第8話 線がつながる
深夜二時を回っていた。
病理医局の灯りは、相変わらず消えない。
消える理由がない。
窓の外は完全に黒く、遠くの病棟の明かりだけが点々と浮かんでいる。
空調の低い唸りと、どこかのモニター音が一定の間隔で響く。
夜勤の足音も、今は途切れていた。
昼間なら絶えず人が出入りするこの部屋も、深夜になると別の場所のように静まる。
静かなのに、完全には眠らない。大学病院そのものが巨大な生き物のように、どこかで必ず誰かが起きている。
検体ラックの金属が蛍光灯を鈍く返し、未整理の報告書が机の端で小さな山になっていた。
今夜中に目を通すべき資料はまだ残っている。
PCR結果の追記、病理組織の確認、感染経路調査の補助資料。
本来ならそちらも処理しなければならない。
だが由梨の意識は、すべて一枚のモニターに固定されていた。
木暮由梨は、画面の前でほとんど瞬きもせず、データを見つめていた。
紙コップのコーヒーはとうに冷めている。
飲む気も起きない。
胃の奥が重い。だが眠気はなかった。
モニターの光だけが顔を白く照らしている。
その光の中で、自分の指先だけが妙に生々しく見えた。
キーボードに置いた手は止まったままなのに、頭の中だけが休まず動いている。
(また、同じ配列)
モニターに映るウイルスの遺伝子構造は、何度見ても古い。
新型ナロコウイルス。
RNAウイルス。
変異速度は異常に速い。
だが、その変異の方向が妙に一定だった。
通常なら、宿主に合わせて散るように変わる。
免疫を避け、複製効率を上げ、偶然に任せて枝分かれしていく。
だがこれは違う。
変わっているのに、どこか同じ場所へ戻っていく。
(自然進化じゃない)
それが、由梨の第一印象だった。
人工ウイルス。
誰かが作った。
最初はそう疑った。だが違う。
もし作為的なら、もっと効率的な構造になる。
感染性を高め、不要な配列は削る。
現代の設計なら、もっと露骨に合理的になる。
このウイルスは逆だった。
無駄に見える配列が残っている。
現代なら淘汰されるはずの繰り返し構造が、妙に頑固に残存していた。
まるで古い環境に適応したまま、少しずつ変わってきたように。
(作られたんじゃない。残ってきた)
由梨は過去データを呼び出す。
最初の感染報告。
患者の渡航歴。
(国内のみ)
海外渡航なし。
輸入感染ではない。
二例目。
三例目。
五例目。
(関連性、なし)
地域も接点もばらついている。
だが共通点が一つだけあった。
(発症までの潜伏期間が、異常に長い)
数週間。
長いものは数か月。
その間、無症状。
血液にも画像にも決定打がない。
炎症反応も弱い。
気づいた時には急速に肺が崩れる。
発症直前まで通常勤務していた患者もいた。
健康診断でも異常なしと判定され、その数日後に酸素投与が必要になる。
説明がつかない静かさだった。
まるで、身体のどこかで機会を待っている。
(待っているみたい)
由梨は椅子に深くもたれた。
眠気はない。
頭はむしろ冴えている。
(どこで、待ってた?)
環境中。
動物。
水系。
だが、どれも違う。
それなら抗体の痕跡がもっと出る。地域差も出る。だが何も出ない。
そこで、ふと一つの論文を思い出した。
数年前、感染症史の特集で読んだ古い研究。
ほとんど相手にされなかった論文。
「未知の感染症と歴史的流行病の相関」
当時は曖昧すぎると思った。
歴史記録に医学を当てはめすぎている、と。
だが今、指が勝手に検索欄へ向かう。
キーワードは、
「朝鮮」
「疫病」
「突然死」
表示されたのは古記録ばかりだった。
年代も曖昧。
症状も不正確。
だが。
(共通してる)
発熱。
咳。
呼吸不全。
数日は軽く見えた者が急に悪化する。
地方記録の中には、家ごとに数日遅れて倒れたと書かれたものもあった。
同時ではなく、少しずつ広がる。
由梨はそこに強く引っかかった。
背中を冷たいものが走った。
(似すぎてる)
もちろん偶然とも言える。
歴史記録は不正確だ。
だが、気になるのは症状だけではない。
由梨はウイルスの特定部位をさらに拡大した。
現代のウイルスではほとんど見ない古い繰り返し配列。
(古い)
進化の途中で削ぎ落とされるはずの部分が残っている。
(生き残ってきた?)
その考えが浮かんだ瞬間、手が止まった。
(鮮朝)
もしこのウイルスが、あの時代から、何らかの形で残っていたとしたら。
普通ならあり得ない。
だが由梨は病理医だった。
「あり得ない」を何度も顕微鏡の下で見てきた。
教科書どおりに壊れない組織。
理屈どおりに広がらない病変。
現実はときどき理論を裏切る。
誰かと話をした方がいいかも・・・。ふとそう思った。
気がつけば、足は医局に向いていた。
由梨は医局の扉を開ける。
ちょうどそのとき、デスクで小さな物音がした。
徳永も美奈も澤井もまだ、眠っている。
速水がやってきて、空いている席に座り机の上に顔を乗せて眠り込んだ。
四人全員の時間が止まっているように見えた。
(ここにいないみたい)
由梨はその考えを振り払った。
(今は、私の仕事)
再び解析室に戻り、ウイルス構造をさらに分解する。
薬剤反応シミュレーション。
そこで、一つの反応が引っかかった。
(反応点)
ある特定の化合物にだけ、ウイルス活性が落ちる。
現代薬ではない。
成分を重ねる。
どれも漢方由来だった。
(時代が、逆)
鮮朝時代に存在していた成分。
現代ではほとんど使われないものばかり。
(なぜ)
なぜ、その成分だけに脆い。
そこではじめて線が繋がった。
(このウイルス)
あの時代に抑えられていた。
完全には消えず、
どこかで眠り続け、
現代で目を覚ました。
そう考えると潜伏の長さも説明できる。
(だから、潜伏が長い)
環境が違いすぎるから。
由梨はゆっくり息を吐いた。
これは偶然ではない。
誰かが持ち込んだ。
あるいは、誰かが戻ってきた。
その瞬間、なぜか美奈の顔が浮かんだ。
(関係、ないはず)
だが胸の奥がざわつく。
最近の沈黙。
妙な視線。
説明しにくい違和感。
由梨は立ち上がり再び医局に向かった。
起こすべきかと思う。だが足が止まった。
彼らは深く眠っている。
起こす気になれなかった。
(まだ、言えない)
これは確信ではない。
仮説だ。
だが、正しすぎる仮説だった。
由梨は再び解析室へ戻る。
画面には、鮮朝時代の疫病記録と現代のウイルス構造が並んでいる。
本来なら交わらない二つ。
だが今、そのあいだに一本の線が見えた。
由梨は静かに呟く。
「行ったの?」
誰に向けた言葉でもない。
問いというより確認だった。
この世界が、もう一つの世界と繋がってしまった。
そのことだけは、はっきり分かる。
病理医・木暮由梨は、その夜、初めて、
病気ではなく、世界そのものを疑った。




