第89話 見えない本命
さらに十日後。
尹怜の私邸は、前回と変わらぬ静けさに包まれていた。
外門から奥座敷へ至るまでの動線には余計な人の気配が徹底して排されていた。
庭に置かれた石や灯りの配置は変わらず整えられているが、その静謐さは前回よりも一段深く、訪れる者に不用意な発言をためらわせるような空気を含んでいる。
用意された茶はすでに湯気を失いかけており、わずかに温度を残すのみとなっている。
二人の間ではそれに手を伸ばす気配はまだなかった。
机の上には譲瓶に関する記録と、現地調査を担当した者たちの報告書が整然と並べられている。
紙の端の揃い方からも、報告書をまとめた紘範の几帳面さがうかがえる。
怜は腰を下ろすと同時に全体を一瞥し、資料の並び順と重ね方から、どの順で話が進められるかを瞬時に把握する。
「譲瓶は、やはり中間だな」
その言葉は低く落ち着いているが、すでに結論の一端に触れている響きを持っていた。
紘範は無言でうなずき、記録の一部を指先でなぞりながら、そこに残された痕跡を再確認する。
「急な発熱と全身の倦怠感は、北部と共通していると見てよいでしょう」
言葉は断定に近いが、完全には言い切らず、わずかな余地を残している。
「だが、呼吸が苦しくなる例は記されていない」
怜が補足しながら、別の報告書へ視線を移す。
「一部に嘔吐や下しの症状が出た者はいるが、それが命に直結した様子はない」
二人は同時に同じ箇所へ目を落とし、そこに書かれている内容だけでなく、書かれていない部分の意味を探る。
「隔離は徹底されていません」
紘範が静かに言い、記録の端に残された曖昧な記述を指で押さえる。
「塩を加えた湯冷ましも使われていない、ただの湯冷ましが与えられているだけです」
怜が続ける言葉には、わずかな違和が混じっていた。
紘範の眉がわずかに寄る。
「それでも収束しています」
その事実が、最も不可解だった。
「人口の一割が罹患し、およそ一万人に達している」
怜が数字を読み上げるように口にする。
「死亡者は八名であり、その内訳は幼い子供が五名、体力の衰えた高齢者が三名に限られている」
紘範は静かに頷く。
「死亡率は低いですね」
その言葉は短いが、そこに含まれる意味は重い。
同じ疫病と呼ぶには、あまりにも差がある。
「州羅は腹部の症状が主であり、譲瓶は発熱と倦怠感、北部は呼吸を奪っています」
紘範は整理するように言葉を並べる。
「それでも中央では一つの流行として扱われています」
怜の声には抑えた苛立ちがわずかに滲む。
「誰かがまとめているのか」
紘範が静かに言う。
「あるいは、誰も精査していないだけか」
怜が続けた。
しかしその後二人が考え込み、沈黙の時間が流れる。
その沈黙は重く、しかし思考を妨げるものではなく、むしろ整理を促すための時間として機能していた。
やがて怜が一枚の文書を差し出す。
「鏡咸からだ」
紘範はそれを受け取り、目を通しながら表情をわずかに引き締める。
「調査は難航しているが、ある一つの家から情報を得るため動いているとある」
「ある家か・・・・」
怜はゆっくりと息を吐く。
「記録に出てこない家だろう」
「その可能性は高いですね」
二人は視線を交わす。
州羅、譲瓶、そして鏡咸。
三つの地域は地理的にも連続しており、症状の変化もまた段階を踏むように繋がっている。
だが、その流れの中で鏡咸だけが、決定的な何かを隠しているように感じられた。
それは証拠ではなく、直感に近い。
しかし、その直感は無視できない強さを持っている。
翌日。
東宮殿。
世子は前回よりもさらに静かな表情で二人を迎え、その視線にはすでに結論の輪郭を捉えているかのような鋭さが宿っていた。
問いを発する前から、ある程度の答えを予測していることが、そのわずかな視線の動きからも読み取れる。
「報告せよ」
世子の短い一言が二人に向けて発せられる。
紘範が一歩前に出る。
「譲瓶の疫病について、記録および現地調査の結果を報告いたします」
発熱と倦怠感、嘔吐と下しという症状の組み合わせ、隔離の不徹底、塩を加えない湯冷ましの使用、そして罹患率と死亡率。
それらを順序立てて説明し、違和の所在を明確にしていく。
世子は途中で一度だけ目を伏せ、その情報を頭の中で組み直しているように見えた。
「北部とは明らかに違うな」
「はい」
怜が続ける。
「また鏡咸については調査が難航しておりますが、ある家から重要な情報が得られる可能性があるとの報告が入っております」
世子はしばらく考え込み、やがて静かに言葉を落とす。
「十日後か」
「はい、その情報を含め、弘文館校理の私邸で全体をすり合わせる予定です」
短い沈黙の後、怜が一歩だけ踏み込む。
「もしご都合が許すようでしたら、世子にもご同席いただければと」
世子の視線が二人を順に捉え、その奥で何かを測るように動く。
やがて口角がわずかに上がる。
「面白いところまで来たようだな」
その声は低く、確信に満ちていた。
「よい、私も聞こう、歯車がどこで噛み合わなかったのかを」
疫病はもはや単なる病ではなく、記録の歪みと人の判断、そして何らかの意図が重なった結果として現れている。
鏡咸という残された一角が、その全てを繋ぐ鍵になると、三人はそれぞれの形で確信し始めていた。
* * * *
東宮殿。
世子は独り、文机の前に座したまま微動だにせず、整然と並べられた記録の束を前にして、思考だけを静かに巡らせていた。
州羅の報告はすでに整理されており、記録の内容、症状の推移、収束までの経過、そのすべてが一つの流れとして無理なく繋がっている。
(あれは、おそらくノロだ)
腹部に現れる強い違和と痛み、繰り返される嘔吐と下し、それに伴う体力の急激な消耗という一連の流れは、過去の記憶と明確に重なっていた。
呼吸に関する異常が見られず、致死率も極めて低いまま推移している点からも、その性質は一致していると考えられる。
塩を加えた湯冷ましと隔離という対処のみで、約一か月ほどで収束したという記録もまた、その特徴と矛盾しない。
そして譲瓶。
(疫病ではない)
急激に始まる発熱と全身に広がる倦怠感は、確かに感染によるものと見えるが、その後の経過が決定的に異なっている。
一部に嘔吐や下しの症状は確認されるものの、それは主たるものではなく、重篤化する兆候も見られない。
呼吸が苦しくなる例は記録されておらず、多くは自然に軽快し、回復へ向かっている。
死亡者が出てはいるが、それは体力の衰えた者に限られており、全体の傾向としては致死性が極めて低い。
(インフルエンザB型)
そう整理すれば、すべての要素が矛盾なく収まる。
だが・・・・
北西部、鏡咸だけが明らかに異なる。
高熱に始まり、急激に進行する呼吸の悪化、腹部の異常、そしてほぼ確実に死へ至る経過。
それは、これまでの二例とは明確に線を引くべき性質を持っている。
(本命は、あそこだ)
記録の束から視線を外し、世子は静かに息を吐く。
報告を待つしかない時間が続いているが、いくら思考を重ねても新たな情報は増えず、同じ結論の周囲を巡るだけになる。
世子はゆっくりと立ち上がり、体のこわばりを感じながらも意識を切り替える。
(今は、動くときではない)
動かずに待つこともまた、必要な判断の一つであると理解している。
そのとき、無意識にある姿が脳裏に浮かぶ。
視線を合わせない女。
世子嬪。
世子はわずかに歩みの方向を変え、その居所へと向かう。
* * * *
世子嬪の居所。
通された部屋は変わらず簡素であり、余計な装飾もなく、気配すら意図的に薄められているように感じられる静けさが支配していた。
外の音もほとんど届かず、ここだけが切り離された空間のように保たれている。
世子は上座に座り、正面にいる世子嬪へ視線を向ける。
世子嬪は、変わらず視線を伏せたままであり、決して目を合わせようとはしない。
その姿には、かつて宮中で噂された激しさの片鱗は残っておらず、ただ静かに均衡を保つ存在としてそこにあった。
世子も世子嬪も互いに何も話さない。
ただ時間が過ぎるのを待つだけだ。
「疫病について」
世子嬪が先に口を開く。
「何か、進展はございましたか?」
その声音は穏やかでありながら、余計な感情を含まず、必要な範囲だけを問うものだった。
世子は一瞬だけ間を置き、言葉を選んでから答える。
「州羅と譲瓶の疫病は、症状が異なっていた」
世子嬪の指先が、わずかに動く。
「別のもの、だったと?」
「そうだ」
簡潔な肯定。
「州羅は腹部の症状が主であり、譲瓶は発熱と倦怠感が中心となっている」
世子嬪は、わずかに首を傾ける。
「症状を、もう少し詳しく教えていただけますか」
その問いは踏み込みすぎない範囲でありながら、確実に情報を引き出そうとする意図が感じられる。
世子は必要最小限だけを選び、余計な要素を削ぎ落として答える。
「州羅は嘔吐と下し、腹部の痛みが主であり、譲瓶は急な発熱と全身のだるさに加えて一部に吐き気がある」
それ以上は語らない。
世子嬪もまた、それ以上は追及しない。
ただ小さく頷き、言葉を受け止める。
「なるほど・・・・」
短い思考の間が流れる。
そして、世子嬪はふと別の話題へと移る。
「邸下」
「最近、頻繁にこちらへおいでですね」
世子は答えない。
その沈黙を否定と受け取るでもなく、世子嬪は静かに言葉を続ける。
「唐家のご令嬢の居所にも、たまには行かれてはいかがですか」
声は穏やかであり、そこに感情の揺れは含まれていない。
咎める意図も、嫉妬もなく、ただ事実としての提案が置かれる。
世子はその言葉を受け止め、しばらく黙ったまま考える。
(本当に、不思議な女だ)
政敵の娘であり、政略によって結ばれた妻であるにもかかわらず、こちらを縛ろうとする様子が一切見られない。
「必要があれば、行く」
それだけを答える。
世子嬪は、それ以上何も言わない。
再び沈黙が訪れる。
しかしその沈黙は重くはなく、互いに余計なものを持ち込まないことで保たれる均衡のようなものだった。
世子は静かに立ち上がる。
「今日は、これで」
「はい」
世子嬪は頭を下げる。
世子は部屋を出ながら、ふと考える。
(この女は、知っているのか、それとも知らぬふりをしているのか)
疫病の名も、病の正体も、そして自分の思考の流れすらも。
答えはまだ出ない。
だが一つだけ、確かな感覚が残る。
本命の報告が届いたとき、この女は再び何かを口にするはずだ。
その予感だけが、静かに胸の奥に残っていた。




