第7話 何者でもないまま
目を覚ました瞬間、美奈はまず天井を見て、失望した。
(まだ、ここか)
白くない。
低い。
木目がある。
夢なら、もう少し雑に消えてくれればいいのに、と思う。
だが、視界は驚くほど鮮明だった。
身体を動かそうとして、わずかに力を抜いた。
(拘束、なし)
意外だった。
昨日あれだけ暴れたのだ。ここなら縛られていてもおかしくない。
だが、手足は自由。
ただし、周囲の空気が重い。
視線を横にやると、付人が二人。
微動だにせず、こちらを見ている。
(監視?)
美奈は、ゆっくりと上体を起こした。
急な動きはしない。
呼吸は整える。
医者としての癖が、勝手に働く。
(意識レベル、清明。めまい、なし。吐き気、なし)
昨日の疲労は残っているが、筋肉痛は想定より軽い。
この身体、基礎体力が意外に高い。
そのとき、障子の向こうから足音がした。
「御医にございます」
付人が、そう告げる。
(御医。。。)
医者。この世界の医者。
(さて)
美奈は、一つだけ方針を決めた。
医者には、医者で対応する。
扉が開き、年配の男が入ってきた。
白衣ではない。だが、清潔感はある。
手元の動きが落ち着いている。
(現場慣れしてる)
この時代の医者にしては、だ。
「お体の具合はいかがでしょうか」
丁寧な口調。
美奈は、少しだけ視線を泳がせ、曖昧に笑った。
「覚えて、いないの」
声を弱める。
子供っぽくなりすぎない程度。
「何かあったのかしら」
御医の眉が、ほんのわずかに動いた。
(反応、あり)
美奈は、内心で頷く。
(“記憶障害”は、この世界でも都合がいい)
「頭がぼうっとして」
こめかみを押さえる仕草。
「ここは・・・・どこ?」
御医は、しばし黙って彼女を観察した。
脈を取る。
瞳を見る。
舌を見せろ、という仕草。
(やることは、同じか)
美奈は、内心で皮肉を言いながらも、従った。
「外傷はございません」
御医は、淡々と言う。
「高熱もなし。脈も整っております」
「じゃあ、どうして」
「心因性でしょう」
即答。
(便利な言葉だな)
どの時代でも。
「しばらく、安静に」
それだけ告げると、御医は付人に目配せをし、すぐに部屋を出ていった。
(深追いしない)
それが、逆に怖い。
付人の一人が、水を差し出してくる。
「お飲みください」
美奈は、少しだけ逡巡し、口をつけた。
(毒はない)
舌がそう告げる。
飲み終えると、ふっと力を抜いた。
「ありがとう」
付人が、一瞬だけ驚いた顔をした。
(ん?)
この反応は一体どういうことだ?
本来の“金民娥”ではないということか。。。。
美奈は、すぐに視線を逸らし、拗ねたように横を向いた。
「放っておいて」
付人たちは、互いに目配せをする。
(よし、修正できた)
ほどなくして、付人が入れ替わった。
女官が静かに入ってくる。
年齢は五十前後。
顔に、隙がない。
(。。。。ラスボス枠)
美奈は、内心でそう判断した。
女官は、黙って彼女の前に座る。
「落ち着かれましたか」
問いかけは、柔らかい。しかし、目は一切笑っていない。
「うん」
美奈は、短く答えて黙る。
沈黙の時が流れる。
先に動いたのは、女官のほうだった。
「昨日のことは、覚えておられませんか」
(来た)
「あんまり」
嘘ではない。
“この世界での昨日”は、確かに覚えていない、いや正確に言えば、”知らない”だ。
女官は、頷いた。
「時折、そのようなことがございます」
含みのある言い方。
「姫様は」
言葉を選ぶ。
「気が強く、お考えを内に溜め込まれるお方ですから」
(気が強い、か)
それは、使える。
「私、どんなふうに思われているの?」
女官の目が、僅かに細くなる。
(踏み込んだな、と思ってる)
美奈は、あえて不安そうに続ける。
「みんな、私を怖がってる」
女官は、すぐには答えなかった。
この沈黙は――
探っている。
美奈も、同じことをしている。
(よし。対等)
「姫様は」
女官は、慎重に言葉を選ぶ。
「ご自分のお立場を、よくご存じでした」
(過去形)
「では今は?」
女官は、わずかに微笑む。
「今は、少し・・・・お疲れなのでしょう」
(逃げた)
美奈は、内心で評価を更新する。
(この人、全部は言わない)
だから、美奈も言わない。
「ここは、宮中?」
「はい」
「う〜ん・・・・私は、偉いの?」
女官は、息を詰めた。
一瞬。
「ええ。とても」
(確定)
美奈は、心の中で深く頷いた。
(王族、もしくはそれに準ずる)
だが、まだ分からない。
(どの位置か)
「外に出たいんだけど・・・・、だめ?」
女官の答えは、即座だった。
「なりません」
断定。
「今は」
付け加え。
(今は、ね)
美奈は、少しだけ笑った。
「・・・私、何か悪いことした?」
女官は、否定しない。
だが、肯定もしない。
「“目立つこと”をなさいました」
(政治的な言い方)
美奈は、理解した。
ここは、病院ではない。
裁判所でもない。
宮廷だ。
正しさではなく、目立ったかどうか。
(厄介)
女官は、立ち上がる。
「今は、休まれなさい」
「名前」
美奈は、ぽつりと聞いた。
「私の」
女官は、一瞬、逡巡した。
「金民娥様」
その名を聞いた瞬間、胸の奥がひやりとする。
(ああ)
昨日、護衛が呼んでいた名。
「ありがとう」
美奈は、そう言ってから、少しだけ間を置いた。
女官は、振り返らなかった。
だが、去り際に、静かに言った。
「姫様は、姫様であられます」
それだけ。
扉が閉まる。
美奈は、一人になった部屋で、深く息を吐いた。
(よし)
情報は、最低限だが、十分。
・自分は「金民娥」
・高い身分
・性格は悪かった
・昨日の騒動は、まだ“処理中”
そして何より。
(誰も、私が“違う”と断定していない)
それが、最大の収穫だった。
美奈は、布団に横になり、天井を見つめる。
(本気で演じなきゃ、殺される)
だが、ただ演じるだけでは足りない。
(情報を集めて、立ち位置を固める)
医者として。
生存者として。
――そして、敵に回されない存在として。
美奈は、静かに目を閉じた。
この世界で、
まだ何者でもない自分として。




