言い出しかねて ~ I Can’t Get Started
#5
ランチも終わり、珍しく桃子が一人で店の片づけに追われていたある日、電話が鳴った。篠原からだった。
「一樹くんの楽器の型番教えてくれないかな。後輩に訊かれてたんだけど本人に会えなくてさ」
「うちにもいないのよ、最近いつも出掛けているから」
じゃあ楽器ケースを開けて本体の隅に書いてある番号を教えてよ、篠原がそう続けた。急いでいるようだったので桃子は仕方なく承諾した。本人がいない隙に部屋に入るのも楽器に触れるのも気が引けたが、篠原には必要な情報なのだろう。そのくらいはしてあげたい、そうも思った。だいたいいつも居ないのが悪いのだ。桃子は久しぶりに一樹の部屋に入っていった。カーテンが閉まっていて薄暗い。ベッドにオーディオコンポに溢れるほどのCD。殺風景な部屋の片隅にいつも彼の使っている見慣れた楽器のハードケースが置いてあった。そうっと床に置き直しふたを開ける。薄いベルベット状の布をめくると銀色に光るトランペットが見てとれた。
「型番、型番、と」
お目当ての記号はすぐに見つかった。急いでそれをメモに取る。ケースにしまいふたを閉めようとした時、一角の収納スペースにおよそ楽器にはそぐわない物が入っていることに気づいた。思わず手に取る。白い紙の袋、印刷の文字。薬局の、薬?
「人の部屋で何してんだよ」
背後から声を掛けられ桃子はびくっと体を震わせた。一樹だ。だが彼が袋をひったくろうとするより早く桃子は立ち上がり手を引っ込めた。
「返せよ、勝手に人の楽器触ってんじゃねえよ」
「何よこれ。どうして薬なんかがあるの。どうして楽器ケースに隠してあるの?」
「隠してなんかねえよ、ただの胃薬だよ」
「胃薬?ここに整形外科って書いてあるわよ。京成大学、病院、整形外科?ちょっとどういうことよ!」
桃子はその文字を素早く読むと一樹の前に突き出した。
「まさかあんた、また」
「桃子さんには関係ねえよ!」
「関係ないわけないじゃない」
「うるさいな、ほっといてくれよ!」
一樹!思わず声が大きくなる。だが一樹はそれに答えずに目をそらした。
「たとえご家族様でもお電話ではお教えすることはできません。ご本人様とご一緒に来院していただいて」
無理を承知で京成大学病院の外来に電話をしてみた。一樹の病状を教えて欲しい、と。やっぱりこっそり後を付けるしかないか。桃子はため息をついた。このところ、桃子にも勇次にも行き先を告げず、出かけることが多かった。楽器を持たずに行くなんて、一樹にしたら珍しい。帰ってきてからは決まって体調を大きく崩していた。何も吐く物がなくなってもこらえきれない吐き気に襲われて、全く食べ物を受け付けない。あれほど浴びるほど飲んでいた酒も飲まず、タバコも吸わず、辛そうにベッドに倒れ込み身体を丸めて横になっている。
まさか、本当に再発したのではないだろうか。
彼の左手を蝕んだ悪性の腫瘍が、五年前完治したはずの病気が、また彼を襲っているのではないのか。
桃子は不安で胸がいっぱいになった。
今の一樹は何も言ってくれない。
十五歳のあの夏には、すがるべき両親も日本に帰らず、一樹は心細さからか桃子の手を離さなかった。辛い思いも死への恐怖も、話すことで少しでもまぎれるのならと、桃子は夜通し病室で一樹と向かい合っていた。
今のあの子は、まさか一人で何もかも受け止めようとしているのではないか。
彼の肩を揺さぶって、何もかも洗いざらい聞き出したかった。でも、もう小さかった一樹じゃない。果たして親でも兄弟でもない桃子がそれをしていいものかどうなのか、迷い始めていることも確かだった。
でも……。桃子は思い切って立ち上がった。
外来の長椅子にその脚を投げ出し肩をすぼめて一樹は一人座っていた。もう受付時間も終わり人もだいぶ少なくなってきていた。桃子は変装用にとかぶってきた帽子をそっと取った。一樹は何か考え事をしているようで桃子にはちっとも気づいているようではなかった。
黙って隣に滑り込むようにして座る。まだ気づかない。横顔を見つめる。元々やせぎすの顔立ちがここ最近酷くやつれてしまった。無理もない、ほとんど食べていないのだから。
どこかあどけなさが残るその顔が痛々しかった。彼が右手で髪をかき上げる。その拍子にふっと隣に視線を泳がせる。
「…!?」
ぎょっとしたように桃子を見つめる。声も出ないようだ。桃子はすました顔で一樹を見返した。
「何してんだよ、桃子さん」
「あら偶然ね。一樹もここに来てるなんて」
「何が偶然ね、だよ。つけてきたんだな」
押し殺したような声で一樹が桃子に言葉を投げつける。つけてきたなんて人聞きの悪い、桃子は開き直ってそう言った。
「帰れよ、桃子さんには関係ないだろ」
「そうはいかないわよ。本人と一緒じゃなきゃ教えてくれないって言うんだもの」
「何がだよ」
そのうち待合室にチャイムが鳴って一樹の名前が呼ばれた。あわてて彼が立ち上がる。桃子ももちろんその後に続く。何でついてくるんだよ、一樹はまだ怒っているが桃子は気にしない。そのまま処置室と書かれた小部屋に一緒に入っていく。
「ねえ何で診察室じゃないの?ここでいいの?」
「うるさいな、いいからとっとと帰れよ」
一樹は部屋に入ると慣れた様子でベッドに腰掛け、看護師に腕を差し出す。横になっていいですよと促され、仰向けに横たわる。看護師が桃子の方を見て何か言いたそうなそぶりをした時、中仕切りのドアが開いて見覚えのある顔がのぞいた。
「気分はどうだ、今回は効いてくれそうかい一樹くん。おやそちらは」
前のボタンもきちんと留められていない格好で、白衣もよれよれの医師が気さくに声をかけてきた。やや長めの髪を真ん中から分け、銀縁の眼鏡の奥には優しい目が光っていた。五年前の一樹の主治医、大河原だった。
「ご無沙汰しています、その節は大変お世話になりました」
桃子が頭を下げる。それを見て、ああ一樹くんのお姉さん、と大河原が声を上げた。
「姉さんじゃねえよ、赤の他人だよ桃子さんは」
「お姉さんちょっと、こっちに来てもらえますか」
大河原が手招きする。姉さんじゃねえよ、もう一度一樹が怒鳴るが大河原は関知しない。桃子はとまどいながらも一樹をそこに残して別室へと向かった。
「お姉さんからも言ってもらえませんか一樹くんに。早く入院しろって」
変わらずやわらかい口調で大河原が桃子にそう言った。
「入院、ですか。そんなに悪いんですか。あの子何も言ってくれなくて」
「お姉さんに話してないのですか。困った人ですねえ」
「お恥ずかしいことですが、病院にかかっていることも知らなかったんです。でもここのところずっと体調が悪くて家にいても吐いてばかりで」
そうですか、と大河原が腕を組みながら答える。それは化学療法の副作用なんです、と。
「化学療法?」
「いえね、今はそんなに副作用の出ないタイプの薬剤が多いんですが、一樹くんは薬と相性が悪いというか敏感というか、どの薬を使っても吐き気や倦怠感といった副作用が強く出てしまうようなんですよ。ですから入院して状態をコントロールしながら治療を進めるのがベストなんですけれどね、本人がどうしても外来でして欲しいと言って聞かないので我々としても困っていたところなんです。無理矢理入院させることもできませんし、ね」
「あの、どうしてそんな治療を?病気は五年前に良くなったんじゃなかったんですか。手術してすっかり大丈夫になったって」
「ええ」
大河原はちょっとばかり難しい顔つきになった。本当に何も話してないんですね、ため息をつく。
「五年前には進行の速い悪性腫瘍でしたから、かなり広範囲に手術を行いました」
そうだ、そのせいで彼の左手の指は動かなくなったのだから。自分の力で楽器を支えることもピアノを弾くこともできなくなった。クラシックをあきらめ、オーケストラの一員になることをあきらめて。
「もともと良性腫瘍からの悪性化ですから、そういったものができやすい体質なのだと思います。今回の場合も良性なら取ってしまえばいい。いたずらに恐れることはありません」
桃子は頭ががんがんしてきた。この医師は何を言っているのだろう。
「一番恐いのは悪性であった場合を見逃して、別の場所に転移させてしまうことなんです。そうなってしまってからでは遅すぎる。生命に関わりますからね。ですから疑わしきは早めに叩けとばかりに化学療法を、早い話が抗ガン剤治療です。」
その後大河原が何を言ったのか、桃子は正確には思い出せなかった。何も耳に入らない。ただ、再発ということとそれが良性ではない可能性があるということだけが頭の中をぐるぐると回っていた。桃子は視線を下に落とすと両手で顔を覆った。
大河原の声が優しく語りかける。良性でないと決まった訳じゃないんです、と。
「ですからお姉さんからも一樹くんに言ってください、入院して治療をしっかり受けてくれって」
「今日このまま、入院させてください。一樹には話してわからせますから。お願いします。どうかあの子を助けてやってください」
桃子は大河原に頼み込んだ。必死だった。
大河原が優しい眼差しでうなずく。桃子の肩に手を掛け、安心させるかのようにそっと叩く。大丈夫です、と繰り返しながら。
処置室に戻るともう点滴は終わっていた。だが一樹は起きあがることもできず苦しそうに吐き気と闘っていた。何も吐くものがなく胃液しか出てこない。それがまたなおさら辛そうだった。桃子は思わず目を背けた。しかしすぐに一樹の方に向き直すと彼の側にしゃがみ込んだ。
「ねえ、このまま入院させてもらおうよ。必要なもの取ってくるから。ね?」
「……イヤだ」
苦しい呼吸の間から絞り出すように一樹が言った。目をぎゅっとつぶり苦痛に耐えている。
「病院は嫌いだ。家に…帰る」
「何で言ってくれなかったの?たった一人でどうして我慢していたの。あたし達家族じゃない。辛かったら辛いって言っていいのよ」
桃子がそっと一樹の乱れた前髪を直す。それを力無く払いのけると、一樹はふらふらと立ち上がった。
「家族なんかじゃない。病院なんか嫌いだ。桃子さんも嫌いだ。おれは帰る」
そのまま部屋から出ていこうとする。若い看護師がそれを止めようとするのを邪険に振り払う。足元が危うい。それでも一樹の意志は固かった。
「イヤなんだよ病院が。もう、もう二度と家に帰れないような気がして。目が覚めたら左手だけじゃなくてこの右手までもが動かなくなっているような気がして。もうおれからすべてが取り上げられてしまって、何もできなくなってしまうんじゃないか、って」
一瞬、一樹が息を止めて桃子を見る。
「怖いんだよ」
そうつぶやく。
「だから家に帰してくれ。頼むから。家にいたいんだ。みんなの側にいたいんだ」
桃子にはもう何も言えなかった。胸がいっぱいになって言葉をかけることができなかった。
「一樹くん」
大河原が優しく声をかける。
「手遅れになんかさせないよ、僕が約束する。君はまたちゃんと楽器が吹けるようになって、元気になって、普通の生活が送れるようになるよ、僕が保証するから。だから入院治療を受けてくれないかい」
「大河原も嫌いだ」
一樹は主治医に悪態をついた。ドアにもたれ、彼をまっすぐににらんでいる。
「五年前に治ったって言ったじゃないか。化学療法を受ければこの指がまた動くようになるっていうのか。再手術でも受ければ、左手はまた元のようにトランペットを持てるようになるのか。無理なんだろう?嘘ばっかりつくなよ!」
叫び声を上げたいのにその体力もなかった。唇を噛みながらかすれ声でそうつぶやく。それだけ言うとうつむいて肩で息をした。
「とにかく一度家に帰って、それから話をしましょう、ね?」
幼い子どもに諭すように桃子が一樹に向かって言った。この場に居続けることで一樹が傷ついていくことに耐えられなかった。一樹の不安や絶望、そんな感情が押し寄せてきて、誰もがやりきれない気持ちで押し黙った。
桃子は大河原やそばで心配そうに見ていた看護師達に頭を下げると、一樹の背を押して部屋を一緒に出ていった。
外は穏やかな春の日差しだった。木々の緑が目にまぶしかった。だが二人ともそんな風景を見る余裕もなかった。タクシーを待つ間にも一樹は植え込みにしゃがみ込み、苦いえずきをこらえるのに苦労していた。桃子がミネラルウォーターのペットボトルを差し出す。一樹の片手ではそれは開けることができなかった。桃子はふたをはずすと彼の右手にボトルを持たせてやった。口を付けてほんの少し飲み込む。それが刺激になったのか苦しそうに咳き込んだ。左腕で口をぬぐうと一樹はそばのベンチに倒れ込むように座った。
「……やっぱりおれのせいなのか?」
唐突に一樹が桃子に向かって言った。隣に座ってタオルを差し出しながら桃子は何のこと?と問いかけた。
「シアトルに行かないのは、おれのせいなんだろう?」
「違うわ」
静かに桃子はそう答えた。どこを見るでもなく視線を泳がす。あんたのせいじゃないわよ、そう続けた。
「じゃあどうして」
「想像できないの。シアトルで生活している自分が思い描けないのよ」
自分に言い聞かせるように一言一言噛み締めながら桃子は言った。それが本心なのかもしれない、そう思いながら。
「篠原君の隣にいる自分が、彼と一緒に生活するということが今はどうしてなのか全然考えられないの。店のことが心配なんていうのは、ただの言い訳なのよきっと。もちろん、一樹のせいじゃないわ。これは、あたし自身の問題なのよ」
一樹は何も言わなかった。もう一度ミネラルウォーターを口にすると、また軽くむせた。
五年前も、この季節だったか。小さかった一樹が立ち向かった病魔はとてつもなく強大で、なすすべもないのではないか、そんな思いすら抱かせた。またあの辛さを一人味わわせてしまうのだろうか。それとも今度は日本にいる実の両親に、救いを求めた方がよいのではないか。
桃子の心は揺れ続けていた。
(つづく)
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