第83話 静謐の中に潜む違和感
東宮殿の奥、静まり返った書斎に、かすかな紙の擦れる音だけが残っていた。
書案の上には広げられたままの上奏文が置かれ、その文字列は整然としていた。
しかし、世子の意識にはほとんど届いていなかった。
疫病、新型ナルコラウイルス感染症。
北西部の鏡咸と譲瓶、そして南部の州や州羅で広がったその病は、すでに宮中でも話題になっている。
高熱と呼吸の苦しさに始まり、腹痛を伴い、やがて衰弱して死に至るという報告がいくつも重ねられていた。
隔離と塩を加えた湯冷ましによって症状が軽減したという報告も届いている。
しかし、それだけで説明がつくとは到底思えなかった。
記された文面は整っている。
そこには決定的に何かが欠けているように感じられた。
世子は視線を落としたまま、ゆっくりと息を吐き出した。
ここ数日、東宮に籠もり続け、あらゆる報告を読んだ。
医官や官吏の話を聞き、側近たちと議論を重ねてきた。
それでもなお、どこか腑に落ちない感覚が胸の奥に残り続けている。
思考を巡らせれば巡らせるほど、同じところに戻ってくる。
まるで見えない壁に囲まれているかのように、結論へ進むことができない。
そのことに、ようやく自分でも気づき始めていた。
一人で考え続けることには限界がある。
異なる視点を持つ者と話さなければ、この停滞は破れない。
そう理解していながら、誰に話すべきかという問いに答えが出ない。
弘文館校理は理に偏りすぎている。
理屈の枠から外れた現象を受け入れようとしない。
左副承旨は慎重であるがゆえに、確証のないことには踏み込まない。
結局は既存の判断にとどまる。
どちらも信頼に足る人物であることは疑いないが、今求めているのは別の何かであった。
世子はゆっくりと顔を上げ、遠くを見るように視線を漂わせた。
そのとき、脈絡もなく、ある人物の姿が脳裏に浮かび上がる。
世子嬪。
最近、その名を耳にすることがほとんどなくなっていた。
かつては宮中を騒がせる存在として噂が絶えなかったが、
その奇行は嘘のように鳴りを潜めている。
女官たちの間では、今も棒を振っているという話だけが細々と伝わっていた。
しかしそれも、人や物に当てることはなく、ただ静かに動かしているだけだという。
奇声を発することもなく、周囲を混乱させることもない。
その変化は改善とも言えるが、同時に奇妙でもあった。
かつての激しさを知る者にとって、その静けさは不自然に映る。
世子は無意識に眉を寄せた。
静かすぎるという感覚が、どうしても拭えない。
ふと、初夜の光景が蘇る。
膳を挟んで向かい合って座りながら、互いに一歩も踏み込まなかったあの時間。
恐れや羞恥といった感情とは異なる、どこか冷静な空気がそこにはあった。
相手の出方を探るような視線。
距離を測るような沈黙。
そして、世子との関係を望んでいないとしか思えない態度。
宮中に入ったばかりの若い女人が、
正室としての地位を与えられたにもかかわらず、
その恩恵を受け取ろうとしない。
未来も情も、当然のように拒むその姿は、理解しがたいものであった。
世子は静かに目を閉じた。
疫病について考えるのを一度やめ、思考の流れを切り替える。
世子嬪はこれまで、
奇行の象徴として扱われ、
矯正され、
監視される存在であった。
必要とあれば利用されることさえあったが、
それが宮中の秩序という名のもとに正当化されてきた。
しかしあの夜、目の前にいた民娥は、そのどの枠にも収まっていなかった。
ただ異質であり、同時に妙に理にかなっているようにも見えた。
彼女は何を考えているのか。
何を知っているのか。
あるいは、何もかもを拒んでいるだけなのか。
世子の中で、いくつもの問いが重なり合う。
そのどれにも明確な答えはないが、無視することもできなかった。
やがて世子はゆっくりと立ち上がった。
長く座り続けていたためか、足にわずかな重さを感じる。
書案の上の上奏文に一度だけ視線を落とし、すぐに背を向けた。
このまま文字を追い続けても、新しい答えは得られないと分かっている。
疫病のことも、宮中の動きも、そして自分の妻のことも、
すべてがどこかで繋がっているように思えた。
その糸口を見つけるためには、言葉を交わす必要がある。
世子は扉を開け、外へと足を踏み出した。
冷たい空気が頬に触れ、わずかに思考を引き締める。
向かう先は決まっている。
妻である世子嬪のもと。
静かすぎるあの女のもとへ。
歩みを進めるごとに、胸の奥でわずかな感情が揺れた。
それは不安とも警戒とも異なり、説明のつかない緊張と、かすかな期待が混ざったものだった。
世子はその感情に気づきながらも、意識の外へ押しやる。
今はただ、確かめることが先である。
長く伸びる外の道を進みながら、世子の思考は静かに研ぎ澄まされていった。




