婚約破棄された夜、私は死んだことになった
「この婚約を認めることはできません」
父がそう言った時、セシリア・ローデンは、自分が何か聞き違えたのだと思った。
王宮の祝宴室には百人を超える客がいる。国王夫妻をはじめ、王弟夫妻、宰相、主要な貴族たち。今夜は伯爵令嬢セシリアと、国王の甥にあたるアーネストの婚約を正式に披露するための宴だった。
アーネストは王弟の一人息子で二十二歳。王位継承順位も高く、二人の婚姻は当人同士だけで完結する話ではない。
だからこそ、ローデン伯爵の発言は、その場にいた全員の耳を疑わせた。
国王がグラスを置いた。
「ローデン伯爵。今、何と言った?」
「この婚約を認めることはできないと申し上げました」
父は立ったままだった。声にも表情にも乱れがない。
「理由は」
そこで初めて、父がセシリアを見た。
「セシリアは、私の娘ではありません」
短い沈黙のあと、低いざわめきが広がった。
セシリアは父から目を離せなかった。
隣でアーネストが立つ。
「どういう意味です」
「言葉の通りです」
「では、誰の娘だと?」
「分かりません」
父は懐から一枚のメッセージカードを取り出した。
侍従が受け取り、国王へ運ぶ。
古い紙だった。国王はソレに目を通すと、王妃へ渡した。王妃の視線が途中で止まった。
「セシリア」
呼ばれて、ようやくセシリアは返事をした。
「はい」
「母君の筆跡は分かりますね」
「分かります」
メッセージカードを渡された。
亡くなった母の字なら覚えている。六歳の時に死別したとはいえ、残された手紙も日記も何度となく読んできた。
見間違えるはずはなかった。
そして、その一文も。
――この子の父親はあなたではありません。
セシリアはそこを二度読んだ。
何度見ても文字は変わらない。
「母君の字ですか」
国王に問われた。
否定すれば簡単だった。
けれど、それでは今度は自分が嘘をつく。
「……そう見えます」
再び声が広がった。
父は続けた。
「証人もおります」
入ってきた女性を見て、セシリアは思わず身を起こした。
マーサ。
かつて母に仕えていた侍女である。母の死後しばらくして伯爵家を辞め、今は王都を離れて暮らしている。
ただ、二か月ほど前に父から呼び出され、数日だけ屋敷を訪れていたらしい。
王妃が尋ねる。
「あなたは、亡きローデン伯爵夫人に仕えていたのですね」
「はい」
「夫人には当時、ご主人以外に親しくしていた男性がいましたか」
マーサはすぐには答えなかった。
やがて、小さく言った。
「……おりました」
ざわめきが大きくなる。
セシリアはマーサを見ていたが、彼女は一度もこちらを見なかった。
「その男性が誰か、知っていますか」
「存じております」
「名を言えますか」
「それは……申し上げられません」
「なぜです」
マーサは黙った。
父が口を挟む。
「それ以上は必要ありますまい」
「必要があるかどうかを決めるのは、あなたではないでしょう」
アーネストだった。
声を荒らげてはいない。
むしろ平静だったからこそ、父の眉がわずかに動いた。
「一枚のメッセージカードと、親しい男性がいたという証言だけで、あなたは十九年間育てた娘を自分の子ではないと断定するのですか」
「王家へ素性の定かでない娘を入れるわけにはまいりません」
「だから調べるのです」
アーネストは国王を見る。
「今夜ここで婚約を破棄する理由にはなりません」
国王も頷いた。
「婚約は一時保留とする。メッセージカードの来歴も、伯爵夫人の当時の交友関係も調べさせる」
それで宴は終わった。
少なくとも、セシリアにとっては。
*
「説明してください」
屋敷へ戻るなり、セシリアは父の書斎へ入った。
父は上着を脱ぎ、いつもの椅子に腰を下ろしていた。王宮で娘の出生を否定した直後とは思えないほど、普段と変わらない。
「何をだ」
「全部です」
「王宮で話した」
「十九年間、私を娘として育てておいて?」
「私も最近まで知らなかった」
「いつ知ったんです」
「一月ほど前だ」
「手紙を見つけた?」
「ああ」
「どこで」
父は答えなかった。
「お母様が亡くなって十三年です。どうして今になって出てくるんです?」
「古い書類を整理していて見つかった」
「誰が?」
「セシリア」
父の声が低くなった。
「今夜はもう休みなさい」
「休めると思います?」
「では、荷造りをしろ」
言葉の意味を理解するまで数秒かかった。
「……今、何とおっしゃいました? 」
「今夜中に屋敷を出なさい」
「なぜ」
「お前がここにいる理由はなくなった」
セシリアは父を見た。
厳しい人だった。
娘を抱きしめるような父でも、愛情を言葉にする人でもなかった。それでも母が死んだ時、葬儀の最中ずっと六歳のセシリアの手を握っていたのは、この男だった。
「本当に」
自分でも驚くほど声が乾いていた。
「私を娘ではないと思っているんですね」
父は答えなかった。
その時、扉が開いた。
使用人が酒瓶を一本運んできた。父は短く礼を言い、下がらせる。
書斎の壁際には小さな酒器棚がある。父はそこから二つのグラスを取り出した。
一つは自分のもの。
もう一つには、セシリアの頭文字が刻まれていた。
家族それぞれに決まったグラスがあり、幼い頃から変わっていない。
父は二つに酒を注ぎ、セシリアのものを差し出した。
「飲みなさい」
「今?」
「顔色が悪い」
こんな時でも、そういうことには気づくのか。
妙なことを考えながら、セシリアは受け取った。
一口飲む。
少し苦い気がした。
「出て行くのは、明日の朝まで待ってください」
「何を待つ必要がある」
「十九年間住んだ家です。それくらい――」
急に言葉が遠くなった。
セシリアは瞬きをした。
眠い。
ただの眠気ではない。
そう気づいた時には、指から力が抜け始めていた。
グラスを机へ戻そうとして、縁が木に当たる。
父が立ち上がった。
そこから先の記憶はなかった。
*
目を覚ますと、知らない天井があった。
セシリアはしばらくその染みを眺めていた。
鳥のようにも見える。
自室ではない。
身体を起こすと、頭の奥に重さが残っていた。窓から差し込む光は、すでに朝のものだった。
狭い部屋だった。
ベッドと椅子、小さな机。
昨夜のドレスもない。代わりに着ているのは、見覚えのない地味なワンピースだった。
机には革袋が置かれていた。
中には金貨が数枚と、簡単な着替え。
手紙はない。
「何なの……」
階下へ降りると、小さな食堂へ出た。
どうやら宿屋らしい。
カウンターの男がセシリアを見る。
「お目覚めですか」
「ここはどこです?」
男は怪訝そうな顔をした。
「西門の外ですよ」
「王都の?」
「他にどこの西門があるんです」
「私、どうやってここへ来たんです?」
「昨夜遅く、馬車で」
「誰と?」
「御者が一人。あなたはひどく具合が悪そうでね。宿の女中と二人で、お部屋まで運びましたよ」
セシリアは眉を寄せた。
「御者は?」
「宿代を払ったら、すぐ帰りました」
「宿帳には、何と?」
「アンナ・リード、と。御者がそう書きました」
「顔は覚えています?」
「いやあ。帽子を深く被ってましたしね」
男はそこで少し黙った。
「……何か、まずいことに巻き込まれてるんじゃないでしょうね」
「分かりません」
「それが一番困るんですが・・・・・」
セシリアには何一つ記憶がなかった。
「新聞はありますか」
「ありますよ」
昨日のものを差し出された。
「今日のは?」
「さっき届いたばかりです」
男は広げていた新聞を畳み、セシリアへ差し出した。
受け取って一面を開いた。
自分の名前があった。
セシリアはその見出しを読んだ。
一度では意味が分からず、もう一度読む。
それでも変わらない。
ローデン伯爵令嬢、悲嘆の末に自死
昨夜、ローデン伯爵家の令嬢セシリア・ローデンが自室で死亡しているのが発見された。
前夜の婚約披露宴で出生を巡る問題が明らかになり、婚約は保留となっていた。
死亡した令嬢は十九歳。
遺体はローデン伯爵および伯爵家の主治医によって本人と確認された。
最後まで読み終えたあと、セシリアは最初からもう一度読んだ。
宿の主人が言った。
「お気の毒ですよねえ」
「え?」
「その伯爵令嬢。昨日まで王族に嫁ぐって話だったのに」
「……そうですね」
「まだ十九でしょう」
「ええ」
「死ぬことないのにねえ」
「本当に」
新聞を畳んだ。
それから、自分の手を見た。
指を動かす。
頬をつねる。
痛かった。
「どうしました?」
「いえ」
もう一度新聞を開いた。
父と主治医が、遺体を本人だと確認した。
そこだけは読み違えていない。
だとすれば昨夜、ローデン伯爵邸で死んだセシリア・ローデンとは、いったい誰なのだろう。
*
アーネストが宿を訪れたのは、その日の夕方だった。
宿の少年に金を渡し、王宮近くにある彼の私邸へ手紙を届けてもらった。返事があれば、この宿へ持ち帰るよう頼んであった。
文面は二行だけ。
――生きています。
――セシリア。
悪戯だと思われる可能性もあった。
窓の外に宵闇が混じり始めた頃、宿の前に紋章のない馬車が止まった。
降りてきたアーネストは、セシリアを見るなり足を止めた。
しばらく何も言わない。
「何か言ってください」
「何を言えばいい」
「生きていてよかった、とか」
「まだ君が本物か確認していない」
セシリアは扉へ手をかけた。
「帰ってください」
「冗談だ」
「今の状況で?」
「今の状況だからだ」
部屋へ入ると、アーネストは扉を閉めた。
「本当に君なのか」
「さっきと同じことを訊いてます」
「重要だからな」
「では偽物だと思います?」
「思っていない」
「だったら」
「私が君だと思うことと、王家が君をセシリア・ローデン本人だと認定することは別だ」
セシリアは黙った。
腹は立つが、言っていることは正しい。
アーネストが椅子へ座る。
「昨夜、何があった」
父との会話から順に話した。
途中で何度か確認が入った。
「君に酒を渡したのは?」
「父です」
「酒を用意したのは?」
「使用人です。瓶だけを持ってきました」
「グラスは?」
「父の書斎にあります。家族それぞれ決まったものがあって、父が私のグラスを取りました」
「君のものだと一目で分かる?」
「頭文字が刻まれています」
「父親が何かを入れるところは見た?」
「いいえ」
「酒を飲んで、どのくらいで眠くなった」
セシリアは記憶を辿った。
「長くはなかったと思います。一、二分くらい……正確には分かりません」
「薬だろうな」
「たぶん」
「伯爵が?」
「分かりません」
アーネストが見る。
「疑わないのか」
「疑っています」
「なら?」
セシリアは少し考えた。
「父ですから」
「だから疑えない?」
「疑いたくない、の方が近いです」
アーネストはそれ以上言わなかった。
代わりに持ってきた書類を机へ置く。
「こちらでも妙なことが一つ見つかった」
「何です?」
「君はまだ死んでいない」
「それは知っています」
「そういう意味じゃない」
アーネストは、王宮の記録局から取り寄せた確認書を机へ置いた。
王家の紋章と、担当官の署名が入っている。
「伯爵家から正式な死亡通知が出ていない」
セシリアは顔を上げた。
「新聞には出したのに?」
「ああ。葬儀の準備も始まっている。だが法的には、セシリア・ローデンはまだ生きている」
「なぜ?」
「伯爵家は、悲嘆のため手続きが遅れていると説明している」
「誰の悲嘆です?」
「普通に考えれば父親だ」
昨夜の父の顔を思い出した。
悲嘆という言葉は、どうにも似合わなかった。
アーネストはもう一枚の紙を出した。
「それから、遺体を直接確認したのは君の父親と主治医だけだ」
「つまり」
セシリアは新聞を見た。
「誰かが私の代わりに死んだ」
「その可能性はある」
「誰が?」
「それを調べる」
アーネストは立ち上がった。
「君はしばらくここから出るな」
「嫌です」
即答すると、彼は眉を寄せた。
「死んだ人間が王都を歩くつもりか?」
「自分の死体が誰なのかくらい、自分で調べたいです」
「妙な言い回しだな」
「私もそう思います」
アーネストはしばらくセシリアを見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「分かった。ただし勝手なことはするな」
「善処します」
「守らない人間の返事だ」
それには答えなかった。
もっとも、死んだことになっている伯爵令嬢が、そのまま王都を歩き回るわけにはいかない。
アーネストが用意したのは、商家の娘が着るような地味な服と、顔の半分ほどを隠せる帽子だった。
髪も普段とは違うようにまとめ、外出する時は必ず彼の従者を一人つける。
「これなら私だと分かりません?」
「近くで見れば分かる」
「意味ないじゃないですか」
「近くで見られるな」
*
三日調べても、死んだ女は見つからなかった。
伯爵邸の使用人に欠けた者はいない。
王都で十九歳前後の女性が失踪したという届けも、直近では確認できなかった。
「髪を染めた可能性は?」
「ある」
「背丈が少しくらい違っても、私の服を着せれば」
「それもある」
「では探し方が悪いのでは?」
「そうかもしれない」
アーネストが簡単に認めるので、かえって腹が立つ。
「役に立ちませんね」
「君の死体探しに慣れていないんだ」
「私もです」
一方で、別のことが分かってきた。
死亡した夜、セシリアの部屋へ入ることを許された使用人はいない。
父と主治医だけ。
遺体は翌朝には棺へ納められていた。
葬儀屋にも確認した。
「中は見ていない?」
アーネストが尋ねると、男は首を振った。
「伯爵様から、ご令嬢のお顔は誰にも見せたくないと」
「遺体を棺へ納めたのは?」
「伯爵家の方です。我々が引き取った時には、もう蓋が閉じられていました」
宿へ戻る馬車の中で、セシリアは黙っていた。
アーネストが横目で見る。
「何だ」
「誰も見ていない」
「何を」
「死んだ私を」
父。
主治医。
それ以外には、一人もいない。
「棺を開けられませんか」
「伯爵は嫌がる」
「でしょうね」
「国王陛下の許可が必要だ」
「取れます?」
「理由はある」
翌日、許可が下りた。
ローデン伯爵は強く反対した。
娘の亡骸を晒し者にするのか。
父親として到底認められない。
主張だけを聞けば、何もおかしくない。
セシリア本人が宿屋で生きてさえいなければ。
棺は王家の立会人の前で開けられた。
セシリアは同行しなかった。
自分の死体を確認する趣味はない。
戻ってきたアーネストに、セシリアは尋ねた。
「誰でした?」
「誰でもない」
「え?」
「空だった」
セシリアは瞬きをした。
「遺体がなかった?」
「ああ」
「盗まれた?」
「伯爵はそう主張している」
あり得ない話ではない。
しかし三日探しても、自分の代わりに死んだ女は見つからなかった。
死体を見た者もいない。
父と主治医を除けば。
セシリアは椅子へ腰を下ろした。
それまで別々に見えていた事実が、頭の中で一つの形になった。
「アーネスト」
「何だ」
「私たち、探すものを間違えていたんじゃありません?」
「何を」
「死んだ人です」
彼は黙った。
「見つからないんじゃない」
セシリアは言った。
「最初から、誰も死んでいなかったんです」
誰も死んでいなかった。
そう考えれば説明できることは多い。
セシリアの部屋に使用人を入れなかったこと。遺体を確認したのが父と主治医だけだったこと。葬儀屋へ渡された時には、すでに棺が閉じられていたこと。
そして何より、正式な死亡手続きだけが行われていない。
「でも、それなら余計に分からない」
宿の机には、ここ数日で集めた資料が広げられていた。セシリアはそのうち一枚を指先で押さえた。
「父は何がしたかったの?」
アーネストは向かいの椅子に座ったまま答えない。
「婚約を止めたいだけなら、出生の疑いを出せば十分でしょう。王家が調査している間、少なくとも結婚はできない」
「そうだな」
「屋敷から追い出したいなら、それもできた。なのに、わざわざ私が死んだという話まで作った」
セシリアは新聞へ目を移した。
記事の中では、自分はすでに過去の人間になっている。
「危険を増やしただけに見えます」
「一つ、前提を変えてみるか」
アーネストが言った。
「どれを?」
「君が邪魔だった、という前提だ」
セシリアは顔を上げる。
「違うんですか?」
「本当に邪魔なだけなら、殺せば済む」
その言い方にセシリアは眉を寄せた。
「もう少し遠回しに言えません?」
「遠回しにすると事実が分かりにくくなる」
「あなた、女性に好かれないでしょう」
「婚約者はいる」
「今のところ保留です」
アーネストは無視した。
「伯爵はあの日、君を眠らせた。意識のない人間を屋敷の外へ運ぶ準備までしていた可能性が高い。それなら殺す機会はいくらでもあった」
「でも殺さなかった」
「ああ」
「新聞では殺した」
「いや」
アーネストが首を振る。
「新聞には、君が死んだと発表しただけだ」
セシリアは黙った。
わずかな違いだった。
だが、今はその違いが気になった。
「しかも正式な死亡届は出していない」
アーネストは続ける。
「世間には死者として扱わせる。一方で、法律上は生かしたままにしておく。そうする必要があったと考えた方が自然だ」
「生きていなければ困る理由がある?」
「おそらくな」
その理由を探すことになった。
*
死体の正体を追う調査では手掛かりが得られなかった。そこで次に目を向けたのが、セシリアの母――エレノアの実家だった。
ハルフォード家。
かつては王都でも名の通った家だったが、エレノアの両親はすでに亡くなり、彼女自身も十三年前に死んでいる。兄弟はいなかった。
つまり、血筋をまっすぐ辿れば残っているのはセシリアだけだった。
セシリアも、自分がハルフォード家に残された唯一の直系であることは知っていた。
母エレノアは一人娘で、祖父母もすでに亡くなっている。
王宮の文書庫で、セシリアは古い系譜を眺めていた。
「君がいるから、まだ途絶えてはいない」
アーネストは別の冊子を机へ置いた。
「ハルフォード家の領地は、約百年前の内乱のあとに王家から下賜されたものだ」
「祖先が国王側についた時の?」
「そうだ。王都への補給路を守った功績で、反乱貴族から没収された土地の一部を与えられた」
セシリアは冊子を開いた。古い言い回しが並んでいる。数行読んだところで諦めた。
「簡単に言ってください」
「条件付きの下賜だ。ハルフォード家の直系が続く限り保有を認められるが、直系が途絶えれば領地は王家へ返還される」
「母が亡くなった時は?」
「君がいた。ただし当時は六歳だったから、正式な継承は保留され、領地は管理人のもとに置かれた」
アーネストは冊子の別の箇所を指した。
「君が二十歳になれば、そこで正式に当主となる」
セシリアは少し考えた。
「二十歳になるまで、あと四か月」
「ああ」
「では、その前に私が死んだら?」
「次の直系がいない。ハルフォード家はそこで途絶れ、領地も継承財産も王家へ返る」
「父には?」
「一切渡らない」
セシリアは冊子へ目を落とした。
「じゃあ、もし父が財産目当てだったとしても、今の私を殺したら何も手に入らない?」
「少なくとも、ハルフォード家の財産についてはな」
少し間を置いて、アーネストが訊いた。
「継承の仕組みまでは習わなかったのか?」
「概要は。ですが、実際に領地を管理する前提ではありませんでした」
「王族に嫁ぐ予定だったから?」
「ええ」
「それは私のせいではないな」
「今のところは」
セシリアは記録へ目を戻した。
「二十歳になれば、財産に関する契約を私自身の名で結べるんですよね」
「ああ。処分や譲渡にも、君自身の意思が必要になる」
そこでセシリアは顔を上げた。
「……父が欲しいのは、それ?」
「何だ」
「私の署名」
アーネストは答えなかった。
「二十歳になるまで生かしておいて、必要な書類に署名させる」
「君が同意すればな」
「閉じ込められていたら?」
今度は、答えを聞く必要がなかった。
*
ハルフォード家の旧領までは、王都から馬車で半日ほどだった。
今は王家の認可を受けた管理人が土地と収益を管理している。ローデン伯爵が自由に出入りできる場所ではない。
管理人のヘンリー・ウォルターは六十を過ぎた小柄な男だった。
応接室へ入ってきたセシリアを見た瞬間、深く頭を下げる。
「お久しゅうございます、セシリア様」
あまりにも迷いがないので、セシリアは逆に戸惑った。
「私だと分かるんですか」
ヘンリーが顔を上げる。
「分からない理由がございません」
「新聞では死んだことになっています」
「新聞社の方々とは、これまで一度もお目にかかったことがございませんので」
セシリアはアーネストを見た。
「この人、好きかもしれません」
「本人の前で言うことじゃない」
ヘンリーは聞こえなかったことにしたらしい。
帳簿を見せてもらうと、領地の収益や建物、森林、貸付金などが細かく記載されていた。
しかしアーネストが王宮から持ってきた古い資産記録と比較していくうち、奇妙な差が見つかった。
「数字が合いませんね」
アーネストが言った。
ヘンリーは黙っている。
「昔の記録には、今の帳簿にない財産がかなりあります」
セシリアも資料を見比べた。
土地の売却記録はない。大きな損失が出た形跡もない。
にもかかわらず、昔あったはずの資産の一部が、現在の帳簿には存在していなかった。
「なくなったんですか?」
「いいえ」
「では、どこに?」
ヘンリーは少し考えた。
「正確には、現在の領地財産から切り離されております」
「誰が管理しているんです?」
「それは申し上げられません」
「あなたではない?」
「はい」
「私が二十歳になれば?」
「その時、初めて所在と内容が開示されます」
「私が継承者ですよね」
「左様でございます」
「それでも?」
「それでも、でございます」
「いつなら教えてもらえるんです?」
ヘンリーは少し考えてから答えた。
「二十歳のお誕生日を生きて迎えられましたら、セシリア様ご本人にお渡しするものがございます」
「渡すもの?」
「はい」
「それが何かも教えられない?」
「今は」
セシリアは不満だったが、アーネストはそれ以上問い詰めなかった。
代わりに別の質問をした。
「ローデン伯爵も、ここへ来ていますね」
ヘンリーの視線が彼へ動いた。
「管理事務所の来訪簿を確認しました。ここ十年で六回。二か月前にも伯爵の名が残っています」
しばらく間を置いて、ヘンリーは頷いた。
「いらっしゃいました」
「何を聞かれました?」
「ハルフォード家の財産についてでございます」
セシリアの表情が変わった。
「父が?」
「はい」
「何を知りたがったんです?」
「現在の帳簿に記載されていない財産があるのではないか。もしあるなら、どこにあるのか。どれほどの価値なのか」
「答えたんですか?」
「お答えしておりません」
「それで父は帰った?」
ヘンリーは少し困ったような顔をした。
「一度では」
アーネストが口元をわずかに動かした。
「六回来ている」
「左様でございます」
父らしい、とセシリアは思った。
知りたいと思ったことを、諦める男ではない。
「父は、二十歳になれば私に何かが渡されることも知っているんですか」
ヘンリーは答えるまでに少し時間を使った。
「そのような規定があることまでは、ご存じです」
「中身は?」
「存じ上げません」
「保管場所は?」
「それも」
アーネストが確認した。
「つまり伯爵が知っているのは、セシリアが二十歳になれば、現在表に出ていない何らかの資産について知ることができる。それだけですね」
「はい」
セシリアは黙っていた。
四か月。
その数字が頭から離れない。
父が自分の出生を否定したのは、二か月前にここへ来た後だ。
一月前に母の手紙を見つけた、と父は言っていた。
そして今、セシリアは十九歳。
あと四か月で二十歳になる。
帰りの馬車に乗ってからも、セシリアはほとんど話さなかった。
やがてアーネストが言った。
「分かったか」
「何となく」
「なら言ってみろ」
「教師みたいなことをしないでください」
「整理するには口に出した方がいい」
セシリアは窓の外を見た。
「私が二十歳になる前に本当に死ねば、ハルフォード家のものは王家へ返る」
「ああ」
「父は取れない」
「ああ」
「でも、二十歳まで生きていれば、私が正式に継承する。その時に今まで隠されていた資産も分かる」
「おそらく」
「だから父は私を殺せない」
アーネストは何も言わなかった。
セシリアは続ける。
「でも私があなたと結婚すれば、父の好きにはできなくなる」
「少なくとも、今までよりは難しい」
「だから婚約を止めた」
母のメッセージカード。
マーサの証言。
どちらも、王家が婚姻をためらうには十分だった。
「そのあと私を死んだことにした」
そこで、まだ一つ繋がらない。
「なぜ?」
アーネストは問い返した。
「君が生きていると、どうなる」
「……王家が出生について調べる」
「それから?」
「私は伯爵家を追い出されても、どこかで生活する。人にも会う」
「四か月後には?」
セシリアはようやく理解した。
「二十歳になる」
父にとって必要なのは、娘を殺すことではない。
誰にも会わせないことだった。
王家にも。
管理人にも。
おそらく、セシリア自身にも事情を考える時間を与えずに。
「隠すつもりだった」
声にすると、それまで曖昧だったものが輪郭を持った。
「私は死んだことにされて、どこかに閉じ込められる。四か月間」
「そして二十歳になれば?」
「必要な時だけ連れ出す」
ヘンリーの言葉が、不意に頭の中へ戻ってきた。
二十歳の誕生日を、生きて迎えられましたら。
あの老人は何も知らずに言ったのだろう。
だが父にとっては、文字通りの条件だった。
「私に財産を受け取らせる」
セシリアは続けた。
「それから、父に都合のいい書類へ署名させる」
「可能性は高い」
「全部終わったら?」
アーネストは答えなかった。
セシリアも、答えは求めなかった。
世間ではすでに死んでいる人間である。
国外へ出されようが、どこかに閉じ込められようが、誰もセシリア・ローデンの行方を探さない。
存在しないのだから。
しばらく馬車の音だけが続いた。
「殺される予定じゃなかったんですね」
セシリアが言った。
「少なくとも、二十歳になるまでは」
「だから、その言い方」
「事実だ」
セシリアはため息をついた。
その時、別の疑問が浮かんだ。
「待って」
「何だ」
「父の計画がそれなら、私は今ここにいるはずがない」
アーネストがセシリアを見る。
「昨夜、私はどこか別の場所へ運ばれる予定だった。そこで四か月間隠されるはずだった」
「ああ」
「なのに、私は西門の外の宿屋で目を覚ました」
セシリアは少し考えた。
「御者は宿代まで払って帰っている」
「そう聞いている」
「つまり、間違えて運ばれたわけじゃない」
今度はアーネストが黙った。
「誰かが、父の計画を途中で変えた」
馬車の窓から差し込む光が、二人の間を横切った。
セシリアの頭に、一人の女の顔が浮かんだ。
王宮で母の秘密を証言しながら、一度もこちらを見ようとしなかった女。
「マーサ」
アーネストが尋ねる。
「なぜ彼女だと思う?」
「まだ、思っただけです」
セシリアは窓の外へ視線を戻した。
「でも、会う必要はありそうですね」
*
マーサの家は空だった。
王都から一時間ほど離れた小さな町にある、古い二階建ての家だった。近所の者によれば、彼女は数日前の朝に出かけたきり戻っていない。
「数日前?」
セシリアが聞き返した。
「……私が宿で目を覚ました頃でしょうか」
アーネストは玄関の錠を確かめた。壊された形跡はない。
「逃げたのかもしれない」
「父から?」
「あるいは我々から」
「王宮であんな証言をしたんですものね」
セシリアは窓越しに室内を覗いた。
マーサは母が生きていた頃から伯爵家にいた。幼いセシリアの髪を結ってくれたこともある。
その女が十三年ぶりに現れ、母には夫以外に親しい男がいたと証言した。
その翌朝、自分は死んだことになった。
偶然と考えるには、出来すぎている。
「入りたいです」
「不法侵入になる」
「王族が一緒なら大丈夫でしょう」
「王族を何だと思っている」
結局、入らなかった。
代わりに近所を回った。
収穫はほとんどなかったが、一人だけ、マーサが出発するところを見ていた。
向かいに住む老女だった。
「荷物は?」
アーネストが尋ねる。
「小さい鞄だけですよ。旅行ってほどじゃなかったねえ」
「馬車で?」
「いいや。歩いて駅馬車の停留所の方へ」
「誰かと一緒でしたか」
「一人だったと思うけど」
老女はそこでセシリアを見た。
「あんた、どっかで見た顔だね」
セシリアは帽子を深く被った。
「よく言われます」
「そうかい」
便利な返事だった。
宿へ戻ると、一通の手紙が届いていた。
宛名はセシリア。
セシリアは末尾まで目を走らせた。
――マーサ
中には場所と時間しか書かれていなかった。
翌日の午後三時。
王都南部にある、古い礼拝堂。
そして最後に一行。
――お一人では来ないでください。
アーネストが読み終えた。
「妙だな」
「何が?」
「普通は『一人で来い』だ」
「まともな人なんでしょう」
「王宮で君の母親に男がいたと証言した女だぞ」
「あなた、人を一つの行動だけで決めつけます?」
「場合による」
「では明日分かります」
*
礼拝堂には先客がいた。
一番後ろの長椅子に、マーサが座っている。
セシリアとアーネストが入っても、彼女は立たなかった。
「お久しゅうございます」
マーサが言った。
「王宮で会いました」
「お話しするのは、という意味でございます」
セシリアはマーサから少し離れた場所に、同じ長椅子へ腰を下ろした。
アーネストは少し離れた場所に立った。
「訊きたいことがたくさんあります」
「存じております」
「では最初に一つ」
マーサが顔を上げる。
「どうして私は、あの宿にいたんです?」
わずかな間があった。
「私がそういたしました」
予想していた答えだった。
それでも、実際に聞くと胸の奥がざわついた。
「父は?」
「西の別邸へお連れするつもりでした」
「やっぱり」
アーネストが尋ねた。
「伯爵の計画を知っていた?」
「すべてではございません。当初は、セシリア様をしばらく人目から隠すとだけ聞かされておりました」
「それに協力したのか」
「協力するふりをいたしました」
セシリアは彼女を見る。
「最初から、私を逃がすつもりだった?」
「伯爵様が何をなさろうとしているのか、確かめる必要がございました」
マーサは膝の上で両手を組んだ。
「王宮で証言するよう命じられた時、初めて分かったのです。あの方は、お嬢様を死んだことにして、この世から存在を消すつもりなのだと 」
「それで、あんな証言を?」
「断れば、私は計画から外されます」
その答えに、セシリアはすぐには返せなかった。
「では、あの夜のことを最初から」
アーネストが言った。
マーサは頷いた。
「王宮から戻る前に、伯爵様はすでに準備をなさっていました。お嬢様を眠らせ、西の別邸へ移す。そのための薬も」
セシリアはアーネストを見た。
「グラス?」
「はい」
マーサは答えた。
「セシリア様がお使いになるグラスは、昔から同じ場所にございます。頭文字の入ったものです」
「父が薬を入れたの?」
「私が書斎へ入った時には、すでに入っておりました」
「いつ入ったんです?」
「伯爵様が王宮から戻られ、書斎へ来られる前に入りました 」
マーサはその夜、伯爵の指示で屋敷に残されていた。
セシリアを別邸へ移す際、同行するよう命じられていたという。
「グラスの底に白い粉がございました。私は少しだけ取り除きました」
セシリアは眉を寄せる。
「全部ではなく?」
「全部なくなっていれば、伯爵様が気づかれます」
「なるほど」
アーネストが短く言った。
「それに、眠っていただく必要はございました。意識のあるセシリア様を、何も知らせず屋敷から連れ出すことはできませんから」
合理的だった。
救出という言葉から想像するほど、優しいやり方ではない。
だが、成功させるにはその方がいい。
「宿へ行くよう御者に言ったのも?」
「はい」
「父は御者に直接、別邸へ行けと言わなかったんですか」
「行き先を知る者を増やしたくなかったのでしょう。伯爵様は御者に、私の指示に従うよう命じておりました」
セシリアは思わず笑った。
「随分と信用されていたんですね」
マーサの顔には笑みがない。
「そう思わせました」
「宿代まで払わせた?」
「数日は困らないだけのお金も持たせました。御者には、その後すぐ伯爵家を離れるよう勧めました」
「逃げたんですか」
「おそらく今頃は国外へ向かっています」
アーネストがマーサを見た。
「伯爵は当然、君の裏切りに気づいたな」
「翌朝には」
「それでも死亡発表を取り消さなかった」
「取り消せなかったのでしょう」
それはセシリアにも分かった。
娘は死んだ。
そう発表した直後に、
実は逃げられました。
とは言えない。
「今も探されています」
マーサが言った。
「私を?」
「セシリア様も、私もです」
セシリアの表情が変わった。
「では、ここも危険なんじゃ」
「だから、お一人では来ないでくださいと」
アーネストが礼拝堂の入口を見た。
「先に言ってほしかったな」
「殿下なら警護をお連れになると思いました」
実際、外には数人いる。
マーサはそこまで計算していたらしい。
「次です」
セシリアは言った。
「王宮での証言」
マーサの顔から、わずかに力が抜けた。
「母には、本当に父以外の男性がいたんですか」
「おりました」
同じ答えだった。
「誰です?」
今度は、マーサは躊躇しなかった。
「オスカー・フェルナンという方です」
知らない名前だった。
セシリアはアーネストを見る。
彼も首を振る。
「母とどういう関係だったんです?」
「エレノア様の従兄でございます」
セシリアは瞬きをした。
「従兄?」
「エレノア様のお父上の妹君のご子息です。お父上はご結婚を機にハルフォード家へ入られましたから、オスカー様はそのご実家側の従兄にあたります 。 幼い頃から兄妹のように育たれました」
「それなら、どうして王宮でそう言わなかったの?」
マーサは静かに答えた。
「言えば、疑いが消えるからです」
あまりに単純で、セシリアは言葉を失った。
王妃は確かに尋ねた。
夫以外に親しくしていた男性がいたか。
マーサは「いた」と答えた。
嘘はついていない。
誰か。
それについては答えなかった。
従兄だと知られれば、それまで作り上げた空気が崩れる。
「父に、そう答えるよう言われた?」
「はい」
「母とその人は、本当にただの従兄妹?」
「私の知る限りは」
「父は?」
「昔から疑っておられました」
マーサは視線を落とした。
「ローデン伯爵様は、エレノア様がオスカー様と親しくされることを好んでおりませんでした。結婚後は、ほとんど会うことも許しておられません」
セシリアの中で、一枚のメッセージカードが浮かんだ。
「じゃあ、あのメッセージカードは?」
マーサは少し黙った。
「持っております」
鞄から取り出したのは、数枚の黄ばんだ紙だった。王宮で見たものとよく似ている。
「本物?」
「はい」
「父が持っていたものは?」
「これの一部でございます」
セシリアは手紙を受け取った。
母の字だった。
――この子の父親はあなたではありません。
王宮で見た一文も、確かにそこにある。
だが、手紙はローデン伯爵へ宛てたものではなかった。
オスカーへ宛てたものだった。
「オスカー様は、エレノア様の従兄でございます。幼い頃から兄妹のように育たれました」
妊娠を知ったオスカーは、もし夫との生活が辛いのならハルフォード家へ戻ればいい、自分が力になると申し出たのだという。
母は、それを断る返事を書いていた。
――私とこの子を受け入れ、この子の父親になろうとまで言ってくださったお気持ちは嬉しく思います。
けれど、この子の父親はあなたではありません。
その後にも、父の名があった。
セシリアはしばらくメッセージカードから目を上げられなかった。
「……むしろ、父の子だと書いてありますよね」
「はい」
それは正式な書簡ではなかった。
母が贈られた品を返す際に添えるつもりだった、小さなカードらしい。書き切れず、二枚に分かれていた。
「父は、いつこれを見つけたんです?」
「正確には分かりませんが、二か月ほど前かと。ハルフォード家の財産について調べているので、奥様の古い書類の保管場所を知らないかと、手紙をいただきました」
セシリアはメッセージカードへ視線を戻した。
二か月前。
それなら、婚約披露の前から準備を始める時間は十分にあった。
「でも、どうしてこれをマーサが?」
「伯爵様が王宮へお持ちになったのは、二枚目だけでございました。残りは書斎に置かれたままでしたので、お嬢様を逃がす夜に持ち出しました」
アーネストが手を差し出した。
セシリアから受け取って読み、眉を寄せる。
「王宮で見せられたのは?」
「二枚目だけでございました」
セシリアは王宮でのやり取りを思い返した。
父は、妻がセシリアを身籠っていた頃に書いたメッセージカードだと言った。
それは事実だった。
だが、誰に宛てたものかは言わなかった。
国王もセシリアも、当然のように父宛てだと思った。
「まただわ」
セシリアが呟く。
「何が?」
アーネストが聞く。
「父は、肝心なところでは嘘をついていないの」
メッセージカードは母のものだった。
母には親しい男がいた。
その男の子供ではない、と母は書いた。
全部、本当だった。
ただし並べ方を変えれば、別の話に見える。
アーネストはメッセージカードをマーサへ返した。
「これで出生疑惑はかなり崩せる」
「かなり?」
セシリアが聞く。
「完全ではない。伯爵は、オスカーとの関係が従兄妹以上だった可能性を主張するだろう」
「しつこいですね」
「君の父親だからな」
「そういうところだけ似てるみたいに言わないでください」
マーサが初めて、ほんの少し笑った。
すぐに消えた。
「もう一つ、お話ししなければならないことがございます」
「まだあるんですか」
セシリアは半ば本気で言った。
ここ数日で、自分の人生には知らないことが多すぎると分かった。
マーサはアーネストを見た。
「ローデン伯爵様は、ハルフォード家の財産について、皆様が考えておられる以上に調べておられます」
アーネストの表情が変わる。
「どこまで知っている?」
「それは分かりません。ただ――」
マーサは一度言葉を切った。
「二か月ほど前、伯爵様に呼ばれて屋敷へ参りました。その折、伯爵様がハルフォード領から戻られた日のことです。書斎で誰かと話しておられるのを聞きました」
「誰と?」
「存じません。お顔は見ておりませんので」
「何を話していた?」
「場所についてです」
「場所?」
「はい」
マーサは記憶を確かめるように目を伏せた。
「伯爵様はこう仰いました」
セシリアは待った。
「『管理人自身が持っているわけではない。別の場所だ』と」
アーネストとセシリアが同時に顔を上げた。
ヘンリーは言っていた。
ローデン伯爵には、資産の内容も保管場所も教えていない。
だが父は、
管理人自身が保管しているわけではない。
そこまでは知っている。
セシリアはゆっくり息を吐いた。
「父は、知らないふりをしている」
「そのようです」
「どこまで?」
誰も答えなかった。
アーネストが立ち上がる。
「確かめるしかないな」
「父に訊く?」
「訊いて答えると思うか?」
セシリアは首を振った。
「では?」
アーネストは少し考えた。
「答えさせる」
*
礼拝堂を出てからも、マーサの最後の言葉が引っかかっていた。
――管理人自身が持っているわけではない。別の場所だ。
馬車に乗り込むと、セシリアは向かいのアーネストを見た。
「父は、ヘンリーが持っていないことを知っていた」
「ああ」
「でもヘンリーは教えていない」
「少なくとも、そう証言している」
「マーサが聞いた話まで本当なら、父は別のところから調べたことになりますね」
アーネストは窓の外へ目を向けた。
「あるいは、誰かに調べさせた」
その可能性もある。
むしろ父なら、自分で六度もハルフォード領へ足を運びながら、それだけで済ませたとは考えにくかった。
「どうやって確かめるんです?」
「本人に訊く」
「答えませんよ」
「だから、答えさせる」
先ほどと同じ言葉だった。
「どうやって?」
アーネストはしばらく考えていたが、やがてセシリアへ視線を戻した。
「伯爵は、自分がどこまで知っているかを隠したい」
「でしょうね」
「なら、知らない人間なら訂正しようのない間違いを、目の前でしてやればいい」
セシリアは意味を考えた。
「わざと間違える?」
「ああ」
「父が黙っていたら?」
「その時は失敗だ」
「随分と頼りない罠ですね」
「人間相手の罠なんて、そんなものだ」
「ミスするのを待つわけ?」
「違う」
アーネストは言った。
「ミスしたくなる状況を作る」
*
翌日、ヘンリーが王宮へ呼ばれた。
事情を聞いた老人は、しばらく考えた末にこう言った。
「私から虚偽を申し上げることはできません」
「分かっている」
アーネストが答える。
「あなたに嘘をついてもらうつもりはない」
三人は小さな応接室にいた。
机の上にはハルフォード家の古い継承記録が置かれている。
「確認したいのは一つだけです」
セシリアが言った。
「二十歳になった時、私へ渡されるものを、あなた自身が今持っているわけではない。これは事実?」
ヘンリーは頷いた。
「左様でございます」
「では、どこにあるかは」
「申し上げられません」
「父にも?」
「一度も」
「誰にも?」
少し間があった。
「継承規定に基づき、それを知る立場にある者はおります。ただしローデン伯爵様ではございません」
そこまで聞けば十分だった。
アーネストが一枚の地図を広げる。
「聖エレナ修道院を知っていますね」
ヘンリーの眉がわずかに動いた。
「もちろんでございます」
王都の南東にある古い修道院だった。
ハルフォード家とは何の関係もない。
「そこに例のものは?」
「ございません」
「伯爵がそう信じている可能性は?」
「それもないと思われます」
セシリアが首を傾げた。
「なぜ?」
「二年前、ローデン伯爵様は聖エレナ修道院にも問い合わせをなさっています」
アーネストとセシリアが顔を見合わせた。
「何を?」
「ハルフォード家から預けられた文書や財産がないか、と」
「父が?」
「はい。修道院から私のところへ確認がございました」
セシリアは思わず笑いそうになった。
「そこまでやってたのね」
「だから使える」
アーネストが言った。
父は、聖エレナ修道院にはないと知っている。
しかも、その知識をどこから得たのか説明しようとすれば、自分が長年ハルフォード家の隠し資産を探していた事実に触れなければならない。
「ただし」
ヘンリーが口を挟む。
「ローデン伯爵様は、用心深い方です」
「知っています」
セシリアが答えた。
誰よりも。
*
王宮での聞き取りは非公開で行われた。
国王夫妻、王弟、アーネスト、宰相。
そしてローデン伯爵。
ヘンリーは別室で待機している。
セシリアは最初から姿を見せなかった。
父が何を話すのか、先に聞くためだった。
「棺が空だった件について、説明を」
国王の問いに、父は落ち着いて答えた。
「私にも分かりかねます」
「娘の遺体が消えたのだぞ」
「だからこそ、私も困惑しております」
「最後に遺体を確認したのは?」
「私と主治医です」
「その後、誰が棺へ?」
「使用人に準備をさせました」
「その使用人は、遺体を見ていないと言っている」
父は一瞬も迷わなかった。
「娘の身体を人目に晒したくありませんでしたので、布で覆わせておりました」
「顔も?」
「はい」
「では、その使用人は中身が娘だったと確認していない」
「必要ございません。私が確認しております」
宰相が書類へ目を落とす。
「正式な死亡通知が提出されていない理由は?」
「娘を失った翌日に、そのような手続きまで考えが及びませんでした」
「新聞社へは、その日のうちに知らせている」
「憶測が広がる前に事実を発表すべきだと考えました」
ひとつひとつは説明できる。
無理がないわけではない。
だが、それだけで嘘だと断定できるものでもなかった。
国王が訊いた。
「棺から遺体が消えたのは?」
「盗まれたのでしょう」
「誰が」
「分かりません」
「何のために」
「それを調べていただきたい」
父はむしろ被害者の立場を崩さなかった。
隣室で聞いていたセシリアは、小さく息を吐いた。
「しぶといですね」
アーネストが小声で答える。
「十九年一緒に暮らしていて知らなかったのか」
「家庭では娘が追及する機会があまりありませんから」
やがて侍従が扉を開いた。
合図だった。
セシリアは立ち上がった。
*
部屋へ入ると、父は初めて表情を変えた。
ほんの一瞬だった。
驚いた。
そう見えた。
だが次の瞬間には消えている。
「この女性を知っているか」
国王が訊いた。
父はセシリアを見た。
長いこと。
「いいえ」
その答えは予想していた。
それでも胸の奥に何かが刺さった。
「私ですよ、お父様」
「私の娘は死んだ」
「そういうことになっていますね」
「陛下」
父は国王へ向き直った。
「この者が誰かは存じません。しかし娘に似た女を用意し、遺体まで盗んだとなれば、私を陥れる意図があるとしか思えません」
セシリアは思わず感心した。
自分が生きて現れたことまで、相手の陰謀に組み込んだ。
「では」
セシリアが言った。
「少しお話をしても?」
父は答えない。
「七歳の夏、北の離宮の池に落ちたことを覚えています。あの時、助けてくださったのはお父様でしたね」
父の眉が僅かに動いた。
「そのような話をどこで聞いた」
「違いました?」
「知らん」
セシリアはわざと首を傾げた。
「確か七歳だったと思うのですが」
沈黙。
「北の離宮ではなかった?」
父は答えない。
ここまでなら耐えられるらしい。
セシリアはもう一度考えるような顔をした。
「八歳だったかしら」
「六歳だ」
父が言った。
部屋の空気が変わった。
父自身も気づいたのだろう。
だが、もう遅い。
「北の離宮でもない。ハルフォードの夏館にある池だ」
言い切ったところで口を閉じた。
セシリアは父を見る。
「よく覚えていらっしゃいますね」
「その話を知る者はいくらでもいる」
すぐに立て直した。
「使用人から聞いたのだろう」
「そうかもしれません」
セシリアはあっさり引いた。
追えば警戒される。
国王も何も言わなかった。
ただ父を見る目だけが変わっていた。
次に宰相が訊いた。
「ハルフォード家の財産について伺いたい」
父の視線がわずかに動く。
「何でしょう」
「あなたはここ十年で六度、旧ハルフォード領を訪れている」
「亡妻の実家です。何か問題でも?」
「管理人へ財産について尋ねた?」
「領地経営の状態を確認する程度のことはしております」
「帳簿に記載されていない資産については?」
「存じません」
「一度も聞いたことがない?」
「記憶にはございません」
アーネストが口を開いた。
「二十歳になったセシリアへ、現在公開されていない何かが渡される規定については?」
父は少し考えてから答えた。
「初耳です」
「管理人から聞いたことも?」
「ありません」
「保管場所も知らない?」
「当然でしょう。存在自体、今初めて聞いたのですから」
綺麗だった。
逃げ道を一つずつ塞いだつもりが、父は自分からすべてを否定してくれた。
セシリアはアーネストを見なかった。
見れば、合図だと気づかれるかもしれない。
「そうですか」
セシリアは言った。
「それなら、お父様には関係のない話ですね」
父は黙っている。
「私、もうすぐ二十歳になります」
「お前がセシリアならな」
「もちろん。その確認も必要です」
セシリアは国王へ向き直った。
「陛下。本人確認が済みましたら、二十歳の誕生日には聖エレナ修道院へ王家の方を同行させていただけませんか」
父の目が動いた。
ほんの僅かだった。
「なぜ修道院へ?」
国王が訊く。
「そこで、母方から残された資産目録を受け取ることになっているそうです」
「誰から聞いた?」
父だった。
セシリアは彼を見る。
「ヘンリーからです」
父は黙った。
「ヘンリー自身が持っているものを、二十歳になった私へ渡す、と」
沈黙が続いた。
まだ食いつかない。
「聖エレナ修道院の院長にも立ち会っていただこうと思っています」
父の表情は変わらない。
「その場で資産の内容を確認し、今後はすべて王家の監督下へ置いていただきます。少なくとも、父の不正を疑っている間は」
「好きにすればいい」
父は言った。
耐えた。
セシリアは心の中で舌打ちした。
アーネストが何気ない調子で続ける。
「それが安全でしょう。ヘンリーが保管しているものなら、本人に修道院まで持参させればいい」
「ええ」
セシリアも合わせた。
「四か月間はヘンリーに預かってもらいます」
父は黙っている。
「ただ」
セシリアは少し考えるふりをした。
「聖エレナまでは遠いですし、私が王都まで運んでもいいのかしら」
アーネストが言う。
「本人が受け取った後なら問題ないだろう」
「では、二十歳の朝、ヘンリーが修道院へ持ってきて――」
「できない」
父の声が重なった。
誰も動かなかった。
セシリアは父を見る。
「何がです?」
「……」
「ヘンリーには、できない?」
父は黙っている。
セシリアは待った。
先に言葉を足したら負ける気がした。
やがて父が口を開いた。
「管理人自身が保管しているものではないはずだ」
静かだった。
それだけに、その言葉は部屋の隅まで届いた。
アーネストがゆっくり父を見る。
「奇妙ですね」
父は答えない。
「先ほどあなたは、そんな資産が存在すること自体、今初めて聞いたと仰った」
「推測したまででございます」
「何を根拠に?」
「古い家の財産であれば、管理人一人の手元に置かれているとは考えにくいかと」
「なるほど」
アーネストはあっさり頷いた。
父の顔に一瞬、安堵のようなものが浮かんだ。
「では、聖エレナ修道院にある可能性は?」
「ございません」
父が答えた。
今度は、もっと早かった。
アーネストは何も言わなかった。
セシリアも。
父の表情が固まる。
自分で気づいたらしい。
「なぜです?」
セシリアが訊いた。
父は答えない。
「先ほどは存在すら知らなかった。保管場所も当然知らないと仰いました」
「……」
「それなのに、ヘンリーが持っていないことも、聖エレナ修道院にないことも知っている」
父の口元が僅かに動いた。
「調べたのですね」
「何を根拠に――」
「二年前」
アーネストが遮った。
「あなたは聖エレナ修道院へ問い合わせている。ハルフォード家から預けられた財産や文書はないか、と」
父の視線が彼へ移る。
「修道院に記録が残っていた」
今度こそ、父は何も言わなかった。
国王が低い声で訊いた。
「伯爵。なぜ、存在すら知らなかったはずの財産を、以前から探していた?」
沈黙が落ちた。
長かった。
やがて父は、わずかに顎を引いて姿勢を正した。
「財産を調べることが犯罪ですか」
「犯罪ではない」
国王が答える。
「では問題はないでしょう」
「ただし、娘を死んだことにした理由を説明するものにはなり得る」
父の目が細くなった。
「陛下は、私が娘を殺したと?」
「誰も、そのようなことは申し上げておりません」
セシリアが答えた。
父がこちらを見る。
「むしろ逆だと思っています」
「逆?」
「お父様は、私を殺せなかった」
初めて。
父の顔から、ほんの少しだけ余裕が消えた。
セシリアはそれを見逃さなかった。
「二十歳になる前に私が死ねば、ハルフォード家の領地も財産も王家へ返還される。だから、お父様は、私に生きてもらわなければいけなかった」
父は何も言わない。
「でも私がアーネストと結婚すれば、自由に扱えなくなる。だから出生を疑わせて婚約を止めた」
「想像だ」
「そうですね」
セシリアは頷いた。
「そして私を眠らせ、別邸へ運ぼうとした」
父の目がわずかに動いた。
「それも想像か?」
「いいえ」
後ろの扉が開いた。
入ってきた女を見て、父の顔が完全に止まった。
マーサだった。
「それについては」
マーサが静かに言った。
「私がお話しいたします」
*
マーサが部屋へ入ると、ローデン伯爵はしばらく彼女を見ていた。
怒鳴りもしなかった。
驚きも、もう見せなかった。
「久しぶりだな」
「はい」
「ずいぶん妙なところで会う」
マーサは答えず、国王の前まで進んで頭を下げた。
「お許しいただけましたら、私の知ることをすべてお話しいたします」
国王が頷く。
「話せ」
マーサは、婚約披露宴の数日前から順に説明した。
ローデン伯爵から呼び出され、王宮でエレノアについて証言するよう求められたこと。
夫以外に親しい男性がいたかと問われたら、いたと答えること。
その男の名や、エレノアとの関係については話さないこと。
そして宴のあと、セシリアを西の別邸へ移す手伝いを命じられていたこと。
伯爵は途中まで黙って聞いていた。
「証拠は?」
最初に口を開いたのは彼だった。
マーサが見る。
「今の話を証明できるものがあるのか」
「ございます」
その答えに、父の目が僅かに細くなった。
マーサは鞄から一枚の紙を取り出した。
「西の別邸の管理人へ渡すよう、伯爵様から預かったものです」
侍従を通して国王へ渡される。
国王が目を通したあと、宰相へ回した。
アーネストにも渡る。
最後にセシリアが読んだ。
父の署名と印がある。
内容は短かった。
西の別邸の二階奥の部屋を使用できる状態にしておくこと。
食事は指定された者以外に運ばせないこと。
客人には外部の者を会わせないこと。
手紙を出す場合は、必ず管理人を通すこと。
名前は書かれていなかった。
「私のことだとは書いてありませんね」
セシリアが言った。
「その通りだ」
父がすぐに答える。
「療養の必要な客人を置く予定だった。それだけだ」
「誰です?」
「事情が変わり、来なかった」
「お名前は?」
「答える必要があるか」
「あると思いますけど」
「お前が決めることではない」
まだ崩れない。
マーサの証言と手紙だけなら、確かに父は逃げられる。
国王が尋ねた。
「セシリアに薬を飲ませた件は?」
「その女の作り話です」
「では、なぜセシリアは意識を失った」
「そもそも、目の前のこの者がセシリア本人であると証明されたわけではございません」
父は一度そこへ戻した。
筋は通っている。
目の前の女を娘と認めなければ、酒の話そのものも否定できる。
マーサが言った。
「薬は、伯爵様ご自身が用意なさいました」
「見たのか」
「いいえ」
父の口元が少し動いた。
「なら想像だ」
「書斎へ入った時には、セシリア様のグラスに入っておりました」
「それを私が入れたという証拠にはならない」
「なりません」
マーサはあっさり認めた。
父が一瞬、言葉を止める。
「私は、伯爵様が入れられたところを見ておりません」
「なら――」
「ただし、薬を用意した人物は知っております」
今度は宰相が顔を上げた。
「誰だ」
マーサは答えた。
「伯爵家の主治医です」
*
医師は別室に待機させられていた。
空の棺が見つかった時点で、王家が身柄を押さえていたのだという。
呼ばれて入ってきた男は、セシリアが知っている顔だった。
幼い頃に熱を出した時も、母が亡くなった時も、この医師は屋敷にいた。
今は顔色が悪い。
「座れ」
国王に言われても、椅子へ向かおうとはしなかった。
「陛下」
声が震えている。
「私は――」
「まだ何も訊いていない」
医師は口を閉じた。
宰相が尋ねる。
「ローデン伯爵令嬢の死亡を確認したのは、あなたですね」
「はい」
「遺体を見た?」
沈黙。
「答えろ」
「……いいえ」
セシリアは息を吐いた。
分かっていたことなのに、本人の口から聞くと別の重みがあった。
「では、なぜ死亡したと証言した」
「伯爵様から、そうするようにと」
父が椅子から立った。
「嘘だ」
初めて声が大きくなった。
医師の肩が震える。
「私はそんな命令はしていない」
「なさいました」
「証拠は?」
医師は答えなかった。
父が国王を見る。
「追及されて罪を逃れたくなり、私へ責任を押しつけているのでしょう」
有り得ない話ではない。
医師は虚偽の死亡確認をした。
それだけでも罪になる。
主犯を他人にしたくなる理由は十分にあった。
アーネストが訊いた。
「眠り薬については?」
医師は一度、父を見た。
それから視線を逸らした。
「婚約披露宴の二日前、伯爵様から求められました 」
「量は?」
「成人女性を半日ほど眠らせる量を」
「用途は聞いた?」
「……眠れない者に使う、と」
「それで渡したのか」
「はい」
父が言った。
「それの何が問題だ。私自身が使うつもりだったかもしれない」
アーネストは医師を見る。
「記録は?」
医師が黙った。
「薬を渡した記録だ」
「通常なら残します」
「今回は?」
さらに長い沈黙。
「残すなと言われました」
「誰に?」
答えは出なかった。
だが、誰も急かさなかった。
やがて医師が、小さく言った。
「伯爵様に」
父は笑った。
乾いた短い笑いだった。
「その男の証言だけか」
「いいえ」
アーネストが答えた。
その声で、父が初めて彼を見る。
「薬屋にも記録があります。主治医が通常より多い量の眠り薬を購入している。購入したのは婚約披露宴の二日前です」
「医師が薬を買うことの何がおかしい」
「何も」
アーネストは頷いた。
「一つなら」
父は黙った。
「薬を買った医師がいる。その医師がセシリアの死を見てもいないのに認定した。伯爵家ではその夜、セシリア以外に意識を失った者はいない。そして伯爵は、意識を失ったセシリアを移す予定だった別邸を準備させている」
「いずれも推測にすぎません」
「ええ」
アーネストは否定しなかった。
「一つ一つなら」
その言葉を聞いて、セシリアは彼が何をしようとしているか分かった。
父の方法と同じだった。
一つの事実だけでは、何も証明できない。
なら、並べればいい。
ただし父とは逆に。
誤解させるためではなく、同じ答えしか残らないところまで。
*
次に呼ばれたのは、西の別邸の管理人だった。
五十代ほどの男で、王宮に呼ばれた理由すらよく分かっていないようだった。
「ローデン伯爵から、部屋を整えておくよう手紙を受け取ったか?」
「はい」
「いつ?」
「一月ほど前です。手紙には、必要な準備にはすぐ取り掛かるようにとございました」
「部屋を準備した?」
「いたしました」
「どんな部屋だ」
「二階の一番奥です」
「なぜそこを?」
管理人は困ったように父を見る。
「伯爵様から指定されましたので」
「鍵は?」
「外から掛けられるようにいたしました」
部屋の空気が変わった。
セシリアは父を見る。
彼は表情を変えていない。
宰相が訊いた。
「なぜ外から鍵を掛ける必要がある」
「私には分かりません。窓にも新しい留め金を付けるよう言われました」
「それも手紙に?」
「はい。受け取り次第、すぐ取り掛かるようにと」
「誰のための部屋だと聞いた?」
「具合の悪い若い女性がお見えになる、とだけ」
父が口を開いた。
「それが娘だったという証拠はない」
「そうですね」
セシリアが言った。
父が彼女を見る。
「若い女性は、世の中に私だけではありませんもの」
「分かっているなら黙っていろ」
「ただ」
セシリアは続けた。
「少し多いんですよね」
「何がだ」
「偶然が」
父は答えなかった。
「私が酒を飲んで意識を失った夜に、父は若い女性を閉じ込められる部屋を用意していた。私を死亡したと発表した医師は、その直前に眠り薬を買っていた。遺体を見てもいないのに死亡を認めた。そして私は、その部屋へ運ばれる予定だったとマーサが証言している」
「だから、その女の証言は信用できないと言っている」
「では、マーサはどうして私が薬を飲まされることを知っていたんでしょう」
父が黙った。
「私も知らなかったのに」
沈黙が続く。
父は答えを探していた。
やがて言った。
「その女自身が薬を入れたのだろう」
マーサが顔を上げる。
「私がお嬢様を眠らせ、連れ出したと?」
「そうだ。お前がこの女を用意した。娘に似せた女を使って、私を陥れようとしている」
セシリアは父を見つめた。
すごい、と少し思った。
ここまで来ても、まだ話を作れる。
「だったら」
セシリアは言った。
「私がセシリアだと証明すればいいだけですね」
父の目が止まった。
*
本人確認は、父との問答だけに頼らなかった。
王家はすでに数人の証人を集めていた。
セシリアが幼い頃から知る王妃。
十年以上彼女を教えた家庭教師。
乳母。
伯爵家を五年前に辞めた老執事。
全員が、目の前の女性をセシリアだと証言した。
それでも父は認めなかった。
「似た女を用意し、必要な情報を教え込めば、不可能ではございません」
国王へ向けた言葉だった。
筆跡を示されても、
「筆跡など、真似ることはできます」
幼い頃から右手首の内側にある小さな火傷の痕についても、
「その特徴を知る者は、他にもおります」
王妃が呆れたように言った。
「では伯爵。あなたの娘は、この女と同じ顔をし、同じ声を持ち、同じ場所に傷があり、同じ筆跡で字を書き、あなたしか知らぬ幼少期の出来事まで知っていたということになりますね」
「不可能ではございません」
国王が眉を上げた。
「随分と便利な言葉だな。不可能ではない、というのは」
父は黙って頭を下げた。
決定的な一つの証拠はない。
しかし一つ増えるたび、「偽物だ」という父の説明の方が不自然になっていく。
最後にマーサが、エレノアのメッセージカードを提出した。
王宮で示されたものの全文だった。
国王は黙って読み、次に父を見る。
「これはお前が婚約披露宴で出したメッセージカードと同じものだな」
「一部は」
「一部?」
父は答えない。
国王が読み上げた。
「『この子の父親はあなたではありません』」
セシリアはその一文を、もう何度聞いただろうと思った。
「だが、これはお前に宛てた文ではない」
父の顔は動かない。
「エレノアの従兄、オスカーに宛てたものだ。さらに、このカードの前には『私とこの子を受け入れ、この子の父親になろうとまで言ってくださったお気持ちは嬉しく思います』とある」
国王は二枚のカードを机へ置いた。
「なぜ全文を出さなかった」
「必要がないと判断しました」
セシリアは思わず父を見る。
その答えをするのか。
「必要がない?」
国王の声が低くなる。
「娘の出生を疑わせる場で?」
父は黙った。
マーサが静かに言った。
「オスカー様は、エレノア様の従兄でございます」
「それも知っていたな」
アーネストが父へ訊く。
「存じておりました 」
父は初めて素直に認めた。
「それでも、あの場では言わなかった」
「お尋ねがございませんでしたので 」
セシリアは目を閉じそうになった。
ここまで来ると、感心を通り越す。
「まただわ」
彼女が呟く。
アーネストが見る。
「何が?」
「父は、肝心なところでは嘘をついていないの」
父へ目を向けた。
「母がメッセージカードを書いた。本当」
父は黙っている。
「母には親しい男性がいた。本当」
マーサを見る。
「母は『この子の父親はあなたではありません』と書いた。それも本当」
再び父へ向き直る。
「ただ、誰宛ての手紙なのか。相手が誰なのか。その後に何と書いてあったのか。それを言わなかった」
「それを嘘と呼ぶか?」
父が尋ねた。
セシリアは少し考えた。
「いいえ」
その返事に、今度は父が意外そうな顔をした。
「嘘ではないと思います」
セシリアは言った。
「だから、たちが悪いんです」
*
国王が椅子の背にもたれた。
「伯爵。最後に訊く」
父は姿勢を正した。
「娘を死んだことにし、二十歳まで別邸に置くつもりだったか」
「違います」
「ハルフォード家の財産を得るためではない?」
「違います」
「では説明しろ」
父は何も言わなかった。
国王は待った。
かなり長い沈黙だった。
セシリアも口を挟まなかった。
やがて父が言った。
「私は誰も殺しておりません」
セシリアはその言葉を聞いて、妙に納得した。
最後まで、この人はそこなのだ。
「ええ」
父が彼女を見る。
「存じています」
「なら――」
「誰も殺さなかったから、分かったんです」
父の眉が動いた。
「もし私が本当に死んでいたら、ハルフォード家の財産は王家へ返される。お父様には一つも入らない」
「……」
「だから、私は生きていなければならなかった」
セシリアは静かに続けた。
「ただし、セシリア・ローデンとして生きていては困る」
父は何も言わない。
「娘を殺したかったんじゃない」
そこで一度、言葉を切った。
「娘の人生だけを、なくしたかったんでしょう?」
父の顔から、初めて何かが消えた。
怒りでもなかった。
驚きでもない。
父は、初めて思いもよらないことを言われたような顔をした。
*
父は、しばらくセシリアを見ていた。
「人生をなくす、か」
ようやく口を開いた。
「随分と大げさな言い方をする」
「では、何と呼べばよろしいんです?」
「お前を危険から遠ざけるつもりだった」
「何の危険です?」
「王家との婚姻だ」
アーネストの眉が動いた。
「私との婚姻が?」
父は彼の方へ向き直る。
「殿下に申し上げているのではございません。王家へ入れば、この娘は二度と自由には動かせなくなる。それだけです」
セシリアは一瞬、意味を取りかねた。
「……今、動かせなくなる、と仰いました?」
父は黙った。
宰相が視線を上げる。
「伯爵。あなたにとって娘は、動かすものなのか」
「言葉の綾です」
「便利ですね、その言葉」
セシリアが言った。
父がこちらを見る。
「ではお聞きします。西の別邸へ私を運んだあと、どうするおつもりでした?」
「そのような予定はなかった」
「二十歳になるまで?」
「なかったと言っている」
「そのあと、ハルフォード家の管理人に会わせる?」
「知らん」
「私に何かを受け取らせる?」
「知らん」
「署名させる?」
父の表情は変わらなかった。
「何にだ」
「それを私が知りたいんです」
セシリアは言った。
「お父様が十三年かけて探していたものに」
部屋が静かになった。
父は否定しなかった。
それだけで十分というわけではない。
だが、それまで何度も返ってきた「知らない」という言葉が、今だけ出てこなかった。
国王がゆっくり口を開いた。
「伯爵」
「はい」
「なぜ、亡妻の家の財産をそこまで調べた」
父はしばらく黙っていた。
「夫であったからです」
「妻は十三年前に亡くなっている」
「だからこそです」
「意味が分からんな」
父は国王ではなく、机の上に置かれた古い継承記録を見た。
「エレノアが亡くなったあとも、あの家の財産について私は何一つ知らされなかった。夫であった私にもです」
セシリアは聞いていた。
「管理人は、娘が二十歳になれば渡すものがあると言う。しかし私には何があるのかさえ教えない」
「当然でしょう」
アーネストが言った。
「あなたは継承者ではない」
父の口元に、わずかに笑みが浮かんだ。
「そうです。私は何者でもない」
その言い方には、初めて感情らしいものが混じった。
「妻の家でありながら、妻が死ねば私は部外者になる。十九の娘が二十になった、その一点だけで、私の知らない財産まで全て受け取る」
セシリアは父を見つめた。
「だから欲しくなった?」
「当然の権利だと思った」
「誰の?」
父は答えなかった。
セシリアは理解した。
そこだけは、十三年間変わらなかったのだろう。
父にとって問題だったのは、金額ではない。
自分が知らされないこと。
自分の許可なく、娘へ渡されること。
自分の手の届かないものが存在すること。
「私に受け取らせて」
セシリアは言った。
「そのあと取り上げるつもりだったんですね」
「管理するつもりだった」
「私に任せず?」
「お前に何が分かる」
即答だった。
その言葉だけは、父にも用意があったらしい。
「土地も、契約も、金も知らない。社交と礼儀だけを教えられて育った娘に、突然すべてを任せられると思うか?」
セシリアは少し考えた。
「思いません」
父が眉を寄せる。
「だから教えればよかったんじゃありません?」
「……」
「四か月で全部覚えられるとは思いませんけど、少なくとも死んだことにされるよりは勉強できます」
王妃が目を伏せた。
笑ったのかもしれない。
父の顔には、もう余裕がなかった。
「私はお前のために――」
「それはやめてください」
セシリアは静かに遮った。
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「私のためなら、私に訊くでしょう?」
父は何も言わない。
「結婚したいのか。財産をどうしたいか。管理を任せたいのか。少なくとも一つくらいは」
「十九の娘に何が決められる」
「だから、二十歳になった途端に署名だけはできるんですか?」
父の口が閉じた。
アーネストが僅かに顔を伏せた。
セシリアは続けなかった。
これ以上言葉を重ねれば、父との間に残っている最後の繋がりまで、本当に消えてしまう気がした。
*
ローデン伯爵がその場で罪を認めることはなかった。
西の別邸は療養客のためだった。
眠り薬を求めたことなどない。
医師とマーサが口裏を合わせている。
娘の死亡発表についても、自分は主治医の判断を信じただけだと主張した。
ただし、それまでとは違った。
説明するたびに、新しい説明が必要になった。
なぜ見てもいない遺体を医師は死亡と認めたのか。
なぜ空の棺を用意したのか。
なぜ正式な死亡通知だけを出さなかったのか。
なぜ同じ時期に、外から鍵の掛かる部屋を準備したのか。
なぜ十三年間、ハルフォード家の隠された財産を調べていたのか。
そして何より。
なぜ、死んだはずの娘が生きているのか。
一つずつなら説明できる。
全部を一度に説明しようとすると、父の話だけが不自然になった。
国王は最後まで自白を求めなかった。
「もうよい」
その一言で聞き取りを終わらせた。
父と主治医は、正式な調査が終わるまで王家の監督下に置かれることになった。
父が部屋を出る直前、セシリアは呼び止めた。
「お父様」
父が振り返る。
あまりにも自然に。
セシリアではないと言い張った男が、娘に呼ばれた父親のように。
訊きたいことがあるような気がした。
なぜこんなことをしたのか。
母を愛していたのか。
自分を娘だと思ったことはあったのか。
考えてみると、どれも今さらだった。
「何だ」
セシリアは首を振った。
「いえ。何でもありません」
父は何も言わず、扉の向こうへ消えた。
*
本人確認については、その日のうちに王家の見解が出た。
セシリア自身、それには少し拍子抜けした。
「そんなに簡単でいいんですか?」
王妃が呆れたように見る。
「簡単ではありません」
「でも父は、私は偽物だと」
「十九年間あなたを知る者がこれだけいて、全員が同一人物だと証言しているのですよ」
家庭教師。
乳母。
元執事。
王妃自身。
アーネスト。
さらに幼少期から残っている筆跡や身体的特徴、父自身が思わず訂正した過去の出来事。
「これだけ揃っているのに、父親一人が否定したから別人とする方が不自然です」
「なるほど」
「それに」
王妃は少し笑った。
「あなたが別人なら、本物よりずっとセシリアらしい偽物です」
「褒められている気がしません」
「褒めていますよ」
出生についても、母エレノアのメッセージカードの全文と、マーサの証言によって父の主張は大きく崩れた。
オスカーは母の従兄だった。
母自身が、そのメッセージカードの中でセシリアの父親が夫であることを前提に書いている。
これだけで血縁を科学的に証明できるわけではない。
だが、少なくとも父が婚約披露宴で示したものは、出生を疑う証拠にはならなかった。
王家は婚約保留の理由が消えたと判断した。
そこでセシリアには、もう一つ確認しなければならないことができた。
*
「一つ訊いても?」
王宮の庭を歩きながら、セシリアは言った。
「最近そればかりだな」
隣のアーネストが答える。
「人生の疑問が急に増えたんです」
「何だ」
「もし」
セシリアは少し間を置いた。
「私が本当に父の娘ではなかったら、どうしていました?」
アーネストは歩く速度を変えなかった。
「何を」
「婚約です」
「その話か」
「大事でしょう」
「面倒にはなっただろうな」
セシリアは立ち止まった。
「面倒?」
アーネストも数歩先で止まる。
「王家との婚姻だ。出自の確認、身分の整理、継承上の扱い。手続きは増える」
「そうではなくて」
「何だ」
「婚約をやめたかどうかを訊いてるんです」
アーネストは少し考えた。
本当に考える必要があるのか、とセシリアは不満になった。
「やめる理由になるのか?」
「……ならない?」
「君が別人になるわけじゃない」
あまりにも普通の調子で言われたので、セシリアは返事が遅れた。
「もっと何かないんですか」
「何が」
「こう、安心させるような」
「今言った」
「そうですか?」
「かなり」
「分かりにくいです」
「今後努力する」
セシリアは歩き始めた。
「期待せずに待っています」
「それは助かる」
婚約は、そのまま継続されることになった。
*
それから数週間をかけて、王家による正式な調査が行われた。
ローデン伯爵は最後まで、自ら計画を認めることはなかった。だが調査が進むにつれ、否定できることは少なくなっていった。
主治医が眠り薬を用意した記録。虚偽の死亡確認。西の別邸に作らせた、外から鍵の掛かる部屋。正式な死亡手続きを意図的に止めていたこと。
そして、ハルフォード家について伯爵が残した記録も見つかった。
最も古いものは、エレノアが亡くなって間もない頃の日付だった。
セシリアは、王家から渡された書類を一枚ずつ読んだ。
十三年間。
父はその間、ハルフォード家の管理人だけでなく、弁護士、銀行、修道院、過去に一族と取引のあった商会にまで問い合わせを重ねていた。
さらに、自分では辿れない部分を調べさせるため、私的な調査人まで雇っていた。
マーサが書斎で耳にした会話の相手は、その男だったらしい。
残されていた報告書の一つには、こう記されている。
――当該資産は、管理人ヘンリー・ウォルター本人の管理下にはない。別の機関へ移されている可能性が高い。
あの時、父が口にした、
――管理人自身が持っているわけではない。別の場所だ。
という言葉は、この報告を受けてのものだった。
そして、古い資産記録と現在の帳簿が一致しなかった理由も明らかになった。
消えたように見えていた財産は、失われていたわけではない。
先代当主の時代に通常の領地財産から切り離され、王家の認可を受けた複数の機関へ分散して預けられていた。
一部は王都の銀行。
一部は、聖エレナとは別の修道院。
一部は、ハルフォード家と古くから取引のある商会。
その所在と内容を記した目録だけが別に封印され、正式な継承者が二十歳になるまで開示されない仕組みだった。
ヘンリーが管理していたのは、現在の領地収入や建物、森林、貸付など、通常の領地財産だった。
古い帳簿から消えた資産のすべてを、彼自身が預かっていたわけではない。
父が十三年間探し続けていたのは、その分散された資産と、全容を記した目録だった。
最初の頃の手紙には、まだ父親らしい言葉が残っていた。
――娘はいずれこの財産を継ぐことになる。未成年である間は、父親である私が内容を把握しておくべきではないか。
数年後になると、少し変わる。
――エレノアの夫であり 、唯一の娘の父である私に、一切の説明がなされない理由を示していただきたい。
さらに後になると、文章は短くなっていた。
――当該資産について、管理権を私へ移す方法を知らせてほしい。
セシリアは最後の紙を机へ戻した。
「最初から、お金が欲しかったわけではなかったのね」
アーネストが向かいに座っている。
「少なくとも、最初はそう見える」
「知らされないのが嫌だった」
妻の家のことなのに、自分には教えられない。
娘の父親なのに、自分には決定権がない。
何度尋ねても、返ってくる答えは同じだった。
あなたは継承者ではない。
それを十三年間繰り返すうちに、父の中では何かが変わったのだろう。
知るべきだ、が。
管理すべきだ、になり。
最後には、
自分に権利がある、になった。
「本人は、奪うつもりだったとは思っていないのかもしれない」
アーネストが言った。
「管理するだけ?」
「ああ」
セシリアは少し考えた。
「同じですね」
「何が」
「私の人生も」
アーネストは黙った。
「父は財産を奪うつもりはない。管理するつもりだった。私を殺すつもりもない。安全なところに置くつもりだった」
言葉にしてみると、よく似ていた。
どちらも、本人に尋ねるという部分だけが抜けている。
「たぶん父は最後まで、自分が間違っているとは思わないでしょうね」
アーネストは少し考えた。
「伯爵は、君を大切にしているつもりだったのかもしれない」
「……そうでしょうか」
「ただ、愛することと、自分のものだと思うことを、区別できていなかった。そして愛情の形が十三年間で少しずつ壊れていったんじゃないか 」
*
その後、ローデン伯爵には爵位剥奪と所領の没収が言い渡された。
娘を死亡したと偽り、監禁しようとしたこと。主治医へ虚偽の死亡確認をさせたこと。王家との婚姻に関わる調査を意図的に誤らせたこと。
殺人罪だけはなかった。
誰も死んでいないのだから。
主治医もまた、偽証と薬物の不正な提供について処罰を受けることになった。
マーサについては、王宮で意図的に誤解を招く証言をした責任を問われたものの、セシリアを逃がし、その後の調査に全面的に協力したことが考慮された。
厳しい処罰は下されなかった。
そしてハルフォード家の領地財産は、セシリアが二十歳になるまで王家と管理人の共同監督下に置かれることになった。
分散して管理されている旧資産については、それまで従来の管理体制が維持される。
「結局、全部で何があるのかは教えてもらえないんですけど」
セシリアが不満を漏らすと、ヘンリーはいつもの調子で答えた。
「規則でございますので」
「私、一度死んだんですよ?」
「存じております」
「特例とか」
「ございません」
四か月後。
二十歳の誕生日を生きて迎えれば、分かる。
その条件だけは、事件の前と何も変わらなかった。
*
三日後、訂正版の新聞が出た。
宿で読んだものと同じ新聞社だった。
一面ではない。
三面の下の方に、小さな記事が載っている。
ローデン伯爵令嬢、生存を確認
先日の死亡報道については、事実確認に誤りがあったという。
セシリアは記事を最後まで読んだ。
それから、もう一度見出しを見る。
「誤りで済ませるのね」
向かいで紅茶を飲んでいたアーネストが顔を上げた。
「新聞だからな」
「私、一度死んだのに」
「生き返ったとも書けないだろう」
「もう少し大きく謝ってもいいと思いません?」
「紙面には限りがある」
セシリアは新聞を畳んだ。
「冷たいですね」
「今後はなるべく生きていてくれ」
「善処します」
「それは守らない人間の返事だと言ったはずだ」
セシリアは少し考えた。
「では、努力します」
「それならいい」
窓の外では、いつもと変わらない王都の朝が始まっていた。
死んだことになった間も、街は何も変わらず動いていた。
自分一人が消えても、世界は案外困らない。
そのことを少し寂しいと思い、同時に少し安心した。
そして新聞をもう一度開いた。
死亡記事より訂正記事の方が小さいことだけは、やはり気に入らなかった。




