あなたと夜と音楽と ~ You and The Night and The Music
#イントロダクション
誰も君を忘れない
いつまでも覚えているだろう
君の音は心に残り
忘れることはないだろう
君は今でもここにいる
いつまでもいつまでも
アイ・リメンバー・クリフォード
僕は君をけっして忘れない
「クリフォード・ブラウンって、知ってる?」
銀色に光るトランペットを柔らかい布で磨きながら、篠原が一樹にそう問いかける。
昼間の光を浴びたジャムズは、ライブハウス特有のいがらっぽさもいかがわしさもすべて消して、まるで居心地のいいカフェテラスにでもいるような錯覚を一樹に感じさせていた。
もう二度と着ないであろう音楽高校の制服を、脱ごうかどうしようか迷いながら、一樹はジャムズの固いイスに腰掛けて、篠原の次の言葉を待った。
もう二度と、そう、二度と自分は楽器を吹けないだろう。
すべてが終わり、時が止まり、今は。
うつむく一樹に篠原はそっと語りかける。
「アメリカのジャズトランペッターなんだけど、ハードバップを支えた一人と言われる名プレイヤーでね」
「アイ・リメンバー・クリフォードなら、ぼくもこないだ聴いたよ」
そのCDならマスターが貸してくれた。ささやくようなトランペットの音色。誰が吹いているのかも、誰が作った曲なのかも知らない。でも、クリフォードと言えばきっとその曲の作者に違いない。大学のジャズ研所属でマニアを自認する篠原にちょっとした対抗意識を持って、一樹は口を挟んだ。
でも、そんな一樹の生意気な口調に、篠原はほんの少し寂しげな表情を返しただけだった。
通りに面した大きな窓から、さらにその向こうの遠くを見つめる。一樹も思わずそちらに視線を送る。
「交通事故で、たった二十五歳でクリフォード・ブラウンは死んだんだ。アイ・リメンバー・クリフォードは彼の友人が追悼のために作ったバラードだよ」
「そう、なの?」
「楽器を手にしてからたったの十三年間しか経ってない。ほんの数年の活動期間とわずかなリーダー作。それでも世界中のジャズファンが、彼の演奏を今でも愛している」
「……」
「音楽は残る。人の心に。誰もが忘れない」
「うらやましいな、その人が」
ゆっくりと篠原が向き直る。優しい目が微笑んでいる。
「君も……」
篠原は言葉を切って、また窓の外を見やる。何?何なの?一樹は不思議そうに彼に問い続けるが、何でもないよと笑うばかりだった。
もうじきマスターも桃子も帰ってくるだろう。
開店前の静けさが、ジャムズを包み込んでいた。
#1
「ちょっと、一樹!早く帰ってきたのなら店手伝ってちょうだい」
ジャムズのドアを開けるか早いか、一樹に向かって桃子の大声が飛んできた。ちょうどランチタイムの混雑が始まった時間帯だった。帰る時間を間違えた、一樹はほんのちょっぴり後悔した。
下北沢の大きな通りを一本外れた一角に、その店はあった。おおよそライブハウスらしからぬ、通りに面した大きな窓と、木製のドア。その前にはご丁寧に手書きのメニューボードまで飾られている。
シェフが前島になってから、ジャムズのランチはこのあたりでは安くておいしいと、わりと評判になった。近くの会社のOLたちが列を作ることも多い。ランチタイムのジャムズは桃子が仕切っている。普段はそこにバイトが二人、フル稼働してやっとだ。
「おれ、仕事帰りで疲れてんだけど。朝っぱらから一応トランペット吹いてきたんですけど、あの」
悪あがきとは知っていたが、一樹は弱々しく桃子に向かって抗議してみた。
「そういうセリフはね、二十歳にもなって定職もないヤツには似合わないの。つべこべ言わずにほら、働く!」
桃子の声が冷たく響く。一樹は、整った顔を隠すかのようにかけていたサングラスをとると、ため息をついた。七つ下ということを差し引いても、桃子にかなうはずもない。
「マスターは、いないの?」
「この時間はどうせパチンコかスロットよ。父さんはね、昼間は本当に役に立たないんだから。はい、早くエプロンして」
桃子にせかされて一樹はあわててフロアに入る。片手ではどうしてもエプロンのひもがうまく結べない。それに気づいて、桃子が忙しい手を止めてさっと一樹の背後に回る。
「動くな。全く世話の焼ける」
「すんません。働きます」
「ほんとよ、食費分くらいは働いてちょうだいよね」
一樹はあわてて、何か言いたげな女性客の集団に向かって、注文票を持って近づいていった。こういう時は営業用のスマイルを浮かべることだってちゃんとできる。ご注文は?お決まりですか?早くしてくれ。
新しいバイトだろうか、若い男の子が忙しそうにフロアを駆け回っている。小柄でやや小太りな体型だが、動きは軽快だった。黒縁のメガネが曇るのも意に関せず、せっせと料理を運んでいる。それを押しのけるように、一樹は厨房に向けて声を張り上げた。男の子が顔をしかめる。一樹は全く気にしていなかった。
「何なんですか、あんた!」
「こりゃ失礼。こっちも急いでんだ」
にやりと笑って一樹は注文票をカウンターに投げた。それをあわてて男の子が受け止めた。
「うまいじゃん」
「なっ!」
厨房の前島が手際よく料理を作っていく。湯気の立ったパスタにサラダ。綺麗に盛りつけられたそれらを、桃子が手に取る。それを奪うように、
「あっ、ボクそれ運びます」
と男の子があわてて声を掛ける。
「ありがとう。じゃあ五番にお願いね」
「まかせてください。ちょっと、どいてくださいよ!」
狭い店内だ。動線がぶつかり合う。一樹は手持ち無沙汰でカウンターにもたれかかった。
「手が空いてるんだったら、これ運んでください」
男の子が厳しい声を投げつける。コーヒーカップの皿が視線の先にはあった。
「えっー、おれ箸より重い物持てなーい」
一樹は近くにあったマドラーをもてあそびながら、小馬鹿にしたように男の子に向かって言った。彼が大声を出す。
「コーヒーくらい運んでくれてもいいじゃないですか」
「だってぇ、四つも載ってるしぃ。無理無理」
「あんた、いいかげんに」
男の子は腹に据えかねたかのように、背伸びをして一樹に食ってかかった。そうでもしないと、小柄な彼のことだ、一樹の肩ぐらいにしか届かない。
「ああ、いいのいいの、こいつのことはほっといて広大くん。一樹、彼の邪魔しないでよね。いいからレジ入ってちょうだい」
桃子が見かねて声をかける。それに生返事をして一樹はレジに向かった。
すっと鼻筋の通った整った顔立ちに、薄い形のよい唇、くっきりとした二重瞼に黒くつややかな瞳が光る。栗色の髪は真ん中から自然に分かれ、サイドに流れていて、一樹の輪郭をやさしく包んでいた。細身で背の高い一樹がにっこり愛想笑いを浮かべると、支払いをしようとレジに並んだOL二人組は、頬を赤らめどぎまぎしていた。
ランチタイムが終了して、最後の客がドアの向こうへ消えていった。
古株のバイト、結香が準備中の札をかけている。もう時計は三時を回っていた。
「今日の賄いはシェフ前島の特製チャーハンですよー」
「やったあ」
「今日は特別忙しかったねえ。たくさん食べてね。ほら座った座った」
陽気なシェフが気さくに声をかけて回る。広大、結香、そして桃子が順に席に座る。
「一樹くんも今日はお疲れさま。いやあ助かったよ」
シェフは、所在なく突っ立っている一樹の肩を親しげに叩いた。
「何が助かったんですか?その人何にもしてないじゃないですか」
広大が険のある声で前島に異議をとなえる。かなり頭に来ている様子だった。
「ねえこの子、誰?」
その声にわざとらしく、さも今気づいたかのように一樹がからかい気味のセリフをかぶせる。ポケットからタバコを取り出そうとして、結香から止められた。
「昼間のジャムズは禁煙です。っていうか一樹ちゃん、タバコやめたら」
「せっかく二十歳になって堂々と吸えるようになったのに、誰がやめるか。だからさ、このちびっこいヤツは誰かって聞いてるの」
「ちびっこいのじゃありません!佐藤広大です!」
大声で広大が一樹に向かって言い返す。
「もういいじゃない。食べましょうよ。あのね一樹、この子は先週から来てもらっているバイトの広大くん。あんたも突っ立ってないで早く座りなさいよ」
桃子があきれ気味に一樹に説明する。
「この人は誰なんですか?」
広大は雇い主である桃子に助けを求めるように、顔を向けた。
「ああ、ごめん。言ってなかったっけ。こいつはうちの居候、一樹」
「居候って、一緒に住んでいるんですか!?」
広大が思わず桃子と一樹の顔を見比べた。
「いっただっきまーす。さあ食べましょうね。ねーみなさん」
結香が微妙な空気を変えようと、わざと大きな声を出した。それにつられて皆も何となく食べ始める。一樹も一番端のいすに座って、スプーンを持ち上げた。
「まあ、そういうわけだ。バイトのお兄ちゃん」
一樹が偉そうに、持っていたスプーンを振り回す。
「何いばってんのよ。生活費も入れない居候のくせに」
桃子が冷たく言い放つ。それに一樹は舌を出して見せた。
「ホントによく働いてくれますよね、広大くんは。どっかの誰かさんと違って」
「いやあ、ボクなんか全然」
「でも、一週間でもう仕事の流れもつかんでるし、助かるわよ」
女性二人に持ち上げられて、広大はさかんに照れていた。
「良くやってくれてるよ広大くん。もう少ししたら厨房も手伝ってみるかい?」
前島までもが温かい声を広大にかける。いすにふんぞり返っている一樹ひとりがおもしろくないと言った顔つきだ。
「ありがとうございます。今日もたくさん入っていましたね」
「そうね、一年前にランチを始めた時はどうなるかと思ってたけど、これだけお客さんが来てくれるとかなりいい雰囲気よね。ただ」
言いよどんだ桃子に皆の視線が集まる。
「いくら昼で利益が出ても、結局夜のライブで赤字を出しちゃうから。夜の部がかなり負担になっていることは事実よね。ちょっと、ふざけてないで早く食べなさいよ一樹」
「ジャムズがライブ辞めたら、ジャムズじゃなくなっちまうじゃん」
ふてくされたような声で一樹がつぶやく。それに覆い被せるように桃子は続けた。
「だったら、夜も採算が取れるようにお客を呼ぶか、昼間もちゃんと働いて売り上げに貢献してちょうだい。父さんも一樹も、うちの男どもと来たら二人して趣味に走って、ちっとも儲からないライブハウスなんか続けて」
「桃子さんはライブハウスに反対なんですか?」
結香がみんなにアイスティーを配って歩く。一樹はまだふくれて横を向いたままだ。
「前島さんに頑張ってもらって、このままイタリアンの店にしちゃった方が、どれだけいいかって思うことはあるわよ」
「でも私はジャムズのライブ好きですけどねー」
前島がチャーハンをほおばりながら無邪気にそう言った。
「そりゃ、チャージは安いし、常連ばっかりでお金は取れないし、だけどライブの質は落とさないところがマスターの心意気って言うか、ね」
「心意気で採算が取れるならいいですよ、全く」
桃子は、自分の父親と変わらないくらいの歳のこのシェフに全般的な信頼を寄せているようで、ため息をつきながらそう愚痴をこぼした。前島は、若き経営者ににっこり笑って頷き返す。定年まで勤めていたホテルに出向き、彼を口説き落としたのは桃子なのだ。
「このチャーハンおいしいねえ。ねえシェフ?」
一樹が桃子の頭越しに前島に話しかける。前島は満面の笑みを浮かべた。
「けっこういけるでしょう?自信作なんですよ」
「前島さん、中華もいけるとはすごいね。さすがジャムズの看板シェフ。これメニューに入れたら」
一樹が行儀悪くスプーンを振り回しながらそう続ける。桃子の方には顔も向けようとしない。
「あんたにメニューの心配までしてもらわなくて結構。それより仕事見つかったの?」
そんな一樹に、桃子は冷ややかに言い放つ。
「仕事してないんですか?一樹さんって」
鬼の首でも取ったかのように広大が一樹に向かって言った。一樹はむっとして言い返す。
「してます。ちゃんとしてます。今日もしてきました。おれはちゃんとスタジオ行って、そりゃもう真面目にラッパ吹いてきたんですから」
フリーのミュージシャンなの、一樹ちゃんは。結香が取りなすように口を添える。しかし桃子は容赦がない。
「フリーって便利な言葉よね。ニートと何が違うのかしら」
「桃子さーん」
結香が引きつった笑いを浮かべる。一樹は口の中でぶつくさ言っていたが、気を取り直して他の連中に懸命に自分をアピールし始めた。
「もうさ、君たち何か大きな勘違いしているよね。サイン貰うなら今のうちだよね。おれはね、今日も芸能プロダクションの偉い人と打ち合わせをだね」
「何、一樹くんデビュー決まったのかい」
前島が明るく声をかける。本当にうれしそうだ。それに一樹はにこやかに答える。
「いや、デビューってほどじゃないんですけどね。水面下でこう着々と準備してるっていうか、新ユニット結成っていうか。おれも一応その一人ってことになってまして」
「水面に潜ったまま沈んでいくことも多いのよね、その業界って」
桃子がとどめを刺す。
ぶすっとした表情で、一樹はチャーハンの最後の一口を放り込んだ。
「一樹さん、手伝ってるんですか邪魔してるんですか」
「手伝ってるよーん」
そのいい加減な返事が広大をさらに刺激した。キッと一樹を見据えると広大は彼の手にしていた皿をひったくった。
「もういいです。ボクがやりますから」
店内は相変わらず混雑していた。昼時の二時間、それが一日のうちの勝負だった。
「ただでさえでかいんですから、邪魔しないでください」
そんな広大のセリフに肩をすくめると、一樹はカウンターに向かった。百八十五センチ、その長身を少し猫背気味に曲げ、髪をかき上げる。そんな仕草が板に付いていた。広大にすれば嫌みに感じられるのだろう。大げさなため息をつき、その場を離れる。
新しい客が入ってきた。こちらへどうぞと一樹が案内をする。他のスタッフはできた料理をサーブするのに忙しい。辺りを見回し、あきらめたように一樹が水の入ったコップの盆を右手に持った。そのままさっきの客へと運ぶ。しばらく躊躇していたが、慎重な面持ちで左手でコップをつかんだ。不意に客が手を上げた。はっとしたように一樹が手を引っ込める。
ガチャン。
コップの一つが音を立てて床へと滑り落ちた。
「あっ!」
「何やってるんですか。お客様、大丈夫ですか」
広大が飛んできた。ガラスのコップは無惨にも砕け散っていた。あわてて広大がほうきと雑巾を持ってくる。一樹は、それを呆然と立ちすくんだまま見つめていた。
「一樹さんはどいてくださいよ。お怪我はありませんか。お水がかかったのではないですか」
客は恐縮して大丈夫と繰り返した。広大はてきぱきと砕けたコップを片づけにかかる。ようやく思い出したかのように、申し訳ありませんと一樹が頭を下げた。常連の女性客は笑ってそれに答えた。一樹は青ざめた顔つきのまま、左手をさすっていた。
仕事増やさないでくださいよ、押し殺したような声で広大がささやく。それに返事をするでもなく、一樹は黙って立っていた。
客足が途絶えたところで、広大はガムテープを持ち出して、ラグマットに入り込んだガラスの破片を丁寧に取りだした。テープの輪っかを作って、それを一樹にも差し出す。
「破片が残っていたら危ないですからね。そっちお願いします」
「いや、おれは」
「そのくらいやってくださいよ。重い物は運ばない、サーブは片手で面倒くさそうにしかやらない、挙げ句の果てはコップまで落として。もっと真面目に働いてください」
破片を丹念に取りながら、広大はぶつぶつと文句を言った。
「広大くん、一樹ちゃんはね」
「いらんこと言うな!」
言いかけた結香に一樹は短く言葉を投げつけた。あまりの剣幕に結香が息を飲んだ。
「何で一樹さんだけいつも特別待遇なんですか。ボクばっかり目の敵にして。別に働くことは好きですからボクはいいんです。でも」
広大の愚痴は止まることがなかった。日頃の一樹の態度も目に余っていたのだろう。この時とばかりに言い続けた。
「タバコ買ってくる。悪かったな少年。結香、いらんこと言うなよ」
それを遮るようにして一樹は広大の頭に手をやった。広大はバカにされたと思ったのか、上目遣いでキッと一樹をにらんだ。肩をすくめて一樹はドアを開けて出ていった。
「何も言いませんよーだ」
後ろ姿に向かって結香が顔をしかめた。何なんですかとげげんそうに広大が頭を上げる。
そこに前島がケーキを持ってやってきた。
「試作品ですよ。さあ召し上がれ」
わあ、と結香が歓声を上げる。一樹と入れ違いにちょうど帰ってきた桃子が、お茶を入れるわとカウンターに入っていった。ため息をつきながら広大が立ち上がる。
ケーキは桜色のクリームに彩られていた。緑のミントが添えられている。
「桜餅をイメージして作ってみたんですがね」
皆を見回しながら、にこやかに前島が言葉を続ける。
「ボク、一樹さんに嫌われているんでしょうか」
肩を落として広大がテーブル席に座った。結香と前島が目を見合わせる。
「何でそんなこと言うの?言いたいこと言い合って何だかんだといいコンビだと思うけど」
紅茶を入れながら桃子が言う。
「そうでしょうか。ボクの仕事の邪魔ばかりして一樹さんはちっとも働こうとしないし、今日だって注文取りだのレジだの楽な事ばっかり。何で一樹さんだけそんな」
「仕方ないのよ、一樹は」
言いかけて桃子は言葉を飲んだ。どうしたものかと思案顔だ。前島が何の気なしに桃子の後を続ける。
「左手が不自由だからねえ、一樹くんは。片手じゃ重たい皿は運べないだろうしねえ」
「えっ!?」
広大の顔色が変わった。目を見開いている。
「あれ、気づかなかった?やっぱり隠しているのかねえ。一樹くんあんな風にしているけれど、あれで結構気にしているんだろうねえ」
「どういうことですか、左手がって」
しょうがないなあ、内緒よ、桃子があきらめたように広大にそう言う。
「病気でね、左手のここから先が動かないのよ。残った親指と人差し指も握力が極端にないらしいし」
「だってトランペッターなんでしょう?いつもトランペット持ってるんじゃないんですか」
「自分の力じゃ持てないのよ。特注のプロテクターでこうやってベルトをぐるっと回して留めてあるだけ。でも内緒にしておいて。これ言うと一樹怒るから」
「何で、何でもっと早く言ってくれなかったんですか。ボク知らなくて酷いことたくさん言ってしまった」
みるみる広大の顔が曇った。肩を落とし、しょげかえっている。
「だから、そうじゃないんだってば。一樹はそうやって特別扱いされるのがイヤなのよ。広大くんから小言言われて普通に接してもらって、あれはあれでうれしいんだと思うよ」
「そんな」
「気にしないで、これからもいつもみたいにがんがん言っちゃっていいから。一樹が働きの悪い怠け者なのは元々の性格なんだから、ね、結香ちゃん」
桃子がにっこり結香に笑いかける。結香もここぞとばかりに大きくうなずく。
「ボク、謝らなくちゃ。一樹さんにきちんと謝ります」
「あのねえ」
結香がため息をつく。それじゃあたしたちがしゃべっちゃったのばれちゃうじゃないと言葉を続けた。
「でも」
いいのいいの、桃子が手を振る。これまでどおりに接してあげて、と。
「ケーキは取っておいてあげましょうかねえ。一樹くんも甘い物には目がないから」
前島ののんびりした声が緊張した空気をほぐす。
広大は神妙な顔つきで紅茶を飲んだ。
#2
ジャムズは夜を迎えて表情を一変させていた。
間接照明が、ベーゼンドルファーのグランドピアノを照らし出す。
リズム隊の連中が機材のセッティングを終え、思い思いの場所で休憩を取っていた。
ジャムズのライブ。
小さなハコながら有名どころのジャズプレイヤーを呼んでくることで名が知られている。
マスターの勇次がにこにこしてカウンターへ立つ。この人は昼間はまるっきり働かないが、夜ともなるときびきびと立ち動き、生き生きしている。プレイヤーからは厚い信頼を受けている。
紫煙がもうもうと立ちこめる。ざわめきがBGMだ。
広大は場違いなところに来てしまったという顔つきで、不安げにきょろきょろと桃子の姿を探した。
「いらっしゃい。何を飲む?」
後ろから声をかけられ、広大は飛び上がった。いつもの見慣れたジャムズはここにはなかった。そして桃子もまた、夜の照明の元ではぐっと大人びて見えた。
「あ、あのボク」
「そんな緊張しなくて大丈夫よ。毎日通っている職場じゃない」
桃子がたまりかねて小さな笑い声を立てる。そんなに自分は硬直していたのか。顔が熱くなった。
「チャージはおいくらですか。先払いなんですか」
ふと財布の中身が気になった。ライブハウスに来たこと自体、広大にとっては初めての体験だった。こんな所で酒を飲んだら、一体いくらかかるのか。
「従業員からお金は取れないわよ。大丈夫、今日はマスターがおごるから。ね、父さん」
昼間ちっとも家に寄りつかないマスターは、夜ともなるとこんなに頼もしくなるものか。笑顔でうなずくと、広大に向かって水割りを差し出した。
「気にしないでいいよ、広大くん。好きなだけ飲んでね」
「そうはいきませんよ。少しでも売り上げに貢献しなくちゃ」
「じゃあ、次からは払ってもらうから、今日は私の招待って事にして」
桃子が艶っぽく微笑む。広大はどぎまぎした。
がたがたと音を立ててフロント隊のセッティングが始まった。その中に、一樹の姿があった。
ミュージシャンの中でもその長身は目立っていた。
少し猫背気味に、髪をかき上げて。
広大は昼間の話を思い出していた。自然と視線が手元に注がれた。
革のプロテクターをしっかりとはめ、楽器に巻き付ける。その動作に不自然さはない。確かによく見ると、左手の三本の指が外側を向いている。力が入らないのだろうか。でも言われなければ気づくことはなかった。
ピアノがぽーんと一つの音を立てた。
トランペットとサックスとが、その音に同調するようにロングトーンを出す。
広大の素人の耳にも、それはぴったりと重なり、澄んだ音を奏でていた。
照明に照らされたステージの中央で、一樹は圧倒的な存在感を醸し出していた。他の百戦錬磨のプレイヤーとも遜色がない。立ち姿だけを見れば、とても二十歳には見えなかった。
普段の昼間での仕事ぶりが嘘のようだ。
不意に速いパッセージのユニゾンで曲が始まる。
サックスの絡みつくようなフレーズに、一樹のトランペットが全く同期している。右手の指の動きが速すぎて見えない。唐突にユニゾンのフレーズがとぎれ、そのままトランペットのアドリブソロになった。低音で唸るようなメロディーを歌ったかと思うと、急に駆け上がりハイノートの美しい旋律を伸びやかに吹いている。自由気ままに気持ちよさそうに身体を揺らし、リズム隊のカッティングの動きに身をゆだねている。ぱーんと一つハイノートを決め、サックスへと受け渡す。大きく一つため息をつき、笑顔を見せる。
何も知らない広大でさえも、一樹の姿から目を離すことができないでいた。
息を詰めて見ていたようだ。思わず広大も大きく息を吐いた。
「どう?広大くんはジャズは初めてなのよね」
「はい、すごいです。かっこいいです。一樹さんも本当にかっこいいです。ボク見直しました」
桃子がまた乾いた笑い声を立てる。変なことを言ってしまったのかと急に焦る。
「吹いてる時はちょっとはましなのよねえ。性格と音は比例しないのが難点なんだけど」
曲は続いていた。サックスの後はギターへ、ピアノへと次々にアドリブを回していく。はっきり言ってどんな曲なのか広大にはわからなかったが、まるで生き物みたいだと感じていた。うねうねうごめく巨大な生物が、呼吸をして身体をくねらせるように、曲自体が鼓動を発していた。
ぱっと一瞬静寂が訪れる。
次の瞬間、全部の楽器が一斉にテーマに突入した。
店全体が一つの楽器のように響く。
そして始まった時と同じくらい唐突に、曲が終わった。
拍手が沸き起こる。
我に返って広大は、店内を見渡した。今夜は入っている方だと桃子が言っていた。そう広くない客席の八割は埋まっているのか。
自分がずっと立ったままでいたことにようやく気づいた。カウンター席の端に腰を下ろす。マスターが二杯目の水割りを広大の前に置いた。
「一樹くんはきっと今にジャズの世界で有名になっていくと思うんですよ。広大くんはどう思います?」
「そうですね。一樹さんならきっとそうなれると思います」
お世辞でも何でもなく、心から広大はそう感じた。
「でも今はジャズだけで食べていくのはとても難しい時代なんです。若い人が生活が成り立たないんですよ」
売れる音楽ではないから、マスターはそう言って苦笑いをした。そういうものなのか。
「でも一樹さん、デビューが決まってるようなことを言っていましたよね」
「ジャズ、ではないでしょうね。バックバンドだと本人は言っていましたよ」
人の間を縫って一樹がこちらに歩いてくる。背の高さでひときわ目立っている。広大は何を話せばいいのか、どんな顔で一樹に向き合えばいいのかわからずにいた。
「ジンフィズちょうだい、マスター。いやあきつかった」
ランチタイムのジャムズでは、ついぞ見たことのないような笑顔だった。右側の頬にほんのちょっとえくぼができる。薄暗い照明の元でもそれが陰を作っていた。
「何だっけ、少年。えっと確かコンタ」
「こうだいです!毎日一緒に働いてるっていうのに。ボクの苗字ちゃんと覚えてますか!?」
でもやっぱり一樹は良くも悪くも一樹だったようだ。相変わらず憎まれ口を叩いている。幾分ほっとしながら広大も言い返す。いつも言われっぱなしじゃいられない。いすから立ち上がり気持ちつま先立ちし、少しでも自分を大きく見せようと広大は無駄な努力をした。
マスターが一樹のためにグラスを差し出す。それを右手で受け取ると、一気にあおった。ふう、と大きなため息をつく。店内は乾燥していてただでさえのどが渇く。ましてやあんな演奏をした後なのだ。まるで水でも飲むかのように、あっという間にグラスが空になった。
「コンタくんは何飲んでるの、オレンジジュース?」
「水割りです!バカにしないでください!」
グラスの中の氷をカラカラと振りながら、一樹がにやりと笑った。大人じゃん、そうつぶやくところまではっきりと聞こえてしまった。広大は思わずかっとなった。何か言いかけるのを聞きもせず、一樹はマスターの方を向いた。
左手で頬杖をつく。自然とプロテクターが広大の目に入った。黒い革のそれは、二本の細いベルトが並行に並んでいて金具で留められるようになっている。今ははずされていて所在なげに揺れている。広大はなぜだかそれから目を離せなくなっていた。
ふと、一樹がその視線を感じたように広大を見やる。広大が黙ってしまったのをげげんそうに見ている。広大ははっとしたようにあわてて視線をそれからはずすと、どうしていいかわからず下を向いてしまった。
「結香から何を聞いた」
一樹の声が冷えていた。さっきまでの笑顔はもうない。
広大は何か言わなくてはと焦ったが、言葉が出てこなかった。何も、それだけを絞り出す。それから意を決して顔を上げ、一樹に向き合った。
「何も、聞いてません」
「あっ、そう」
一樹が立ち上がる。そのまま広大の背後に回る。何なんですか、声が震えていた。
「嘘が下手だなコンタくん。顔が引きつってるよ。おれはな」
不意に胸ぐらを掴まれて広大はバランスを失った。そのままイスからずり落ちる。
「下手な同情されるのが一番嫌いなんだよ」
息ができない。苦しさにむせた。何でボクがこんな目に遭わなければいけないのか。広大は何か言い返したかったが、出てきたのはごめんなさいの言葉だった。
一樹はなぜかそれを聞くとつかんでいた力を緩めて、ごめんとつぶやいた。
広大は耳を疑った。一樹が謝るのを初めて聞いた気がしたからだ。
一樹は辛そうな顔をしてイスに力無く倒れ込んだ。右手で髪をかき上げ、うつむく。
「あ、あの一樹さん」
広大がたまりかねて声をかける。一樹は動かない。
「ボク何もわからない素人ですけど、さっきの演奏は素晴らしかったです。一樹さんとっても格好良くて、あの」
「……ありがとう」
一樹がそう言うのを広大ははっきりと聞いた。息を飲んだ。それから一気にまくし立てた。
「本当です、昼間の姿からは想像できないくらい格好良くて、とてもニートで怠け者の一樹さんとは思えなくてそれからその、わあ!」
「誰がニートだって?」
一樹が顔を上げた。目に光が戻っていた。よかった、広大がそう思う間もなく一樹が素早い動きで立ち上がった。そのまま右腕で広大の首を締め上げ、何かを背中の襟元から滑らせた。
「こ、氷、氷入れたでしょ!一樹さん、何するんですか!!早く取ってくださいよー!」
「ホントおもしろいのな、おまえって」
一樹がくすくす笑っている。周りの観客が何事かと広大の方を振り向く。何やってるのよ、桃子にまであきれられた。広大は恥ずかしさで顔が真っ赤になった。
「もうホントに、いい加減にしてください!ガキじゃないんだから!」
何とか氷のかけらを背中から追い出して、広大は一樹に詰め寄った。わりいわりいと、ちっとも反省していない声で一樹が笑い続ける。
「せっかく誉めたのに、せっかく少しは見直したのに、もう一樹さんのことは信用しない」
「コンタくん、次の曲は君に捧げよう。心して聞くように」
にやにやして一樹がそう言う。何の曲だかわかったもんじゃない。二人とも仲がいいのね、マスターの声に広大は力一杯首を横に振った。絶対に違う。
「コンタじゃないです、広大です!いい加減覚えてください!」
「はいはい、コンタくん。コンタのブルースってのもいいな、ララバイ・オブ・コンタはどうだ?コンタ・マイ・ラブって曲も作ろう。それから」
「一樹さん!!」
広大の精一杯の叫び声を背中で受け流して、一樹はまたステージへと向かっていった。近くのミュージシャンと何やら打ち合わせを始める。今度はテナーサックスとアルトサックスが一樹と並んだ。三本の管楽器がライトを受けて光を跳ね返していた。
「オン・トランペット高橋一樹!」
MCから紹介され、拍手の中、一樹は観客に向かって頭を下げた。
「全く、何考えているんだかわかりません」
憤慨して広大はマスターへ語気を荒げて言った。マスターは笑顔でそれを受け止める。
「マスターは一樹さんの病気のこと」
「知ってますよ、もうだいぶ前のことだけどね。一番辛い時も見てきましたからね。今よりもっと荒れていたんですよ。まだジャズをやり始める前のことだったんだけどね」
「ジャズを始める前ですか?」
「一樹くんは元々クラシック奏者を目指してたんですよ、ああ見えてもね」
バカラのグラスを丁寧に磨きながら、マスターは言葉を続けた。
「小さい頃からの夢だったクラシックの道をあきらめるのは、本当に辛かったんでしょうね」
そう言うとステージの方を見やった。何かを思いだしているかのような遠い目だった。
#3
「桃子さん、引っ越しの荷物はできた?」
せわしなく動き回る桃子に、笑いながら結香が声を掛ける。夜のライブまでにはまだ間がある。店の片づけもあらかた終わって、結香は磨いたグラスを壁一面の収納棚に飾り付けていた。結香には、まだジャムズが夜しか営業していなかった頃から、店を手伝ってもらっている。店の苦しい内情も、彼女はよく知っていた。安いバイト代で昼も夜もよくやってくれると、桃子も父親の勇次も結香にはとても感謝していた。
「別に荷造りしているわけじゃないわ。ただちょっと、部屋を広くしようかなって」
「またあ、隠さなくてもいいじゃないですか。永すぎた春にもいよいよエンディングを迎えるってことですかね。篠原さんと学生時代からの付き合いってホントですか」
篠原は大学生の頃から店の常連で、桃子より二つ下だった。短大を出てそのまま自分の家の店を手伝う桃子と、大手商社に就職してたまの休みには好きなジャズを聴きに来る篠原とは、ずいぶん前から結婚の噂も出ていた。もっともそれを言うと、桃子はいつものようにクールに微笑むだけで、肯定も否定もしなかった。人が良くおしゃべりで、如才ない篠原とは好対照で、それだけにお似合いの二人と言われていた。
「入社して三年で海外転勤なんて、篠原さんすっごい期待されてるんじゃないんですか」
「そうでしょうね。本人もアメリカ勤務を目指して頑張ってたみたいだから」
「そうでしょうね、って。もう、桃子さんは他人事みたいに!」
冷静すぎる桃子に、結香がふくれっ面をしてみせる。渡米の前に挙式なんて、これからめちゃくちゃ忙しくなるんですよ、と結香が熱心に桃子に話してみても、当の桃子はただ微笑むばかりだった。
不意にドアのチャイムツリーが響き、一樹が顔を出した。ため息をつきながら革のソフトケースを乱暴にその辺に放り投げ、カウンターに肘をつく。掛けていたサングラスを指でもてあそびながら桃子に向かって、何か飲むものちょうだい、と甘えた声を出した。
「ご自分でどうぞ。コーヒーなら入れられるでしょう。二十歳にもなって甘えるんじゃない」
けち、と口元でだけ悪態をつき、一樹はカウンターの中へ入っていった。右手だけで器用にコーヒーメーカーをセットし、カップを用意する。結香が、あたしにもね、と言うのに舌を出して答える。結香の方が少し年上だが、一樹はこの古株のバイトのことを自分と同等だと思っているらしく、いつもこんなふうに態度がでかい。
「あっー疲れた。もうさ、スタジオ入ってからずっと座りっぱなしで」
「テレビは拘束時間が長いって言うから」
桃子が手を止めて一樹の方に視線を送る。店の棚にはCDとLPレコードがぎっしりで、少しくらい整理した程度では荷物が減る様子はなかった。マスターの勇次が長年かけて集めたコレクションと、ご自慢のアンプスピーカー。桃子は父親の趣味の宝物を、そっとなでた。
「テレビの仕事がこんなにひどいものとは思わなかった。もう二度としないからな」
「すごいねー一樹ちゃん、まるで芸能人みたいじゃん」
結香がすかさず一樹を茶化す。
「これだけやってさ、画面の端っこに亡霊みたいに映るか映らないかってのが泣けるよね」
「アイドルのバックバンドなんでしょ。あんたが目立っちゃしょうがないじゃない」
あくまでも冷静に桃子が言い切るのに、一樹はちょっとばつが悪そうな表情を返した。
「もう、桃子さんは冷たいんだから。ええそうですよ、おれなんかおまけですよ。ラッパだってほとんど吹くとこなんて無くて」
「一樹ちゃんがトランペット吹かないで何するのよ」
「……振り付けつけられて踊ってるよ」
「ひー、見たい見たい!」
「うるせえ結香、笑いすぎだよ!」
結香はまだ笑っている。それにぶつくさ文句を言いながら、一樹はコーヒーを口にした。
「ジャズじゃなくていいの?無理にテレビの仕事なんて入れなくていいのに」
カウンターの内側に一樹と一緒に並び、桃子は二人分のコーヒーカップを用意する。
「生活費も入れない居候って、いつまでも言われっぱなしじゃね。おれも自活資金ためなきゃ」
「自活資金?」
「一人暮らししようかなって」
「何で。ここを出るつもりなの」
「何でって、桃子さん結婚すんのに実家にこんな若い男がさ、いつまでも居座ってちゃまずいだろ。兄弟でも親戚でもない、赤の他人がさ」
「まったく……誰が言い出したのよ、結婚なんて」
桃子が思わず苦笑いを浮かべる。この頃じゃ、誰もが篠原との結婚を決まったものだとして話しかけてくるのだ。
「だって篠原さんシアトルに転勤なんだろ。ついてくんだろ」
桃子は黙った。空のカップをもてあそんでいる。少し言いよどんでから思い切って顔を上げた。
「ついていけるわけないじゃない。店の実務的なことなんて何もできない父さんとあんたを置いて」
「何でおれ?おれ関係ないだろ」
一樹が気色ばむ。
「大食いのくせに、最近はろくに物も食べないで青い顔して。体調悪いのはわかってるのよ。一人暮らしなんかしたら栄養失調でぶっ倒れるわよ」
「おれは!」
「まさかあんた、また左手の具合が悪くなったんじゃないでしょうね」
「五年前の手術はさ、京成大学病院骨腫瘍科きってのスペシャリストが執刀したんだ。そう簡単に再発してたまるか」
「一樹!」
「じゃあ桃子さん結婚したら、横浜帰るよ」
視線を外して、一樹はカップを抱え込んだ。心にもないことを、そんな空気が二人の間を流れた。
「帰れるわけないでしょう。あんたのお父さん、日本フィルハーモニア管弦楽団の常任指揮者に就任したって聞いたわ。これからは日本に活動の場を移すって。横浜の高橋の家に帰ったりしたらあんたはまた辛い思いをするだけよ」
「自分のことは自分で何とかする。桃子さんが心配することじゃないよ。とっとと、嫁に行っちまえよ。」
「一樹は……それでいいの?」
そう言うと桃子は一樹を寂しげな眼差しで見つめた。一樹は何かを言いあぐねているかのように少し押し黙ると、壁の方を向いたまま辛そうにつぶやいた。
「それを、おれに訊くの?桃子さんてときどきすっごく、残酷だよね」
あとは二人とも無言だった。
「一緒に行ってくれませんか。ちょっとストレートすぎるかな。この間のお礼です、もしよかったら。その後なんて言おうかな。食事でも。そりゃ初回から飛ばし過ぎか。どうしよっかな」
ランチの仕込みまでにはまだ間がある。広大はフロアで一人ぶつぶつつぶやいていた。
手にはコンサートのチケットが二枚。一枚は大切にラッピングしてある。もう一枚はもちろん、自分用だ。
広大にとって、あの晩のジャムズは夢のようだった。近隣の地方都市から出てきて専門学校の夜間部に入り、ジャムズのバイトを始めた時は、まさかジャズのライブハウスだなんて思ってもみなかった。レストランのフロア業務なんて、みんな一緒。高校の時にだってファミレスのバイトをしていた。接客業なら慣れている。でも、夜の照明の元では、桃子の美しさは格別に光っていた。あんなに素敵な人とボクは働いているんだ。広大はまだ一人、夢の中にいた。
桃子に、と用意したクラシックの演奏会チケットを、広大はもう一度まじまじと見た。自分が一番好きな演奏家。実はファンクラブにも入っているほどのクラシックおたくなのだ。でも、きっと桃子さんにも気に入ってもらえるに違いない。
誘いの言葉を心ゆくまで練習しようと、広大が口を開きかけた時、ソファの端から何やら突き出ているものを彼は発見した。
黒縁のメガネをかけ直し、よくよく見ようと近づくと、不意にそれは動いた。
「げっ!!か、か、一樹さん。いつから……そこに」
「あーあ、よく寝た。あれえ、コンタ君いたの」
わざとらしくのびをして、起きあがる。一樹だった。広大を見てにやにやしている。
「いつからいたんですか」
「えーっ、おれ?一緒に行ってくれませんか辺りからずっと。誰誘う気?」
「誰でもいいでしょ。一樹さんには関係ありません」
しどろもどろになって広大が一樹に向かって言った。頬はもう赤く染まっている。ドアが開いて結香が出勤してきた。一樹は彼女の方をちらっと見ると、大声を出した。
「わかった。結香を誘う気だろ。へえそうなんだ、よかったな結香」
「違います、違います!結香さんじゃありません!」
「何よ、あたしが何。プロポーズしてくれんの」
結香がおどけながら返事をする。すぐ悪のりするヤツだ。
「コンサートに一緒に行きませんか、その後食事でも。だってー!」
「やーん、どうしよっ!若い男に誘われちゃった!」
「違います!いい加減にしてください!」
顔を真っ赤にして、広大が叫んだ。目が真剣に怒っている。一樹はちょっとからかいすぎたか、とばつが悪そうに黙った。
「あーごめんごめん、広大くん。それで、誰と行くの?」
「……こないだジャムズのライブを見せてもらったお礼に、桃子さんにあげようと。」
広大が小さな声で結香にそう告げると、彼女は複雑そうな顔をした。
「そりゃいいと思うけど、でも、桃子さんにはさ、篠原さんってフィアンセがいるんだよ」
「フィ、フィアンセですか」
「そ、大学時代からの付き合いで、もう七年ぐらいになるって、こないだ篠原さん言ってた。結婚も間近だって話だし、あんまりその、広大くんが期待しちゃうとさ」
「べ、別にそんなんじゃありません。本当にボクはただのお礼を」
うつむいて耳まで真っ赤にしながら、広大は言った。一樹は頬杖をつきながら視線を泳がせている。結香は、ならいいんじゃない?と明るく広大を励ました。
「それで、何のコンサートなの?」
結香がモップを三本取り出してきた。一樹にもそれを渡すと、彼はえーおれもやんの?とぶつぶつ文句を言った。
「それがですね、すっごく素敵なバイオリニストなんですよ。日本クラシック界の妖精とも言われていまして」
「妖精?クラシック?広大くんってそういう趣味なんだ」
結香はモップを両手で抱きかかえると、苦笑いした。広大はそれにも気づかず、笑顔で力を込めて掃除をし始めた。
「結香さんも一度見てくださいよ。本当に綺麗な人なんです。もちろん演奏は超一流ですよ。弱冠十八歳でロン=ティボー国際音楽コンクールに優勝した、高橋真理子さんって方なんですが」
がたん。一樹がモップを取り落とした。広大はその音に言葉を切ったが、またすぐに話し始めた。
「この方はすごいんです。三歳からバイオリンを始めて、十歳にはM響とコンチェルトをやったんですよ。神童と言われていろんな世界的指揮者から求められて演奏活動をして、それで十八歳で」
「優勝したんだ」
結香が合いの手を入れる。その言葉に勢いづいたのか、広大がまくし立てる。
「そうなんです。ジュリアード音楽院を出た後は、ボス響とかABC響とか、とにかくメジャーオーケストラとがんがん共演しているんです。今年二十三歳になるんですが、若き才能ある、日本クラシック界の期待の星ですよ」
一樹はモップの柄を右手で拾うと、それを握りしめた。指先が白くなるほど。でも結香も広大も、その異変に気づくことはなかった。
「それでね、今回はスペシャルコンサートなんですよ。親子共演で、真理子さんのお父さんが日本フィルハーモニア管弦楽団を指揮するんです」
「あたしクラシックのことはよくわかんないからなあ」
さすがの結香も、広大の興奮にはついていけないという顔をした。広大は、きっと結香さんも知ってますってば、と力説した。
「お父さんの高橋孝一郎さんは日本人で初めて、パリ・ニューフィルハーモニーの常任指揮者になった方なんですけど、作曲家でもあるんです。あの、ジャズの曲も書いてますよ!『東京組曲』って、クラシックファンはもとより当時のジャズファンの間ではすっごく話題になった曲で」
がつっ。鈍い音がした。思わず広大と結香は振り返った。一樹が力任せにソファを蹴り上げていた。歯を食いしばり、何かをこらえているような悲痛な表情だった。
「あ、あの、一樹さん」
「うるせえよ。いつまでべらべらくっちゃべってんだよ」
苦しげに、広大に向かって毒づく。広大は思わず言い返した。
「掃除はちゃんとやってるじゃないですか!一樹さんの方こそちゃんとやってくださいよ!」
「何だと、てめ」
「はいはいはい、そこまでそこまで。何ムキになってんのよ一樹ちゃん。ほら広大くん、桃子さん来たわよ!」
その時、ドアが開いて桃子と篠原が入ってきた。手には買い出しの荷物を持っている。結香がさっとそれを受け取りに行き、何やら桃子にささやいた。
「何、広大くん。あたしに何か用事があるの?」
いつものクールな微笑みをたたえ、桃子が広大に向き直った。広大はまた真っ赤になって下を向いてしまった。
「ほら、広大くん。言って言って」
結香が声を掛ける。それに励まされて、広大は顔を上げてチケットを差し出した。
「これよかったら、お二人でどうぞ!」
広大は自分用のチケットまで、桃子に手渡した。桃子はげげんそうな顔でチケットと広大を見比べていた。結香が、自分の分まであげちゃったら意味ないじゃん、と小声で広大をつっつくが、いいんですこれで、と広大も譲らない。
チケットのアーティスト名を読んだ桃子から、笑顔が消えた。ちらっと、まだ固くこわばって突っ立っている一樹に視線を送る。そして広大の方に顔を向けると、チケットを突き返して薄く笑った。
「ごめん。あたしクラシックに興味ないから」
そしてそのまま奥のカウンターに引っ込んでしまった。
残された広大は、どうしていいかわからず、立ちすくんでいた。それに、ごめんね桃子さん音楽の趣味うるさいからさ、と篠原が声を掛ける。
「何かにぎやかな曲でもかけよっか。ほら、広大くんも一樹ちゃんも、掃除掃除!」
結香の明るさに助けられ、皆が動き出した。ランチの仕込みももうすぐ始まる。まぶしい光がジャムズの大きな窓から射し込んでいた。
昼下がりのジャムズでは、手狭になった壁のコレクター棚を整頓すべく、皆が悪戦苦闘していた。マスターの勇次は集めるばかりで処分できる性格ではないから、新しいCDが棚に入らないと、いつもこぼしている。桃子さんがアメリカ行っちゃったらどうするんですか、結香がそう言ってハッパをかけたが、あとはよろしくとパチンコに出かけてしまった。仕方なく残りの五人で、片づけを始めたところだった。
篠原が思い切りよく、棚の荷物をどんどん床に並べていく。桃子が皆へ、いらない物があったらこっちの袋に入れてよ、と声をかけるが、結香も広大も物珍しさで次から次へと古い雑誌や切り抜き、写真といったものを引っ張り出しては歓声を上げていた。
「やーんかわいい!誰これ」
まだフィルムで撮った、色褪せるまではいかない一枚の写真。ステージの照明が乱反射して輝く中を、黒人のトランペット奏者と肩を組む、詰め襟の少年が写っている。一樹だった。
「あーこれ。一樹くんがまだ中学生の頃だよね」
「何の写真見てんだよ、篠原さんあのさ!」
「どれ、ホントだ。ウィリアム・バークレーが来日した時の写真ね。ジャムズでのライブの前に、一樹に特別に吹いてみせてくれたんだっけ」
「中学生?一樹ちゃんって中学生の頃からここにいるの?」
驚いたように結香が口を挟む。
「その頃はまだ横浜にいたんだよね。すごいんだこいつ、小学一年の頃からトランペット持って東京までレッスンに通っててさ」
それまで黙って写真を見つめていた広大が、おそるおそる口を開いた。
「この制服もしかして、一樹さんって桐村学園出身なんですか」
「中学まではね。でも東京の学校じゃないのに、広大よく知ってるな」
「だって横浜の名門私立じゃないですか。名家の子息しか行けないようなところですよ」
「おれおぼっちゃまだもん。ばあやがいて、お父様お母様お姉様、って」
「はあっ!?いいところのおぼっちゃまがわずか数年で、何でこんなになっちゃうんですか。口の悪い、働きの悪い、意地も悪い、食意地もはってる、ニートで居候で、わあ!!桃子さん助けて!」
長身の一樹に腕を伸ばされ、頭を叩かれかけた広大が、桃子の背中に回り込んで首をすくめる。一樹は、ふざけんな、と口の中でぶつくさ文句を言い続けていた。
「すごいんだよね、一樹くんちって。写真でしか見たことないけど、山手の高級住宅街に三階建ての洋館がどーんとさ」
明るく話す篠原に、一樹は、中は冷凍庫みたいに冷え切ってるけどね、と苦々しくつぶやいた。他の誰にも気づかれないような、かすれた声だった。
「どうして一樹さんは、ジャムズに住むようになったんですか」
広大が無邪気にそう問いただす。篠原は桃子の方を見やるとふっと懐かしそうな微笑みを浮かべた。
「何だっていいだろう、広大。おれがここにいちゃ悪いってのかよ」
「ボ、ボクはただ気になったから。わあ、やめてくださいよ!暴力反対!」
打って変わって大声を出す。一樹は広大とのやりとりを楽しんでいるかのようだった。
二人のじゃれ合いを半ばあきれ顔で見ながら、桃子は六年前の春を思い出していた。
あの春、一樹が初めてジャムズを訪れた日のことを。
(つづく)
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