞いていた。途中から勇次や前島も加わり、真理子はいつもと同じように話題の中心となって、笑顔を絶やさず話している。時折、涼やかな笑い声を立てる。皆、真理子の魅力に引き込まれていた。

 桃子だけ、彼女だけが硬い表情のまま、黙りこくっている。一樹はそんな彼女をそっと見つめていた。

 リハーサルがあるからと、迎えに来た事務所の車で真理子が帰っていった。たくさんの微笑みと桃子への感謝の気持ちを残して。ドアがやさしく閉められた時、桃子はためていた息を大きく吐き出した。

「綺麗な人ねえ。でも何ていうか、かわいらしい人?」

 結香がぽーっとした顔のまま、宙を見上げてため息をつく。そうでしょう、そうでしょう、世界中にファンが多いのもわかりますよね!広大が勢いづいて夢中で話し出す。

「いや、あれはさ、どっちかっつうと天然ぼけだと思うよ」

「鈍感な一樹さんにはわからないんですよ、彼女の魅力が!二人ともあの高橋孝一郎さんの子どもなんでしょ。同じDNAを引き継いでいるはずなのに、どこをどう変えると、こうなるのかなあ」

 まだぶつぶつ言う広大に、桃子が吐き捨てるようにつぶやく。

「育て方の違いじゃないの?一樹はこんながちゃがちゃしたとこで育っちゃったから」

 口調のきつさに、皆驚いて桃子を見た。桃子自身もハッとしたように顔を上げた。

「桃子さん、何怒ってんの?」

 一樹が言いづらそうに桃子に向かう。

「怒ってなんかないわよ。よかったじゃない、和解できて」

「和解なんて、してないよ。一度横浜帰って、みんなとちょっと話しただけで」

「代々木上原に住むのね。いつの間に決めたの。さすがは高橋さんよね、都内にぽんと使える部屋があるなんて。援助受けても平気なんだ」

 一樹はぐっと言葉を詰まらせた。

「家賃かからないっていうから。じゃなきゃ、いつまでたったって一人暮らしなんてできないよ。おれだって、そのくらいしてもらってもいいだろ?」

「へえ、ご家族と仲直りできたら、あたしたちなんてもう用済みって訳ね。いいんじゃない?素敵なお姉様もいらっしゃって」

「何だよそれ。おれは、桃子さんが結婚するっていうから、なるべく早くこのうち出て、できるだけ桃子さんに迷惑かかんないようにって。おれが今できることって何だろうって考えて、おれなりに精一杯考えて、それでこうしたんじゃないか!おれだってあいつらに頭下げんのなんて、やだよ!だけど、桃子さんのこと考えたら!」

 一樹はたまっていた気持ちを吐き出すように叫んだ。今にも泣き出しそうな、顔。右手のこぶしが固く握りしめられて、白くなっていた。酷いことを言っている。心のどこかで冷静な自分が警告を出している。でも止められない。桃子は追い打ちをかけるように言葉をつないだ。

「血のつながりには勝てないわよ。よかったわね、一樹」

 一樹はとうとう下を向いてしまった。肩をふるわせている。皆が心配そうにそれを見ているが、誰も何も言えなかった。

「一樹くん、あのね」

 見かねて勇次が声を掛けるが、一樹は答えない。近くにあった楽器ケースをひっつかむと、ドアに向かって歩き出した。

「一樹くん!」

「今すぐ出てってやるよ!桃子さんはそうして欲しいんだろ。こんなとこ、もう二度と戻らない!」

 桃子は一樹と視線を合わせない。切れ長の美しい瞳は、今はCDとレコードで埋め尽くされた壁をじっと見つめるばかりだった。

「一樹ちゃん、ちょっと待ちなさいよ。ほら、桃子さんも!」

 間を取りなすように結香が声をかけるが、桃子は動かなかった。

 一樹がドアの取っ手をつかむ。もう一度店内を、辛そうな目で振り返る。

「桃子さんなんか、大嫌いだ」

 ドアが荒々しく閉められた。チャイムツリーが激しく揺れ動く。その余韻が消えるまで、言葉を発するものは誰もいなかった。

「今のは……桃子ちゃんが悪いよ。桃子ちゃんらしくないよ」

 勇次がぼそっとつぶやく。その言葉に桃子は顔を覆い、椅子に座り込んだ。


 一度だけ、一樹はジャムズに荷物を取りに来た。桃子と目を合わさないように、勇次にだけ住所を書いた紙を置いて。居合わせた篠原に、シアトルに行くまではジャムズに住んでくれないかと懇願した。とまどう彼に、それが桃子さんのためなんだと強く主張した。 ジャムズでのライブにも、もう出ない。一樹はどうやらそう心に決めたらしかった。契約が生じるほどの大きな仕事は、もとよりない。都内のあちこちのライブハウスを回って、知り合いに声をかけてもらい、名前を隠して単発のライブに参加する。一樹のできることはせいぜいそのくらいだった。

 いつかは、そんな生活も続かなくなる。一樹は自分でもそれをよくわかっていた。いつまで吹けるのか、いつまで、この指が動くのか。

 意を決して久しぶりに行った病院では、大河原にさんざん叱られた。入院をしろという主治医の言葉を、笑って受け流す。もう少し、もう少し自由で、いさせてくれ。

 季節が変わろうとしていた。


#11 

 二人とも意地っ張りなんだから、結香がそうぼやくのも聞こえないふりをした。心配じゃないんですか?広大らしからぬそんな言葉も、聞き流した。

 でも、いつも作っている夕飯のおかずが、必ず余ってしまうのにふと気づいて、桃子の胸はちくりと痛んだ。勇次と自分と、篠原もいるのに。ぎこちない生活は、きっと今に慣れるに違いない。そう思い込もうとした。

 篠原が珍しく早く帰ったその日、彼ができたばかりの煮物をせっせとタッパーに詰め始めた。

「何?どうするの、それ」

「はい、桃子さん。持ってってあげてよ」

 篠原が笑顔を浮かべてタッパーを差し出す。桃子はとまどった。

「きっと一人で、外食かコンビニの弁当だろ。桃子さんの手料理、恋しがる頃だと思うよ」

「篠原くん、あのねえ…」

 篠原が背中を押す。大丈夫、一樹くんだって今は落ち着いて話せるよ、と。

 桃子はため息をつきながら、かばんを手に取った。



(つづく)

北川圭 Copyright© 2009-2010  keikitagawa All Rights Reserved

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