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昔はよかったね ~ Things Ain’t What They Used To be

#8

「やっぱりいい音がしますね、ベーゼンドルファーは」

 結香がステージのピアノに触って、ポーンと一つ音を鳴らしてみせる。オーストリア製のグランドピアノは、黒く磨かれたその表面にジャムズの店内をぐるりと写し出していた。

 この店を開いた時から、ベーゼンドルファーはたくさんの音楽と、人々の思いを奏で続けていた。父と母が出会って、桃子が生まれ育ち、そして今は。

 ジャズの生演奏とLPレコードを聴かせるだけの店から、桃子はランチもライブもできる店へとジャムズを変えてきた。それがよかったのかどうかわからない。でも、自分がこの店を支えているのだという気持ちは強かった。すべてを置いて、篠原について行けるのか。何度考えても答えは出なかった。

「結香ちゃんピアノは?」

 店の照明を昼から夜用へと変えながら、桃子が顔だけを結香に向けて訊いた。

「こんなめちゃくちゃ高いピアノでネコ踏んじゃったなんて弾いたら、罰当たりそう」

 そう言いながら結香は器用に、聞き慣れたメロディーをスイング調に変えて弾き出した。

「母のたっての希望で、相当無理して入れたみたい。母はピアノを弾く人だったから」

「桃子さんのお母さんがですか。じゃあ思い出の品ですね。今でも会ったりするんですか」

「ううん、あたしが中学の時に母がここを出ていったきり、一度も会ってないわ」

 淡々と桃子が答える。それ以来、父親の勇次と店を何とか続けてきた。二人だけの家族。いつからかそれに一樹が加わった。心配ばかりかける出来の悪い弟。桃子の背をとうに越して、それなのに相も変わらず甘えん坊な男の子。

「お母さんのこと、恨んでたりする?」

「まさか。逆にそれまでよく持ったなって感心するわよ。ろくに働きもしないで道楽で貯金切り崩すようなうちの父さんに、よく我慢して付き合ってたなって」

「マスターが心配だから、桃子さんなかなか結婚しなかったんですか」

 幾分声を落として結香が訊く。それに苦笑いを返す。

「どうかな」

「それとも……一樹ちゃんのこと」

「一樹のことはあたしが心配しても仕方ないわよ。あの子の人生なんだから。」

「そうじゃなくて、桃子さんは一樹ちゃんの気持ち、知ってるんでしょ?」

 いつものおどけた明るい結香の声ではなかった。真っ直ぐ桃子を見つめている。

 桃子は浮かべていた笑みを消し、唇を固く結んだまま何も言えずにいた。視線が思わず逃げる。

「桃子さんの方が年上だから?篠原さんと付き合いが長いから?でもそれって何か関係あるんですか。そりゃあ篠原さんと一樹ちゃんだって大の仲良しだから、しばらくはぎくしゃくするかもしれないけど、人の気持ちは変わるでしょう?先着順じゃ決められないでしょう?」

「結香ちゃん」

「一樹ちゃんて、どうしようもないばかだけど、いつも真剣に桃子さんのこと見てる。答えてあげなくていいんですか」

「あの子は、家族なの」

 思い詰めたような桃子の口調に、結香は黙った。時計の音がやけに響く。何かを吹っ切るかのように桃子は続けた。

「一樹は大切な弟で、あたしたちの大事な家族なの。あの子が欲しいのは男女の愛なんかじゃない。本当はあの子は、高橋のお父さんお母さんに愛されたくて仕方がないんだと思う。もっと僕を見て、僕を愛してってせがむ、甘ったれの子どもなのよ。あんなでかい図体して、でも中身は子どものまま」

 ゆっくりとテーブル席のイスに腰掛け、桃子は顔の前で指を組む。

「あたしはね、たまたまあの子の一番近くにいた、姉代わり母親代わりに過ぎない。あの子はいつかそれに気づいて、ここから、ジャムズから巣立っていく。そうならなきゃいけないのよ」

「桃子さんは、それでいいんですか?」

 結香が低い声で、桃子に問いかける。そこから視線を外したまま、桃子は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

「あの子は、あたしの大切な……弟だから」

 仕込みやっちゃいましょ、と、桃子が無理矢理明るい声を出した。この話はもう終わりだと、桃子の表情が語っていた。結香も詰めていた息を吐き出して、いつもの笑顔を取り戻す。当てにならないマスターなんてほっといて、どんどんライブの準備を始めようかと二人が立ち上がるとほぼ同時に、店のドアが荒々しく開いた。

 がたん、ばたん。それにどかっという何かを蹴飛ばした音が加わる。何事かと二人が入口を振り返ると、そこには険しい顔の一樹がいた。

「どうしたの、一樹ちゃん。何荒れてんの?」

 おそるおそる結香が声を掛ける。一樹は近くの華奢なイスに持っていた楽器ケースを投げつけようと、腕を振り上げた。

「ダメ!ラッパ壊れるってば!ちょっと、一樹ちゃん!」

 あわてて結香が止めに入る。桃子は一樹のこわばった表情に息を飲み、動けずにいた。

「落ち着いてよ、何があったの…」

「ふざけんな、ちきしょうあの野郎」

 一樹は止められた腕を力無く下ろすと、ソファに座り込んだ。握りしめた右手の拳を唇に押し当て、固く目をつむる。

「仕事で、何か嫌なことでもあったの?」

 ようやくいつもの桃子に戻って、冷静な言葉を掛ける。その声にほんのちょっと怯えたように、一樹は体を震わせた。

「仕事、降ろされた」

「なぜ…」

「おれが何したってんだ。ただのバックバンドじゃねえか。ユニットKなんて名前はついてても、ただ歌手の後ろで突っ立てるだけだろ?誰が迷惑するってんだ、何が目障りなんだよ!」

「だから、どうして降ろされたのよ」

 声を荒げる一樹に、努めて穏やかに桃子は問いかけた。

「あいつだよ。あいつがおれを使うなって、レコード会社とテレビ局のお偉方に触れて回ってるんだと。おかげで今まで続けてきたスタジオの仕事も、全部無くなった。ロック系バンドのツアーサポートって話も白紙になった。何にもできない。おれは何にもできない」

 唇を噛む。悔しさがにじむ。桃子と結香はあまりのことに何も言えずにいた。やっとのことで桃子が口を開く。

 「あいつって、誰?」

 一樹が目を上げた。肩で息をしている。なかなか言葉にならない。そっと桃子が声を掛ける。一樹は今にも泣き出しそうな顔で、桃子を見つめた。

 「高橋孝一郎だよ。決まってるだろ!?」


 「カズくん。君は高橋孝一郎氏の息子さんなんだってね」

 レコード会社の会議室で、普段会ったこともない常務に呼ばれた時から、一樹は嫌な予感がしていた。昔、孝一郎と仕事をしたことがあるという彼は、おだやかな表情で言葉を続けた。曰く、孝一郎は素晴らしい音楽家だ。世界的な指揮者であり、日本を代表する現代作曲家だ、と。

 だから何だ。出来の悪い息子は切り捨てる、冷酷無比な最低の父親じゃないか。一樹は心の中でありとあらゆる罵倒の言葉を思い浮かべた。

 音楽業界で仕事をする上で、高橋一樹の本名では何を言われるかわからない。そういった思惑から仕事の時は「カズ」としか名乗っていなかった。零細規模の音楽事務所に所属して、クラシックとは関わりを持たないように、そしてサングラスで瞳を隠して。音楽を続けていることは、高橋の家には知られたくなかった。一樹が出演するような通俗的な音楽番組など、父親が見るわけがないと、たかをくくっていたところもあった。なのに。

「父が、何か言ってきたんですか?」

「君が自立心旺盛で、孝一郎氏の名前を出さずに仕事をしていることは、素晴らしいことだと思うよ。でもね、お父さんとても心配なさっていたよ」

「心配なんて」

 するはずがない。その言葉をようやくのことで飲み込む。黙ってしまった一樹を見て、常務はわかっているよとでも言いたげに彼の肩をぽんと叩いた。

「聞けば、君は大病を患ったというじゃないか。君がテレビで、病んだ身体に無理をして演奏しているのを見るのがしのびないと、お父さん涙ぐんでらっしゃったよ」

「!?」

 思わず叫び出したくなるのを必死で押さえる。おれがその病気で辛い思いをしていた時、あんたは日本に帰るどころか、電話で話すことすら拒否したじゃないか。今さら何を。

「もう家でのんびり過ごさせてやりたい、そうおっしゃられてね。どうだろう、一度ご実家に帰られてはいかがかな」

「仕事を、するなってことですか?」

 感情を必死に押し殺して、何とか受け答えをする。相手は何の関係もない第三者だ。レコード会社の重役だ。おれの敵はこいつじゃない。

「家に帰って、お父さんを安心させておやりなさい」

 常務は笑顔を見せると、部屋を出ていった。

 それですべては終わりだった。ユニットKからカズは外され、明日からのスケジュールは何もなくなった。スタジオミュージシャンとしてのカズも、ツアーサポートの話も。

 改めて一樹は、自分の父親の音楽業界に対する影響力と、その実力を思い知らされた。


「そんなにおれが音楽をやることが気にくわないのか。そんなにおれが嫌いなのか。家に帰れ?ふざけんな、ただの一度だってそんな言葉かけてもらった覚えはない。あいつはおれが今どこにいて、誰と住んでいて、何を思っているかなんて全く興味などないくせに。何でこんな時だけ父親面して、耳障りのいい美談を語って回るんだ。何なんだよ、ちきしょう!」

 ジャムズの古ぼけたソファに沈み込み、一樹は抑えきれない嗚咽を漏らした。

 そんな一樹を、痛々しげに桃子は見つめるばかりだった。


「一樹くん、どうですか一杯」

 マスターが遠慮がちにドアのすき間から顔をのぞかせた。手にはとっておきの一本が握られている。そんなにも自分は心配をかけているのか、一樹はため息をついた。

「たまには昼間っから飲むのもいいでしょう。あんまり飲ませると桃子ちゃんに叱られちゃうから、内緒ですよ。最近忙しそうでゆっくり話をする暇もなかったですからね」

「そうですね、仕事がずっと立て込んでたから」

 マスターは一樹の部屋に入るとその辺の雑誌やCDをどかして床に座り込んだ。つまみもない、コップと冷や酒だけだ。小さなテーブルにそれらを置くと一樹に一つ差し出した。

しばらくそれを見つめていたが、一樹は思いきってぐっと飲み干した。頭がくらくらする。こんな風に飲むのも久しぶりだった。

「こんな時はゆっくり、いつもは聴けないような音楽を聴くのがいいかなと思って、これを持ってきました」

 マスターが一枚のCDを差し出す。モノトーンの幾何学模様に彩られた前衛的なジャケット、アーティストのクレジットを見た時、一樹は息を飲んだ。

「そうです、高橋孝一郎の『東京組曲』です。どうですか、今なら聴けるんじゃないですか」

「無理だ、おれにはまだ…」

 マスターが一樹にCDを手渡す。動かない方の左手でぎこちなくそれを受け取る。不安定な左手にただ載っているだけの危うい存在。落としてしまいそうだ。でもそれをしっかりと受け止めるだけの気持ちにはどうしてもなれなかった。

「戦うのならまず敵を知らなくては、ね。このままでいいのですか?」

 マスターはあくまでも穏やかだった。その口調が今はうれしい。でも、戦う?おれが?そんなことができるのだろうか。

 握りしめる気のない一樹の左手から、マスターはそっとCDを取る。ゆっくりとゆったりとケースを開ける。プレーヤーのスイッチを押して銀色に鈍く光る円盤をセットする。いつでもいいですよ、そう一樹に声をかける。

 一樹は大きく息を吸うと指をスタートボタンに伸ばした。押せない、目をつぶる。怖いのか。右手をぎゅっと握りしめる。そして今度は左手の人差し指をゆっくりと動かした。ほとんど曲げることのできない左手は、硬くこわばったままの形でプレーヤーにそっと触れた。かたん、わずかな音がして機械が動き出した。

 始まる。

 澄んだ弦楽のトゥッティから曲は始まった。幾本もの弦楽器のたった一つの音の集合体。不意に変拍子の荒々しい打楽器の連打がその静寂を突き破る。不協和音の管楽器たちがそのリズムの隙をついて滑り込んでくる。先の展開が読めない、何が起こっているのか予想がつかない。なのに音から気持ちをそらすことができない。

 一樹はだんだん息苦しくなっていった。胸が締め付けられる。呼吸をしているのにちっとも肺に空気が入っていかない。もう嫌だ聴きたくない。叫びたいのに何も言うことができない。ふと、自分の頬が濡れていることに気づいた。涙?何故だ。いくらぬぐっても後から後から涙が止まらなかった。悔しさに唇を噛む。嫌だこんな音楽は。こんなのはジャズでもなければクラシックでもない。そう言ってしまいたかった。切り捨ててしまいたかった。全部否定してしまいたかった。なのに。

 第四楽章まで一気に曲は流れていった。終わった後の静寂が部屋を包んでいた。二人とも何も言わなかった。ただ一樹だけが、涙をぬぐうばかりだった。

「おれは…」

 とぎれとぎれに一樹がつぶやく。声がかすれていた。

「おれは、こいつに勝てない。こんなやつには」

 そう言うと両手で顔を覆って一樹はうつむいた。

「そうでしょうか」

 穏やかにマスターが言葉をつなげた。

「高橋孝一郎がこの曲を完成させるのに、どのくらいかかったか知っていますか」

 一樹は動かない。

「構想から十年、何度も習作を重ねたそうです。そう、この『東京組曲』は何度も違うバージョンが発表されているんです。その度に演奏会にかけられ、大きな反響を呼ぶのですが、ようやく完成版としてこのバージョンが録音されたのが、いつだかわかりますか?」

 マスターは優しくそう問いかける。一樹は答えない。

「一九八七年、ですよ」

 一樹の身体が一瞬震えた。そしてゆっくりを顔を上げた。マスターをまっすぐに見て何か言いたそうに唇が動いた、が何も言えなかった。

「それが何を意味するか、一樹くんにはわかりますね」

「おれの…」

 一樹がためらいがちに口を開く。まるで言ってしまったら何かが起こるのではないかと恐れるかのように。

「生まれた、年?」

「そうですよ」

 マスターは慈しみの眼差しを一樹に向けた。幼い子を見守る父親のように。

「ライナーノーツにも書かれています。私にとって守るべきものがまた一つこの世に現れた。それは私の音楽世界をも変えてしまうほどの大きな驚きだった。この世にこれほど愛してやまないものがあるものなのだろうか。一つの生命の誕生とともにこの曲にいのちがふきこまれ、そして、ここに私にとってのただ一つの『東京組曲』は完成した、と」

 マスターの声が淡々と続く。当時のジャズファンはね、この言葉を暗記するほど読んだんですよ、もっともその当時はそれが何を意味するのかはよくわかりませんでしたけれどね。

 マスターは微笑んだ。

「お父さんに会ってきてみたらどうですか。もう何年も会ってないのでしょう?」

 父親に会う、このおれが。考えたこともなかった。電話で話したのももう何年前になるだろう。冷たい事務的な会話。電話の向こうにいたのは、愛とも情とも無縁な巨大な無機質な壁だった。父はおれを切り捨てたのではなかったのか。クラシックができない高橋家の人間などいらない。演奏家になれない息子は息子ではない。幼い頃から才能を開花させ、神童と呼ばれ数多くの巨匠とも競演し、日本クラシック界の期待を一身に背負ってきた姉。姉こそが高橋家の一員であることが許されるのではなかったのか。そうではいられなかったおれは。

「父親の音楽なんて聴いたことなかった。本当に小さい頃、まだ姉が日本で活動していた頃、母が仕方なく小さかったおれと姉を連れて演奏会に行った。ほんの七、八歳でクラシックが楽しいはずもなく、おまけに訳の分からない現代音楽を聴かされておとなしくしているはずなんかなくて、おれはいつもロビーで走り回っていた。母に後で冷たく叱られた。お父様に恥をかかせるものじゃないって。もうその頃からトランペットは習ってはいたけれど、子どもにとってラッパなんてただのおもちゃで、まだ身体もできあがっていないから本格的なレッスンにもなるわけないし、ピアノは全然練習しないし、本当にその頃から見放されていたんだ」

「どうしてまた、そんな小さな頃からトランペットを?」

「最初は姉と一緒でバイオリンをやったらしいんだけど、見込みがないって匙を投げられたらしいよ。それで、偉い音大の教授かなんかが、唇の形がいいから管楽器が向いているって言ったらしくて。演奏家人口が少ない方が、まだ可能性があるって思ったんじゃないの?」

「本当に音楽一色だったんですねえ」

 手酌で日本酒をあけながらマスターがしみじみと言う。本当に、音楽しかなかった。子どもらしいはしゃぐ声も楽しい遊びも、学校の友達もスポーツも何もかも、おれの好きなことはすべて否定された。ピアノなんか嫌いだった。ソルフェージュも理論も大嫌いだった。遊びたかった。走り回りたかった。ただ。

「ただ?」

「不思議だよね、ラッパだけは好きだったんだ。トランペットを吹いている時だけは何もかも忘れられた。ジュニアのコンクールなんてそんなに出場者もいないから、わりといいところまで行くんだいつも。そうするとその時だけは父も母も自分の方を向いてくれた。声もかけてくれた。その頃もう既に姉は海外で活躍するようになっていて、ほとんど両親も日本にはいなかったんだけれど、賞状を見せる時だけはおれの方を見てくれた。音高に行って音大に進んで、大きなコンクールで賞を取って留学して、父や姉のように演奏家としてステージに立てば、トランペット奏者としてどこかのオーケストラにでも入れれば、父も母もおれを見てくれる、そう思っていたんだ」

 なのに、あの日から突然ピアノが弾けなくなった。痛みを増す左手はまるで自分の指ではないかのように重くてしびれて、でも、その事を誰にも言うことができなかった。叱られる、いや、今度こそ本当に見捨てられる、その恐怖心の方が痛みよりも強かった。ピアノが弾けなければ音大には入れない。そうなれば演奏家にもなれない。留守勝ちの両親は一樹の異変に気づくはずもなかった。

 いつからだろう、一樹は家族の中で独りぼっちだった。身の回りのことはトミさんがしてくれる。もちろん愛してくれてはいた。でも、一樹の家族を欲する心を完全に埋めることはできなかった。誰もいない自宅のレッスン室で痛みをこらえながら弾けなくなったピアノに向かう。心のどこかでもう自分は演奏家になれないと絶望を抱えながら。でも、どうしても誰にも打ち明けることができなかった。

 一樹は右手で髪をかき上げた。続けてあおった日本酒がボディーブローのように効いて、身体の芯が熱かった。愛されていたと他人事のようにこんな曲を聴かされて、おれはどうしたらいいのだろう。一樹の生きてきた二十年間は、こんな音楽一つで置き換えられてしまうようなものなのだろうか。一樹にはわからなかった、わかりたくもなかった。なのに、さっきの音がまだ身体に残っていて、一樹を蝕んでいくようだった。

「真っ正面から向き合ってみることも一つの方法だと思いますよ」

 マスターが噛んで含めるように言う。もっと他のレコードも聴きますか?ジャズではないですが、彼の作品ならいくつか店にもあります、そう続けた。

 「もう少し、もう少し時間を下さい。まだおれには…」

 ゆっくり考えればいいから、マスターは一樹の肩を叩いた。

 一樹はマスターを見やると、力無く笑ってありがとう、とつぶやいた。


#9

 またこの門をくぐる日が来るとは思わなかった。見慣れた緑の垣根の角を曲がると高橋の家が自分を拒絶しているような圧迫感で建っていた。一樹は、心細さから背負ってきてしまった楽器ケースのベルトを、右手で握りしめた。肩に掛かる重さが自分の存在をはっきりと証明してくれていた。大丈夫、今日はきっと向き合える。

 孝一郎の個人事務所に連絡を入れ、予定を聞き出した。母が出なくて助かった。事務の女性は、息子だと名乗ると驚いたようにそれでも丁寧に教えてくれた。今日は家にいるはずだ、と。

 誰も庭には出ていなかった。車庫の入り口が開いている。車の影は見えなかった。留守か。しかし微かにバイオリンの音色が聞こえる。一樹は思いきって呼び鈴を押した。

 ほんの一瞬間があって返事が聞こえた。それに僕だと答える。ばたばたばたと足音が玄関に向かってくるのがわかる。トミさんだな、あわてなくてもいいのに。

「ぼっちゃま、まあお元気そうで。さあさ、どうぞ中へお入り下さいまし」

「トミさんも元気だった?お姉さまは二階?あがってもいいかな」

 洋式の家の中に土足で上がり込む。旦那様と奥様はちょっとお出かけしていますが、直に帰っていらっしゃると思いますよ、そんな言葉にどこかほっとした。会えなければそれでいい、そんな気持ちも潜んでいた。おれも甘いな、心の中だけでそうつぶやく。

 絨毯引きの階段に足を取られながら、二階へと上がる。右の廊下のつきあたりがグランドピアノの置いてあるレッスン室だ。一応誰でも使っていいことになっているが、真理子が居る時は他の人間は使うことができないのは暗黙の了解だった。華奢な身体に似合わない迫力のある低音のメロディーが廊下にも響いていた。一樹はドアをノックする。聞こえなかったようで曲はとぎれない。さっきよりももっと大きく力を込めた。ふっと音が消えた。

「誰?どうぞ」

 三つ上だから今年二十三になるはずだ。だが返ってきた返事は明るく澄んでいてまるで少女を思い起こさせた。一樹は真理子の顔を思い浮かべようと努力した。前に会ったのはおれが十三の時だからもう七年前になる。少女から大人の女性へと変貌を遂げる時期のはずだ。しかしテレビや雑誌で見かける真理子は、いつまでも可憐な少女だった。思い切ってドアを開ける。そこに彼女は、いた。

 白いレースのブラウスはそこかしこにフリルが縫いつけられていて、身体の輪郭を優しく覆っていた。演奏の邪魔にならぬようになのか時期的には早そうな半袖から細くやわらかげな腕が伸びていた。上半身とは対照的なタイトな黒のロングスカートは、くるぶしの辺りまでその布を揺らしていた。足には安定感のある一目で上質とわかる黒のパンプスを履き、体重をかけるように前後にほんの少し開いていた。ハイヒールではとてもじゃないけれどいい演奏なんてできない、昔そう言っていたことをふと思い出した。一樹は心を決めて視線を上げる。顔を見るのが怖かった。どんな表情でおれを見るのか、知るのが怖かった。大丈夫、今日は今までの自分とは違うのだから。上げた視線の先に大きな瞳があった。細い形のよい輪郭に柔らかなウエーブが揺れている。肩につくかつかないかに切られた髪は風を受けてそよいでいた。大きなつぶらな瞳と意志のはっきりした眉、すっと鼻筋の通った整った顔立ち、薄いつややかな唇、一樹によく似ていた。

 目を見開き、いぶかしげに自分を見つめる。もう慣れっこだった。この家の住人たちは息子を弟を、初めて出会う人であるかのように見るのだ。だが姉は、母とは違って彼女は楽器をすぐさまテーブルの上に置くと、一樹のところへ駆け寄ってきた。

「一樹ね!ああ、あなた一樹なのね!こんなに大きくなっちゃって、誰かと思ったわ!もっと顔をよく見せて。懐かしい!どうしたの急に。わあうれしい、一樹に会えるなんて!」

「あ、あの、僕が誰だかわかる、の?」

 意外な反応についていけなかったのは一樹の方だった。思わず後ずさりする。声もうわずってしまった。けれど真理子はそんな一樹の様子には構わずに彼の肩を抱きかかえるようにした。背の高い一樹の顔を見上げるように、真理子は笑いかける。

「当たり前じゃない、忘れるわけないでしょう。私はどう、変わった?ねえもっとこっちを向いてちょうだい。元気だった?もう何年ぶりなのかしら。どうして今まで会いに来てくれなかったの。一樹、聞いているの!?」

 息を切らせるほど早口で次から次へと言葉を紡ぎ出す。まるで美しい詩の暗唱でも聞いているかのような柔らかなベルベットトーンの甘い声が、昔とちっとも変わっていなかった。大きな瞳がくるくると動く。縁取られた長いまつげが光っていた。見る者を魅了してやまない愛くるしい表情、それが真理子の魅力の一つだった。気難しいマエストロをも微笑ませてしまう天性の何かが真理子にはあった。それは二十歳を過ぎても変わることはなかった。むしろより美しさを増して、目を離せなくなってしまう存在になっていた。

 両腕を真理子につかまれて、一樹は何も言えずに立ちすくんでいた。同じ両親の元に生まれてどうしてこうも違ってしまったのか。誰からもあの両親からさえも愛される彼女と、疎まれ存在を否定され続ける自分と。神童と呼ばれるほどのバイオリンの才能に恵まれた彼女と、クラシック奏者への道をあきらめトランペットを吹く場所を探して迷い続けている自分と。

 一樹は真理子のあまりの眩しさにここへ来たことを後悔し始めていた。まだ早かったのではないか、おれには到底かなうはずのない相手だったのではないか、と。

 そんな一樹の逡巡に構わず、真理子ははしゃぎ声を上げていた。

「ねえ、下に行って何か飲まない?おばさまにもらったおいしいケーキがあるの。一緒に食べましょうよ。それでたくさんお話ししましょう。聞きたいわ一樹の話。最近テレビに出ているのよね。トランペットは続けているんでしょう?ああ、何から聞いていいかわからないわ。聞きたいことがありすぎて困っちゃう。私の話も聞いてよ、どこから話そうかしら。ねえ、いつからそんなに背が高くなったの。最初見た時はびっくりしちゃった。いつもべそかいて、私の後からついてきていたのに。背だっていつも私より低かったわよね。このくらい?もっとかしら。ねえ、一樹ったら!」

 真理子の声は止まることを知らないようだった。それがちっともうるさく感じないのは優しい声色のせいなのか。

「あの、お姉さま。僕はお父様に話が……」

「お父様ならすぐ帰ってくるわ。知り合いの家にあいさつに行っただけだから。来週から公演が始まるから忙しくなるけれど、今日は大丈夫よ。ゆっくりしていってね、今夜は帰っちゃダメよ。あなたの部屋はいつあなたが帰ってきてもいいように用意してあるんだから」

「僕の、部屋?」

 意外な言葉に動揺を隠せずに、一樹は息を飲んだ。おれの部屋なんて、とうの昔に無くなってしまったものだとばかり思っていたのに。

「帰ってくるなら帰ってくるってどうして前もって言ってくれなかったのよ。驚かそうと思ったの?確かに本当にびっくりしちゃったけれど、ああ、うれしいわ。この家で一樹に会えるなんて。トミさんに言って今日はごちそうを作ってもらわなきゃ」

 真理子が一樹の背中を押して階下へと促す。一樹は逆らえなかった。真理子は変わっていなかった。美しさも愛らしさも弟を思う優しい心も、何もかも昔の少女の頃と。

 一緒に階段を下りる。もうトミさんがお茶の用意をしてくれていた。この家でこんなに温かく迎えてもらえるなんて。だが一樹にはうれしさよりもとまどいの方が大きかった。

 おれは変わってしまった。あの頃の自分とはかけ離れてしまっていた。時が止まってしまったかのようなこの家で何もなかったことにして最初からやり直すには、あまりにも真理子とは違ってしまっていた。

 半ば強引に大きな応接セットのゴブラン織りのソファに座らされる。真理子は本当にうれしそうだった。さっきからずっと一樹に話しかけ、返答が無くてもそれを気にすることもなく話し続けた。時折とびきりの笑顔を一樹に向ける。一樹の方はと言えばこわばった表情を浮かべ頷き返すのがやっとだった。紅茶の入ったジノリのカップを持ち上げ、真理子が一人で、乾杯と声を上げた時、玄関のドアが不意に開いた。

「あっ!」

 一樹は反射的に立ち上がった。思わず姿勢を正す。下げた両腕に力が入る。右手をぎゅっと握りしめた。

 開いたドアから入ってきたのは孝一郎と絢子だった。二人ともオーダーのダブルのスーツに身を包み、腕にはバーバリーのコートを掛けていた。

 父と母は笑顔もなく厳しい視線を一樹に向けた。部屋の空気が一瞬で凍り付いた。

だが、それも真理子の明るい声ですぐに破られた。

「お父様、お母様、一樹よ、一樹が帰ってきてくれたの!お二人とも一緒にお茶にしない?もう私うれしくて。見て、一樹ったらこんなに背が大きくなって、きっとお父様よりも大きいわよ。並んでみたら?ほら!」

「一樹?一樹なのか」

「お久しぶりです、お父様。ご無沙汰しています」

「もう、そんなに堅苦しいあいさつなんていいじゃない親子なんだから。ねえお父様」

 真理子が三人の間に割って入る。しかし孝一郎の視線は厳しいままだった。一樹は歯をぐっと噛み締めると負けじとにらみ返した。足が震える。もう逃げはしない。そう決めたのだから。

「真理子さん何ですか、そんなに大きな声を出してはしたない。一樹さんあなたのせいなのね」

 母が冷たく言い放つ。さすがの真理子も口をつぐんだ。立ってないで座ったらどうなの、母が続ける。着替えてくるから荷物をお願い、そう言ったのはトミさんにだ。母がその場を立ち去るとほんの少しだけ空気が和らいだ。一樹はつめていた空気を吐き出した。孝一郎から視線をはずす。彼がじっと見つめているのを痛いほど感じていたが一樹はその場に立っているのがやっとだった。けれど今日は自分の思いをきちんと言わなければ、ここに来た意味がない。一樹はもう一度右手をぐっと握りしめた。

 重たい何かを振り切るように顔を上げる。孝一郎はソファに座って腕を組んでいた。自然と一樹が見下ろす形になった。のどがからからだった。舌がはりついてしまってうまく息が吸えない。何か言わなければ、何か。

「あの」

「座ったらどうだ。話もできんだろう」

 出鼻をくじかれて、一樹はまた口を結んだ。力無くソファに座り込む。孝一郎はトミさんがお茶を用意するのを手で制する。

「お茶はいらないよ、トミさん。麻生の家で飲んできたからね。真理子は、上に行っていなさい」

 二人の顔を交互に見比べて心配そうにしていた真理子は、たまらずに父に声をかけた。

「お父様、久しぶりに会ったのよ、そんな難しい顔なさらないで。一樹だってお父様にたくさん話したいことがあるはずよ、聞いてあげてお父様」

「いいから、真理子は練習を続けなさい。来週も公演があるのだろう。リッツ先生が見えるのはいつだったかな」

 孝一郎はやや声をやわらげて真理子に向かって返事を返した。気のせいか真理子には笑顔も浮かべて。いや、気のせいではないだろう。真理子にはどんな人からでも笑顔を引き出す魅力があるのだ。二人の間に優しい空気が流れた。そうだ、この家にだって笑い声もあれば一家団欒もあるのだろう。そこに自分が入れないだけなのだ。一樹の胸の奥がほんの少し痛んだ。

「リッツ先生は明日の十時にいらっしゃるのよ。ちゃんと練習はしてあるわ。お父様もいてくださるのでしょう?」

「明日も家にいるから一緒に練習を見てあげよう。ほら、もう上に上がりなさい」

 孝一郎に再三促されて、真理子は渋々腰を上げた。一樹に向き合う。孝一郎に聞こえないくらいの小声でささやく。

「じゃあ後でね。帰ってはダメよ」

 いたずらっぽく笑うと真理子はロングスカートを軽くつまんで階段を上がっていった。

 それを孝一郎が目で追う。一樹に向き直った時、もうそこから笑顔が消えていた。

「話とは何だ。私も忙しいんだ、手短に願おう」

 一樹は小さく息を吸い込んだ。父の威圧感に負けてしまいそうだった。いつもそうだ。父の前に来ると一樹は何も言えなくなる。海外公演と地方の活動でほとんど家にいたことのない父だった。幼い頃一緒に遊んでもらったという記憶は全くない。普通の家庭のようにどこかに連れて行ってもらうなどまずなかった。父と話をするというのは特別なことであって、普段の会話などとは無縁だった。真理子とはそうではないのだろう。だとすれば悪いのはおれの方なのだ。一樹はこのまま立ち上がっていすを蹴って帰ってしまいたい気持ちを必死で押さえていた。ここは自分の家であって自分の家ではない。ここに一樹の居場所はなかった。でも、あきらめてしまったら何も変わらない。何のためにここまで来たのだ。戦う前から逃げてしまってはダメだ。そう自分を奮い立たせた。

「お願いがあります」

 ようやくそれだけを言うことができた。声は震えてなかったか。目をつぶる。頭を小さく振る。今しかない。戦うのなら今しかないのだ。一樹は心を決めた。

「僕から、音楽を取り上げないでください」

「何のことだ」

 孝一郎の返事は短かった。低くよく響く声だった。父の姿をテレビの音楽番組で見たことがあった。家にいる時とは全く違った父がそこにはいた。優しげに微笑み、難解なクラシックの名曲をわかりやすく解説し、指揮をしてピアノを弾く。音楽に楽しげに向き合う姿が印象的だった。その時と同じ声。だが今は一樹のすべてを拒絶しているかのように冷たい響きだ。一樹はひるんだ。孝一郎の刺すような視線に次の言葉が出てこなかった。父もまた黙った。沈黙が二人の間を流れた。一樹はすがるように革のソフトケースに手をやった。それをぎゅっと握りしめる。孝一郎の目をしっかりと見返す。

「お願いです。僕からトランペットを奪わないでください」

「おまえは何か勘違いをしているようだな。私は何もしておらんよ」

 父がソファに身体を預けるように座り直す。視線がはずれる。嘘をつくな、ここでそう怒鳴ったら父はどんな反応をするのだろうか。だが一樹は努めて冷静に話を続けた。

「僕は何も望んでいません。ただトランペットが吹ければそれで満足です。ですからどうか音楽を続けさせてください」

 父に向かって頭を下げる。そんな一樹に孝一郎は吐き捨てるように言った。

「ちゃらちゃらした格好をして薄っぺらな中身のない音を吹いて聴かせる、そんなくだらん音楽がおまえのやりたいことなのか。ずいぶんとレベルの低い話だな」

「ユニットKは!」

 孝一郎に食い下がるように一樹が言葉を続ける。

「確かにクラシックに比べればくだらない音楽かもしれません。使っている音も単純だし今時の使い捨てられるただの軽薄な音楽かもしれません。でも、やっと見つけた僕の居場所なんです。やっと自分がトランペットを吹ける場所を見つけたんです。この僕が必要とされているんです。お願いです。僕から居場所を奪わないでください」

「おまえは若いから何もわかってはいない。商業ベースに踊らされているだけだ。おまえの音楽なんぞ飾り物と一緒だ。誰も価値なんか感じてはおらん」

「それでもいい、それでもいいんです。僕は!」

「高橋の名を汚すことは私が許さない」

 きっぱりと孝一郎が言い切った。一樹が口をつぐむ。トランペットよ僕に力を貸してくれ。革のケースがきしんだ音を立てた。一樹が話し出そうとするのを遮るかのように孝一郎が続ける。

「おまえがしていることのおかげで、私や真理子にどれだけ迷惑をかけるか考えたことがあるか。おまえは昔からそうだ、いつも勝手ばかりして私の言うことなど聞きもしない。高橋の家からそんな恥さらしを出すわけにはいかん」

「高橋の名前を出したりはしません!僕はもう高橋の人間ではありません。そのくらいのつもりでいます」

「おまえがいくら高橋とは無関係と言い張っても、周りはそう受け取らないのだよ」

「僕は!」

 「わざわざ小さいうちから専門の先生をつけてやってレッスンを受けさせたのは、おまえにこんなくだらない音楽をさせるためなどではない。音高も勝手にやめて家も出ていって、今更音楽をやりたいなどと、どの顔で言えるのかね」

 孝一郎はテーブルの上に置いてあった外国製のタバコを手に取ると、口にくわえて火をつけた。吐き出す煙に一樹は軽くむせ、咳き込んだ。自分もタバコが吸いたかったがなぜかこの家ではしてはいけないことのように思えて、ポケットにのばしかけた手を引っ込めた。ここにいると二十歳の自分ではなく、いつも母に叱責されていた幼い頃の自分に戻ってしまうような気がしてならなかった。でも今はあの頃の無力な自分ではないはずだ。もう自分の足でちゃんと立って生きていけるはずなのだ。父からも母からも自由になって、すべてを自分の責任として。父にもはっきりと言えるはずだ。自分の思いを、やりたいことを。

「音高を勝手にやめたのは謝ります。ちゃんとした基礎を身につけさせてもらったことは本当に感謝しています。お父様のおかげで今こうして楽器が吹いていられるのだということはよくわかっています。勝手に家を出て好きなことをしてきて申し訳ないと思っています。でも今はこの音楽を続けたいんです。自分の仕事として音楽をやっていきたいんです。ですから」

「クラシックもまともにできないやつが何を言う」

「クラシックは!」

 言葉が詰まった。孝一郎の顔を見続けるのが辛かった。あの頃、愛してやまないクラシックをあきらめざるを得なかったあの頃、側にいてくれたのは父や母ではなかった。その時の気持ちがあんたに分かるか。ゆっくりと言葉を選びながら一樹は続けた。ともすれば叫びだしたい気持ちを必死に押さえながら。

「左手が動かないのにクラシックは吹けません。僕のこの指では楽器を支えることもできません。あの時からずっと僕はこの動かない指と闘ってきたんです。その頃、この家には誰もいなかった。僕の周りには誰もいなかったんです。もう楽器を吹くことはできないのだとあきらめていました。僕だって、なれるものならクラシック奏者になりたかった。お父様のようにお姉様のようにすごい演奏家になりたかった。でも、なれなかった。一度はあきらめた音楽が今は僕を受け入れてくれているんです。僕の生きる場所は音楽にしかないんです」

 孝一郎は短くなったタバコを灰皿にねじ込んだ。

「なぜそんなにまでしてトランペットにこだわるんだ。病気をして辛い思いをしたのなら、今更泣き言を言うくらいならすっぱりやめてしまったらどうだ。おまえ一人食わせていけるくらいの財産なら残してやる」

 足の前で手を組み、さきほどより幾分声をやわらげて父はそう言った。過去の贖罪の気持ちが少しでもあるのだろうか。その変化が一樹をとまどわせた。

「そんなことじゃないんです。僕はただ好きだから、吹くことが好きだから」

 やめることはできない。やめられるはずがない。それは誰よりも父が一番知っているはずだ。一樹はこれ以上何と言っていいのかわからなくなっていた。なぜ父は僕に音楽をやめさせたいのだろうか。どうなることを父は望んでいるのだろうか。いつも期待に添うことのできない自分はこれから先どうしたらいいのだろうか。

「才能のない人間が続けられるほど甘い世界ではない。ちょっとばかり音楽の真似事をして、ちやほやされていい気になっていると足元をすくわれる。おまえのやっていることは無駄だ」

「大先輩からの忠告、ですか」

「客観的事実だ」

 あごに手を置き、射るような視線を一樹に向ける。一樹はその視線を真正面から受け止めた。ここで負けるわけにはいかない。戦いはまだ始まったばかりだ。

「何と言われてようと僕は音楽を続けたいんです。お願いします、続けさせてください」

 もう一度頭を下げる。迷惑はかけません、何度も同じセリフを繰り返す。孝一郎は無言だった。

「お父様の…」

 一樹は話し出す。あの日の衝撃を思い出しながら。

「この間CDで『東京組曲』を聴きました。とても、なんて言っていいかわからないけれど素晴らしい音楽だなって。お父様がジャズの作品を書いていたと言うことも初めて知りました。それで」

「今度は見え透いた世辞か。もう二十年も前の作品のことなど」

「ライナーノーツも読みました」

 孝一郎の動きが止まった。ゆっくりと顔を一樹の方に向ける。

「教えてください。お父様は僕を、僕のことを一度でも……」

 聞くのが怖かった。口に出すのが怖かった。もし拒絶されたらと思うと何も言わずにこのまま帰ってしまいたかった。一樹はゆっくり立ち上がるとソフトケースを背負いなおした。小さい頃の不安な気持ちをなぞるように一樹は孝一郎に問いかけた。僕のことを愛してくださったことがありますか、と。

「愛、か。ずいぶん薄っぺらい言葉だな」

 孝一郎が片方の頬だけで苦笑いを浮かべた。一樹はぎゅっと唇を噛んだ。胸の奥が冷たく凍り付いた。小さくため息をつくとそのまま立ち去ろうとした。その背中に孝一郎のほんの小さなつぶやきが一樹には確かに聞こえた。

「子を思わない親がいるものか」

 あわてて振り向くが、もう孝一郎は一樹の方を見てはいなかった。腕組みをして壁の写真を眺めていた。真理子のステージ写真、ロンティボー国際バイオリンコンクールに優勝した時の、彼女お気に入りの一枚を大きく引き延ばしたものだ。それはもう六年近くも前の物なのにちっとも色褪せてはいなかった。父と母と真理子と家族三人でパリに移り住み、入賞に向けてレッスンを繰り返していた日々、一樹が一人日本に取り残され病魔と闘っていたあの頃。真理子は当時も今も光り輝いている。両親の愛情を受け、バイオリニストとしての才能を開花させ、将来を嘱望されている。優しく素直で誰からも愛される、姉。一樹もその写真に目をやる。複雑な感情が沸き起こる。その思いを振り切るように一樹は孝一郎に声をかけた。

「また来ます。今日はこれで失礼します」

「私の方に用事はないがね。何度来てもらっても同じことだ」

「いえ、また来ます。お父様にお許しをもらえるまで何度でも来ます。あきらめませんから僕は」

「……勝手にしろ」

 サングラスを掛け直し、ドアに向かう。

 不意に、一樹は強い吐き気に襲われた。何かと理由をつけて最近は病院にすら行っていない。入院の話も引き延ばしたままだ。もし本当に再発だったら、腫瘍が悪性だったら。怖くてとても現実を直視するだけの勇気がなかった。目眩がする。ここで倒れるわけには行かない。一樹は唇を噛みしめた。

 動きの止まってしまった一樹をいぶかしむように、孝一郎が立ち上がる。来るな、こっちに来るな。浅い呼吸しかできずに、息苦しい。一歩を踏み出したくても身体が言うことを聞かない。一樹、と父に呼ばれたような気がする。でもそれもはっきりとはしなかった。

 一樹はその場に倒れ込んだ。



(つづく)

北川圭 Copyright© 2009-2010  keikitagawa All Rights Reserved

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