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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第6話 言葉にしない刃

承政院 左副承旨・尹怜が東宮殿を訪れたのは、日が完全に落ちる少し前だった。

空はまだ群青を残していたが、西の端にわずかな赤が滲み、昼と夜の境目がゆっくりと溶けている。


この時間を選んだのは偶然ではない。

政務が一段落し、日中の人の出入りが減り、夜の静けさが訪れる直前。


人の気が緩む。

だが完全には解けない。

昼の緊張がまだ身体に残り、思考だけが静まり始める時間。


言葉が、一番よく響く。


承政院で交わされる言葉は、多くが昼に使われる。

だが本当に相手の内側へ届く言葉は、むしろ夕刻に落ちる。


光が減ると、人は無意識に余計な防御を削る。

それを尹怜は知っていた。

疲労がある。しかし、感情が沈み耳だけが冴える。

だから彼は、重要な話ほど時間を選んだ。


世子邸の門前で名を告げると、案内はすでに整っていた。


予想どおり、世子は待っていた。


庭に面した一室。

障子の向こうに夜気が滲み、池の水面が薄く灯を返している。

灯りは控えめだった。

余計な明るさはない。

灯火が一つ、卓上に置かれ、その光だけが室内の輪郭を作っている。

余計な者は下がらせてあった。

扉の外に控える気配はあるが、耳を寄せる距離ではない。


(聞かせたくない話だな)


それだけで十分だった。


世子はすでに座についていた。

正面に向かい、姿勢は崩さず、だが昼間よりわずかに肩の力が落ちている。

疲れている。


当然だ。

昼の騒動のあと、表情を変えずに過ごした者ほど夜に疲れる。


「左副承旨。ご足労感謝する」


「恐れ入ります、邸下」


互いの礼は完璧だった。

角度。

間。

声量。

過不足なく、感情を含まない。


こういう時ほど、礼が先に刃になる。

崩せば隙になる。


座が整い、茶が運ばれる。

器が卓へ置かれる小さな音。

湯気が立つ。

最初の一口は、二人とも黙って口にした。

茶葉の香りだけが静かに広がる。

沈黙。

その沈黙を破ったのは世子だった。


「昼の件だが・・・」


それだけだった。

主語はない。名も出ない。誰のことかも言わない。

だが十分だった。


尹怜は湯呑を置き、わずかに視線を下げた。


「“昼の件”が、どの件を指すのかによります」


世子の口元がほんのわずかに歪む。

笑いではない。


(さすがだ)


逃げ道を最初から潰しに来る。

一つ言えば一つ返す。

余計な語を増やさせる。

左副承旨らしい。


「噂になっていないな」


「なっておりません」


間を置かない、迷いの無い、即答だった。


「抑えたのか」


「“抑える”ほどの事案ではございませんので」


否定でも肯定でもない。事実だけを置く。


その答えに、世子はわずかに目を細めた。


「あれほどの騒ぎだ。女官の一人や二人、口を滑らせてもおかしくない」


「口を滑らせるには、“語る内容”が曖昧すぎます」


尹怜は淡々と言う。


「見た者の多くは、“混乱した女”を見ました」


そこまで言って一呼吸置いた。


「護衛を倒したという事実は、理解されていません。」


世子はその言葉を反芻した。


理解されていない。


確かにそうだ。

目撃していても、人は理解できないものを正確に記憶しない。

あの場にいた女官たちは「走った」「暴れた」「倒れた」としか語れない。


問題は、どう倒したか。そこなのだ。


手首の角度。

体重移動。

急所の選び方。


あれは見慣れていない者には認識できない。


「錦城金氏は、何も言ってこない」


「当然でしょう」


尹怜はわずかに首を傾けた。


「説明できぬことは、沈黙で覆う。あの家の、いつもの手です」


世子の指が卓の上で止まる。


「説明できぬ、とは?」


「さて」


尹怜は視線を上げない。


「“できぬ”のか、“したくない”のか。そこまでは存じません」


その言い回しに、世子は思わず笑いそうになるのを堪えた。


(見事だ)


知らないとは言わない。

知っているとも言わない。

線を引く場所が正確すぎる。

左副承旨の言葉だ。


だが


「左副承旨は、どう見た?」


今度は逃げ道を与えない問いだった。

個人の見解を要求する。

役職の後ろへ隠れにくい。


尹怜はそこで初めて世子の目を見た。

呼吸をひとつする。

一呼吸分だけ間が空く。

その沈黙は、言葉を選んでいる沈黙だった。


「異質かと」


短い。あまりに短い。


「異質?」


「はい」


そこで止める。それ以上は広げない。

それでも世子は待った。

沈黙で続きを促す。


尹怜はややあって言葉を継いだ。


「この宮中には、多くの“異常”が存在します」


声は低い。


「癇癪。虚言。暴力。妄執」


一つずつ置く。


「閉じられた場所ゆえ、珍しくはありません」


そこでわずかに灯火が揺れた。


「しかし、あれは」


言葉が切れる。


世子は静かに促した。


「質が違う」


空気が一段張り詰めた。

庭の虫の音さえ遠くなる。


「具体的には?」


「具体化した瞬間に、噂になります」


きっぱりと言い切る。


「承政院の立場では、それは避けるべきです」


世子は茶を置く。


器の音が小さく響いた。


「では、個人として聞こう」


世子としてではなく。

一人の人間として。


「左副承旨・尹怜は、あの女をどう扱うべきだと考える?」


危険な問いだった。

答え方次第で立場が変わる。


尹怜はすぐには答えなかった。

代わりに静かに問う。


「邸下はあの女を、“人”として見ておられますか」


世子の眉がわずかに動いた。


「どういう意味だ」


「政略の駒としてではなく。金氏の娘としてでもなく」


尹怜の声は低い。


「意思を持つ存在として」


その言葉に、世子は否定できなかった。

だから沈黙した。


金民娥の目を思い出していた。

倒れる直前まで周囲を測っていた目。

怯えていない。

諦めてもいない。


その沈黙を、尹怜は肯定と受け取る。


「それが、危ういのです」


静かな断定だった。


「意思を持つ者は制御できません」

「特に、その意思が、我々の理解の外にある場合」


世子は視線を逸らす。

理解の外。

あの動き。

あの判断。

あの沈黙。

説明がつかない。


「切れ、と言うのか」


声が低くなる。


尹怜は首を振った。


「申しません」


即答だった。


「切るには、騒ぎが大きすぎる」


さらに一呼吸。


「守るには、危険が多すぎる」


世子は目を細めた。


「では?」


「距離を置く」


短い。


「見張り、記録し、判断を保留します」


それはあまりにも冷静で、あまりにも左副承旨らしい答えだった。


世子はふっと息を吐く。


「俺は、保留が嫌いだ」


尹怜の口元がわずかに動く。


「存じております」


「決めねばならぬ立場だからな」


「ええ」


尹怜は静かに頷く。

そして少しだけ声を低くした。


「だからこそ、申し上げます」


灯火の影が横顔を深くする。


「急がれますな」


世子ははっとして顔を上げた。

その目は冷静だった。

だが奥に明確な警告がある。


「決断とは、時に勇気ですが」


「時に・・・・破滅です」


沈黙の時間が流れる。

二人の間に夜が落ちる。

庭の闇が濃くなる。


世子はゆっくり立ち上がった。


「忠告、受け取ろう」


それだけ言う。


尹怜も立つ。


「それが、職分ですので」


互いに一礼。


扉へ向かう。


だが閉じる直前、世子が呼んだ。


「左副承旨」


「はい」


「あの女が、もし」


一瞬、言葉に詰まる。

珍しいことだった。


「もし、我々の想定を超える存在だとしたら?」


尹怜は振り返らなかった。

だが答えた。

静かに。

揺れずに。


「その時は」


灯火の向こうで声だけが残る。


「この国そのものが、試されるでしょう」


扉が閉じる。音は小さい。だが、その一音がやけに深く響いた。

世子は一人、暗い部屋に残された。


卓上の茶はまだ温かい。

だがもう手を伸ばさない。

言葉にしなかった刃が、確かに胸の内へ刺さっていた。

そしてその刃は、抜かなければ痛み続けると知りながら、

どこにも触れられない種類のものだった。

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