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誰も奪えぬこの思い ~ They Can’t Take That Away From Me 

#6

 五年前、一樹が初めての手術を受けて三ヶ月が過ぎたあの日、桃子は彼の荷物を持って退院前の検査が終わるのを一人待っていた。京成大学病院の広い明るいエントランスホールで、毎日通ったこの整形外科とも取りあえずお別れできるのかと、ほっと安堵のため息をついた。どうしてそこまで、血のつながりもない自分がする必要があるのか。桃子は自分自身のそんな行動にとまどっていた。これじゃ、篠原のことは笑えない。自分だって人の良すぎるお節介じゃないか。でも、とても放っておけなかった。

 一樹が来た。

「週一回は外来に様子を見せに来ること。二ヶ月したら化学療法をするから短期入院だ、忘れるなよ。それから、無理はするな。まだ君の身体は病気と闘っている真っ最中なんだからな」

「わかってる」

「リハビリプログラムも毎日ちゃんとやるんだよ。痛いかもしれないけれど、今しっかりと動かしておかないと」

「ちゃんとやるよ、約束する」

「何かあったら次の通院日を待ってたりしないで、すぐにここに来るんだ、いいね」

 若い主治医の大河原は、心配そうに退院する一樹に声をかけ続けていた。もうすぐ十六歳の誕生日が来る。誕生日には家で過ごせる、今年は一人じゃない。一樹は心に広がったそんな思いをあわてて飲み込んで、大河原に向き直った。

「大丈夫だよ、大河原。桃子さんだっているんだから」

「そうだったね。君よりずっと頼りになるお姉さんがいるんだったな。じゃあお姉さん、よろしく頼みますね」

「はい、わかりました」

「じゃあな大河原、またね」

「がんばれよ、一樹くん」

 半年前、一樹が感じた左手の違和感は、徐々にひどい痛みを伴うものになった。多摩にいる叔母に連絡を取り入院をした一樹に、でも結局付き添ったのは赤の他人である桃子だった。

 彼らの背中を見送りながら、病棟担当の看護師が不満げにつぶやく。

「とうとう一度も来ませんでしたね」

「ん?何が?」

「一樹くんのご両親」

「そうだね」

「そんなに世界的指揮者って忙しいんですかね」

「……どうだろう。」

「芸術家の息子やるのもなかなか大変ですね」

 大河原は黙って看護師の肩を叩いた。


「ぼくは横浜には帰らない!」

 叔母の伸子に、一樹はきっぱりとそう言った。

 退院した足で一樹は、多摩の叔母の家に寄った。かたわらで心配そうに桃子が寄り添っている。

 伸子は独身で、一樹の祖父が始めたバイオリンメソッド教室の代表を務めていた。全国規模で教室を展開し、会員数も八千人を超える。その代表ということでとても多忙で、なかなか普段は一樹とも顔を合わすこともなかった。孝一郎の妹だが、性格も違い、ぶつかり合うことも多かった。今回のことで一樹を心から心配はしていたが、何しろ忙しく、そばについていてやることは物理的に不可能だった。

「何言ってるのよ一樹。そりゃ兄さんたちはパリだけど、私が帰ってこいってもう一度話してみるから」

「無理だよ。入院中一度だって、電話にも出なかった」

 一樹が寂しそうにつぶやく。

「それに、帰ればいろんなこと思い出しちゃうし。僕、桃子さんちに行く。ねえいいでしょう?」

 伸子が目を見開いた。桃子は何も言わず、指を組んで二人のやりとりを聞くばかりだった。

「何を言い出すの。第一あなた東京に住んだらどうやって学校に通うつもりなのよ」

「学校はもう、行けないよ。今通ってる所は音楽高校なんだよ。ぼくはもうピアノ弾けないんだし。どうせ病院にはずっと通わなくちゃ行けないんだろう?だったら横浜からよりも下北沢の方がずっと近いよ」

「うちに来てもらってもいいけど、私も仕事が続くと家に帰れないしねえ」

「多摩なんか嫌だよ、全然遠いじゃん。それに、一人は嫌だ」

「神原さんにご迷惑がかかるでしょう。一樹あなたねえ」

「うちは大丈夫ですよ、家族が増えればにぎやかで楽しいし、一樹くんのことは本当の弟みたいに思っているから」

 顔を上げて桃子はそう言った。本心だった。どっちにしろ、この状態で一樹を独りぼっちにはさせたくなかった。

「神原さん……。一樹にも実の姉だっているのに、他人のあなたの方がずっと一樹のことを思ってくださっていて。本当にごめんなさいね」

「少しの間だけでもいいんだ、お願いだから」

 一樹は涙をこらえ、じっと桃子を見つめた。彼女は、大丈夫だと言いたげに精一杯の笑顔を返した。


「三階に上がるのは初めてでしょう。使ってなかった部屋だから少しほこりっぽいかもしれないけど。窓開けるわね」

 通い慣れたはずのジャムズだったが、桃子たちの居住スペースに入っていくのは初めてだった。二階には台所とリビング、客間、そして三階に小部屋が三つ。狭い造りに無理矢理部屋を押し込めたような、都会の小さなビル。一階のライブスペースがゆったりしていることに比べると、勇次らが何に重きを置いているかは明らかだった。

「狭くて驚いた?」

「ううん、そうじゃなくて」

「荷物置いたら着替えて寝なさいよ。ほらパジャマ」

「大丈夫だよ寝てなくたって。ねえ、今夜ジャムズのライブ見に行っても、いい?」

「大河原先生が安静にしてなさいって言ってたでしょう。ダメよ、おとなしく寝てなさい」

「いいじゃん、せっかくジャムズにいるのに」

「ダメ」

 けち、一樹は舌を出して拗ねてみせる。桃子は相手にしない。どんどん毛布やら掛け布団やらを引き出してきた。それを手で払いのけるようにして、一樹はその辺りに腰掛ける。

「CD持ってきてあげるから。何がいい?マイルス?それともフレディ・ハバードかしら、チェット・ベイカーもあるわよ」

「……ハイドン」

「えっ?」

「ハイドンがいい。ハイドンのトランペットコンチェルト」

「わかった。ちょっと待ってて。ちゃんとベッドに入っているのよ」

 確かどこかにモーリス・アンドレの名盤があったはず、と桃子は階下に降りていき、ジャムズの一面を占めるCDラックを目で追った。クラシックなんて普段は聴かないが、客の中には音大生も多い。彼らが自分の気に入ったCDを持ってきては勝手に棚に押し込んでいくので、知らず知らずのうちにいろいろなジャンルの盤が集まるようになってしまったのだ。ハイドンのトランペット協奏曲は、でも、篠原が持ってきたものだったか。あまりなじみのない曲なのに題名に聞き覚えがあったのは、そうなのかもしれない。棚の前でしばらく格闘していたがようやく見つけて二階に上がると、一樹はすやすやと寝息を立てていた。疲れたのだろう、服も着替えず、栗色の柔らかい髪があどけない顔にかかったまま、ベッドの片隅に小さくなって。

「全く、しょうがないなあ」

 それにそっと毛布を掛けてやる。一樹の右手に銀色に光る小さな何かが握りしめられていた。

 マウスピース。

 それを見て桃子は胸が詰まった。幾筋かの涙の跡。

 手のひらで一樹の頬を包み込むようになでると、桃子は彼の顔にかかる髪をその手で優しく払った。


 幾日かは静かに過ぎた。身体はまだ本調子ではないのだろう、一樹はベッドにいることの方が多かった。それでも食卓を一緒に囲む時、家族の団欒のようでうれしいのか、一樹は絶え間なくしゃべり続け、たわいもない話に笑顔をはじけさせた。


「ねえ、夕食は何がいい?」

 何気なく桃子が一樹の部屋のドアを開けた。ハッとしたように一樹は何かを後ろ手で隠した。カタン、何かが転げ落ちる。それは黒いファイバー製のストレートミュートだった。

「一樹、何をやってたの。手に持ってるのは何?まさか、あんたトランペット吹いてたんじゃ」

「……ダメ?」

「ダメって、無理しちゃいけないって言われてるでしょう。まだ治療中なのに楽器なんて負荷をかけたら」

「音は出るよ!右手だけだって、ほらちゃんと」

 一樹は右手だけで楽器を支えると、低音域のパッセージを吹き始めた。時折楽器がふらつく。音もそれに伴って不安定に揺れ続けていた。不意にパッセージが途切れる。一樹は右手で楽器を握りしめると、胸に押し当てて悔しそうに唇を噛んだ。

「一樹、もっと良くなってから、ね。今は無理しちゃいけないわ」

 桃子が優しく声を掛ける。彼から楽器を取り上げようと腕を伸ばすが、一樹は頑なに楽器を抱きしめたままでいた。

 ため息をついて桃子はそばのイスに腰掛けた。昔桃子が使っていた木製の頑丈なライティングデスクの上に、何の気なしに視線を走らせる。そこには見慣れない薄いパンフレットのようなものが置かれていた。

「東日本……学生音楽コンクール募集…要項、トランペット部門。どうしたの、これ。」

「……」

「一樹!?」

「出たいんだ!中学に入ってからこのコンクールに向けてずっと練習してきた。五年にいっぺんしかトランペット部門はやらないんだ。だから!」

「無茶なこと言わないで」

「もうこれで終わりにするから、これであきらめるから!ねえ、いいでしょう?やってみたいんだ!」

「だって、片手じゃ吹けないでしょう。どうやって楽器を支えるつもりなの」

「それは……でも音は出るんだ!ちゃんと音は出るんだから」

「左手を楽器に固定できればいいんだよな、な、一樹くん」

 いつの間に来たのか、篠原が桃子の後ろから声を掛けた。あわてて桃子が振り向く。そんな視線にはお構いなしに篠原は部屋に入ると、一樹に近づき、彼の左手を持つとそっとトランペットに近づけた。

「何してるのよ篠原くん!一樹に無理をさせないで!」

「無理じゃないよ、確かに音は出るんだからあとはさ、どうやってこれを固定するかだよ」

「コンクールなんて無理に決まってるでしょう?」

「やってみなけりゃわからないじゃん。こんな風に頭でいろいろ考えてあとで後悔するくらいなら、やってみればいいんだよ」

 縛って固定すればいいのかな、とぶつぶつ言いながら篠原は、一樹の手を取って楽器に押し当てた。一樹は篠原の行動にあっけにとられ、何も逆らわずにされるがままになっていた。

「縛るのは、痛いよね一樹くん。ガムテープは、もっと痛そうだよね。どうしよっか」

「篠原くん、いい加減にして!一樹は病気なのよ、楽器だって持てないのよ、吹くことだってできるかどうかわからないのに、無責任なこと言わないで!」

「どうしてさ。このままじゃ一樹くんだってあきらめきれないよ。ずっと目標にしてきたコンクールなんだぜ。何も優勝して一位になれなんて誰も言ってないだろ。出場して大勢のお客の前で演奏して、聴いてもらって、結果なんておまけだよ。やるだけのことはやってさ、それでやっと自分自身も納得できるんじゃないの?」

「……わかった、このパンフレット持ってきたの、あなたね」

「山場の売り場には束になって置いてあったからね」

「あなたがたきつけたんでしょう!一樹にはまだ療養が必要なのに、どうしてそんな事するのよ!」

「違うよ桃子さん!ぼくが頼んだんだ!ぼくが、どうしても出たいからって」

 二人の険悪な空気に、あわてて一樹が口を挟む。ぼくのことでけんかなんかしないでよ、と小さな声でつぶやく。

「どうしても、コンクールに出たいの?」

「……うん」

 一樹は立ち上がると、楽器をそっとケースの上に置いた。銀色に輝くトランペットを辛そうに見つめる。

「これであきらめるから、もう二度と楽器は吹かないから、これで……最後にするから」

 唇を噛みしめながら、一樹はうつむいてそう言った。華奢な身体がますます幼く見えて、桃子は胸がいっぱいになった。

「大河原先生がいいって言ったら、いいわ」

「本当?ホントにいいの、桃子さん?」

「あたしの許可なんていらないわよ、あんた自身のことなんだから。でも主治医がダメって言ったら絶対にダメよ、それは約束できる?」

「何とか説得してみるよ、な、一樹くん」

「あなたが何で説得するかなあ、ややこしくなるから篠原くんは口を挟まないで」

 桃子の言葉に、拗ねたように篠原が黙り込む。子どもじみた表情に思わず桃子も頬が緩んだ。


「一樹、袖を見せてみて」

 桃子が一樹の左腕を掴んで持ち上げる。音高の制服の袖の下から赤く染まったワイシャツが見て取れた。一樹が腕をあわてて引っ込める。だが、何かに当たったのだろう、苦痛に顔をゆがめる。

 東日本学生音楽コンクールは、久々のトランペット部門開催ということで、幅広い年齢層の参加者であふれかえっていた。一樹のような高校生から、大学院生、研究生まで、若い管楽器奏者たちが二次予選出場をかけて、日頃の成果を出し合っていた。

 一樹は動かなくなった左手に、お手製の革のプロテクターをはめた。篠原が山場楽器のリペアマンと相談し、試行錯誤しながら作り上げたものだった。手のひらになじむよう切れ込みを入れ、一樹の手のサイズに合わせベルトを縫いつける。お世辞にも見栄えがよいとは言えなかったが、当初の目的通り、何とか楽器は固定できた。ただ、取りあえず動かないでマウスピースが当てられた、というところだったが。

「あんたねえ、傷口から出血しているじゃない」

「擦り傷と同じだよ、大したことない」

 一樹は口をとがらせた。今度は篠原が左手を取ってまじまじと見る。一樹が手を引こうとするが篠原にがっちり押さえつけられて動きが取れない。

「あーあ、革に擦れて縫ったところのかさぶたがはげちゃったみたいだね。この革がよくないのかなあ」

「きついんだよ、落ちないようにって篠原さんがぐいぐい引っ張るから」

 一樹がふてくされてそうつぶやく。そりゃ悪かったな、と篠原がやり返す。

「痛む?」

 桃子が顔をのぞき込む。一樹はそっぽを向いて別に、と返した。

「痛くて吹けなかったのか。だとしたら本当に悪かったな」

 篠原がすまなそうな顔をした。

「篠原さんのせいじゃないよ、傷口が痛かったわけじゃないし。ただ…」

「ただ?」

 もう限界だった。無理を重ねた左腕はしびれて感覚を失っていて、楽器を正しい位置に支えることができないでいた。楽器がバランスを崩せばアンブッシャーにも右手のフィンガリングにも影響を及ぼす。わずかな乱れはすぐさま一樹の繊細な音色と正確なピッチに影を落とした。きちんと吹けなかった。でもそれは始めからわかっていたことなのだ。

 午前と午後にわたる長丁場の予選会は、病み上がりの一樹には厳しすぎた。腕が痛む。指がしびれる。唇の位置を無理に合わせようとして右腕を微妙に傾げた状態のままで吹いたせいか、身体中がきしんでいた。音を出すのが精一杯だった。

 結果は見なくてもいい、一樹はそう言い張って聞かなかった。篠原が必死に引き留める。

「いいんだよ、もう。結果なんて見ないでも自分でよくわかってる。もう帰ろう」

「あきらめるなよ。例えおまえの言うとおりダメだったとしても、最後まで結果を受け止めろよ。男だろう?」

 一次予選の結果は間もなくロビーに張り出されるはずだった。気の早い一部の出場者たちがそちらへと集まり始めていた。だが一樹は帰ろうと言い続けた。口をぎゅっと結んで表情は硬かった。よほど悔しかったのだろう。篠原の声も耳に入らないようだった。

 人のかたまりの中に佐々木教授の姿を認めた。一樹が小学校一年生の頃から、ずっと教えを請うていた。突然レッスンを長期に休んだ時も、プロテクターをして痛々しい姿で再開をと願った時も、彼は快く一樹を受け入れてくれた。教授の門下生たちも多くこのコンクールに出場していた。その生徒たちの輪の中心で佐々木教授は一人一人に声をかけていた。

「ほら、一樹も先生に何か言ってこなくていいの?」

 桃子が促す。それに何も答えない。一樹はわざと教授と反対の方向を向く。すねちゃって、本当にこの子は。桃子がため息をつく。

「結果を出したかったの?」

 努めて穏やかに桃子がそう尋ねる。

「そうじゃないよ」

 一樹は楽器ケースを足元に置いた。さっきめくられた袖を片手で引っ張り直して、左手に視線を落とす。血はもうすっかり固まってしまって茶色いシミを残していた。白いシャツに付いたこのシミはもう落ちることはないだろう。だが、一樹がここの制服を着ることはこれから先ないのだ。このコンクールが最後、これが終われば学校を辞める。そう決めた。

「きちんと吹けなかったのが悔しい。自分のベストが出せなかった。僕はもっとちゃんと吹けるはずなのに。それが悔しくて」

 一樹が吐き出すように言った。

「仕方ないじゃない。今の一樹の状態ならここに出場することだって…」

「違うんだ。わかっていたことなのに自分でコントロールできなかった。篠原さんがリペアのおじさんとこれを作ってくれて、桃子さんが自分の家に住まわせてくれて、佐々木先生がもうすっかり見捨てられたと思っていたのに、またちゃんとレッスンをつけてくれて。なのに自分だけが甘い考えでちゃんと向き合ってなかった。悔しいんだよ自分の甘さが」

 何かをこらえるかのように上を向く。一樹は続けた。

「結果じゃないのはわかってる。最初から一次を通るなんて考えてなかった。出られるだけでいい。でも演奏はちゃんとしたかったんだ。大勢の観客に僕の音楽をちゃんと聴いてもらいたかったんだ。これが、これが最後になるのに」

 ゆるやかな階段の向こうから歓声が上がる。結果が張り出されたのだろう。人の流れが速くなった。

「五十一番だったよな。俺ちょっと見てくるよ」

「いいよ篠原さん。もういいから」

「自分で見る勇気がないんだったら、俺がしっかりとこの目で見てきてやるから」

 篠原が声を張り上げた。それに反発するかのように一樹が言い返す。

「自分で見るよ、自分で見るから!」

 篠原が一樹の楽器ケースを持ち上げる。そしてそのまま軽く肩を押す。さあ行ってこい、そんな気持ちを込めた。一樹は頼りなさげに歩き出した。結果を知るのが怖いのだろうか。何を今更。自問自答する。

 人の壁の向こうに数字が並んでいる。二次予選に進めるのは全体の半数。本戦に残れるのはたったの五人だ。

 東日本学生音楽コンクールの本選に残れば奨学金が与えられ、成績上位者には留学のチャンスもある。一樹は中学に入った頃からこのコンクールに焦点を合わせて練習を重ねてきた。奨学金が欲しいんじゃない、留学したいわけじゃない。入賞すれば父も母も僕を認めてくれるかもしれない。そんな微かな、でも切実な思いがあった。

 今は。

 今となっては、もう上位入賞がどうのなどどうでもよかった。この先、トランペットを吹き続けることだってもう無理なことなのに。この手で、この腕で、プロの演奏家になることは不可能だ。それは自分が一番よくわかっていることじゃないか。

 それでも、コンクールに出たかった。もう一度演奏がしたかった。大勢の人に聴いてもらいたかった。最後の演奏。これで気持ちにけりをつけなければ。

 一樹は目をつぶった。怖くてすぐには二次予選出場者名簿を見ることができなかった。息を大きく一つ吸う。もう一度、せめてあと一度。

 意を決して一樹は目を開けた。最初の番号から順に見ていく。一番、四番、十二番…。

「……あった」

 見間違いではないだろうか、何度も見返した。確かにある。自分の番号が名簿には書かれていた。

「ねえ、桃子さん!篠原さん!あったよ、ぼく二次予選に出られるよ!」

 あわてて振り返り、二人にそう告げる。二人とも笑顔だ。やったな一樹くん、篠原が一樹の髪をぐしゃぐしゃにかき回す。

「ほら、行ってらっしゃい」

 桃子が一樹に声を掛ける。

「あっ」

 視線の先に佐々木教授がいた。

 生徒たちの群れに向かって歩き出す。何と言えばいいのか。一樹は頭の中で言葉を反芻する。

 教授がこちらに気づいた。目が微笑んでいる。

「先生、おかげさまで一次を通りました。あのぼく…」

「おめでとう、二次へ向けての練習をしなくてはいけませんね。明日からレッスンにいらっしゃい」

 教授の言葉は温かくも短かった。二次予選は一週間後、のんびりしている暇はないのだ。

もう一度吹ける。演奏することができる。大勢の観客の前で僕の音楽を。

 一樹はその喜びをかみしめていた。


「それで二次予選は」

 グラスを磨きながら勇次がのんびりとした口調で一樹に尋ねる。ジャムズの昼下がりは道路に面した側の大きな窓から光が射し込み、夜のとげとげしさを消していた。

「気持ちよく演奏できたんですか?」

 そう言って笑顔を向ける。マイルスディビスのCDを聴きながら、すごい勢いで楽譜に音符を書き込んでいた一樹は、顔を上げて勇次を見た。左手には真っ白い包帯が巻かれている。二週間は絶対に動かさないこと、病院の先生にくぎを刺された。もうあんな無茶はしない、必要もない。コンクールは終わったのだ。

「楽しかったよ。ジョリヴェのトランペットコンチェルトを吹いたんだけどさ、お客さんはみんなしっかり聴いてくれたしノーミスで吹けたし指も動いたし。何よりも音がすごく伸びて本当によく響いたんだ。あんなに気持ちよく吹けたのは初めてかもしれない」

「本選に残れなくて残念でしたねえ」

 勇次の声は変わらずのんびりとしていた。それが一樹にはうれしかった。そう確かに残念だ。でも悔いはない。

「高校の手続きすませてきたわよ」

 ドアを開けて桃子が入ってくる。薄手のコートをハンガーに掛けながら一樹に話しかける。

「ありがとう桃子さん。これで全部、かな」

「辞めちゃって本当によかったの?休学延長もずいぶん勧められたわよ」

 イスを引き寄せて桃子が腰掛ける。形のよい足を組み、膝に手を置く。

「いいんだ、どうせもう楽器は吹けないしピアノも弾けないし、あの学校にいる意味なんてないじゃん」

「ご両親は何だって?多摩の叔母様とはお会いできたけど、勝手に退学なんてして叱られない?」

 この間、パリにいる両親には一応電話を掛けてみた。相変わらずの短い会話、無駄だとは知っていたが学コンで二次に進めたことを話してみた。入賞しなければ意味はない、それが父親の返事だった。高校も辞める、家には帰らない、言い捨てて電話を切った。

「あの人たちは僕に興味なんてないから」

 桃子が悲しげに一樹を見た。これからどうするつもり?と声を掛ける。

「僕の口座に入金はあるんだろ。それで暮らすよ」

 多摩にいる叔母が、桃子の家で世話になっていることを伝えると、両親はかなりの額を生活費にと送ってくるようになった。ただ、それだけだった。言葉の一つで、救われるのに。桃子は自分たちがないがしろにされたことより、一樹のことを思うと切なかった。

 アドリブソロのメロディーを耳で聴いて譜面に起こす。最近一樹が凝っていることの一つだ。クラシックは聴かなかった。避けているようにも見えた。勇次に教えてもらいながら、ジャズの名盤と言われているCDを一つ一つ聴いていく。放っておけば食事を取ることも忘れて一日中ジャズを聴いていた。

「もう一樹くんはトランペットを吹かないんですか」

 勇次がグラスの輝き具合を光に照らしながらそう言う。一樹が目を上げる。でもすぐに目を伏せた。

「吹かないんじゃくて吹けないんだよ、マスター」

「手の傷が治ったら、ジャズを吹いてみたらどうです」

「ジャズを?」

 一樹の手が止まった。何を言い出すんだろう、いぶかしげな表情だ。

「父さん、一樹はね」

「ジャズはクラシックほど厳密さを問われることもないし、何、少しくらいピッチがずれていようとリズムが揺れていようと、誰も気にしませんよ」

 勇次がグラスを置いて改まって一樹に向き合った。一樹も体を起こし勇次を見つめる。

「ぼくはもうトランペットは吹けないんだ」

 自分に言い聞かせるように言葉を発する。

「そうでしょうか」

 勇次はガラスの向こうを見やるように目を細めた。

「ジャズは何でもありですよ。片腕のプレーヤーがいてもいいじゃないですか。もちろんちゃんと身体を治してお医者様からOKをもらってからになるでしょうが」

「父さん、一樹に無用な期待をさせるようなこと言わないで。無責任よ。期待させといてもし吹けないことがはっきりしてしまったらこんなに残酷なことないでしょう?」

 桃子はたしなめるように勇次に言った。

「プロの演奏家にならなくてはいけませんか。もっと気楽に音楽を楽しんでみてはいかがですか」

「別の仕事を持って休みのたんびにジャズのまねごとをして遊べって。そんなことするくらいなら二度と吹かない方がよっぽどいい」

 苦しげに一樹はそう言った。

「一樹くんはストイックですねえ。音楽は楽しくありませんか」

 緊張を解くように笑顔で勇次が尋ねる。

「ジャムズはね」

 言葉を続ける。

「ここから巣立っていったプロの方も大勢いますが、演奏することを仕事に選ばなかった人たちもたくさんいるんですよ。演奏してお金をもらうことが偉いことなんでしょうか。私はね、違うと思うんです。創造すること、新しい物を作り出すこと、他の演奏者から互いに刺激しあい高め合う演奏をすること、それができればプロであるとかアマチュアであるとか、関係ないと思うんですよね。ジャムズはそんな人たちが集う場所にしたいと思っているんですよ」

 勇次はカウンターから出て一樹のそばに腰を下ろした。目が微笑んでいる。見守るような温かい目だ。大きな手を広げて一樹の頭に乗せる。

「私もきみも、明日交通事故に遭って身体中が動かなくなるかもしれない。そんなことは誰にもわからないんです。でも、音楽を楽しむことはできる。どんな状況でもその人なりに音楽に触れることはできる。格好悪くてもいいじゃないですか。どうですか一樹くん」 勇次の言葉は続く。

「もちろん演奏者としてではなく、私のように音楽を受け取る側に徹するというのも一つの方法だと思います。今、一樹くんが聴いているように、ね」

「マスターの話は難しくってよくわかんないよ」

 視線を下に落としたまま、一樹がつぶやく。

「桃子さんの言うとおり、もう絶望するのはイヤなのかもしれない。傷つきたくないんだ。怖いんだ」

「そうですか。無理にとは言いません。ごめんなさいね、嫌な思いをさせてしまいましたかね」

 一樹が黙り込む。ペンは止まったままだ。CDは最後の曲のエンディングを迎えていた。 

 店に静寂が訪れた。



(つづく)

北川圭 Copyright© 2009-2010  keikitagawa All Rights Reserved

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