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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第50話 線の内側

ドタドタと足音が重なった。

廊下の向こうから一気に近づいてくる気配は、もはや隠す気もない。

次の瞬間、障子が勢いよく開く。


女官が数名、さらに付人たちがその後ろから雪崩れ込むように部屋へ入ってきた。

先頭の者は息を切らし、後ろの者は状況を見ようと背を伸ばしている。

顔に浮かぶものは一つではなかった。


焦り。

怯え。

そして、またかという半ば諦めたような疲れ。


この部屋から大きな音が響けば、まず悪い方を想像する。

それがすでに習慣になっているのだろう。


「お止めください」


「そのようなことをなさっては」


声が重なる。

慌てているのに、どこか決まりきった言葉でもある。

過去にも似た場面が何度もあったことを感じさせる響きだった。


だが、その目に映った光景は、彼女たちが思い描いていた惨状とは少し違っていた。


民娥は部屋の中央に立ち、棒を振り下ろした姿勢のまま止まっている。

だが、その位置はソヨンから十分に離れていた。

腕を伸ばしても届かない。

狙っていたとしても当たらない距離だ。


しかも振り下ろされた棒は床の手前で止まり、先端だけがわずかに揺れている。


一方のソヨンは床へ座り込んでいた。

腰を落とし、両手をついて、少し後ろへ体を引いた姿勢。

怯えた顔もよくできていた。

肩の震え方まで自然だ。


完璧だ、と民娥は内心で思う。


さきほど囁いた一言だけで、ここまで形を合わせてくるとは思わなかった。

恐怖が半分、本能が半分だろうが、それでも十分だった。


女官の一人が、反射でソヨンの方へ駆け寄ろうとする。

その足が一歩出たところで、民娥が低く声を落とした。


「止まりなさい」


低い。

だがそれだけで十分だった。


全員の動きがぴたりと止まる。

足を前へ出しかけた女官も、その場で固まる。


民娥は棒を床へ置かない。

握ったまま視線だけをゆっくり巡らせる。

一人ずつ射抜くように見てから、最後に先頭の女官へ止めた。


「何事?」


静かな声だった。

静かなのに圧がある。

怒鳴られるより、この静けさの方がよほど身を縮ませる。


女官たちは互いに顔を見合わせた。

誰が口を開くべきか迷っている。

答え方ひとつで火がつくと知っているからだ。


民娥はその沈黙を待たず、一歩前へ出る。

床板が小さく鳴る。


「まさか・・・・」


そこで声を一段だけ上げた。


「この子を、これで殴るとでも思ったの?」


言葉の最後で棒を軽く持ち上げる。

刀の鞘のような太さの木が視界に入るだけで、女官たちの顔色がさらに変わった。


次の瞬間、声を跳ね上げる。


「冗談じゃないわ」


怒声が部屋の空気を震わせた。


女官の一人が慌てて首を振る。


「い、いえ、そのような……ただ、音が」


「音? フッ」


民娥は鼻で笑う。

その笑いには冷たさだけを乗せる。


「音がしただけで押しかけてきて、中も確認せずに止めに入るの」


棒を軽く振る。

風を切るほどではない。

ただ全員の目に入るよう角度を変える。


「これで何度も人を殴ったらどうなるか、分かってるわよねぇ?」


誰も答えない。

答えられない。


だから民娥は自分で続けた。


「これなら、殴られた人は死ぬかもしれないわよ」


空気がさらに重くなる。

女官たちの喉が目に見えぬほど小さく動く。


民娥は間を置かず、さらに踏み込む。


「そんなことになったら・・・・」


棒の先をわずかに床へ向ける。


「ここにいる全員、義禁府行きよ」


その言葉が落ちた瞬間、空気が凍った。


義禁府(ウィグムブ)(※1)。

それだけで十分だった。


宮中で働く者にとって、その名は軽く口にされるものではない。

処分、取り調べ、責任追及。

それらが一気に現実味を持つ。


「私一人の問題じゃない」


言葉をゆっくり区切る。


「止めに入った者、騒ぎを広げた者、止められなかった者」


一人ずつ数えるように視線を移す。


「全員まとめて責任を問われる」


女官たちの顔から血の気が引いていく。

さきほどまでの勢いは完全に消えた。


ここでようやく、誰も軽々しく口を挟まなくなる。


思い込みで飛び込んできた自分たちの立場を、一瞬で逆転させられたからだ。


「そんなことになったら」


民娥はさらに一歩だけ近づく。


「誰が困るの?」


誰も答えない。

答えようとする者もいない。


答えれば、それだけでさらに言葉を重ねられると分かる。


沈黙。


その沈黙を十分に広げてから、民娥は短く息を吐いた。


「出て」


最初は小さく。

だが十分届く。


「は」


思わず漏れた声を、民娥は視線だけで止める。


「全員、出ていきなさい!」


今度は明確だった。


迷う余地を与えない言い方。


女官たちはもはや躊躇しない。

先頭の者がすぐに頭を下げ、後ろへ合図を送る。

付人たちも慌てて道を空ける。


一人、また一人と戸口へ下がり、部屋から退出していく。

さきほどの勢いとは逆に、今度は音を立てぬよう気を使っていた。


障子が閉じられる。


静けさが戻る。


さっきまでのざわめきが嘘のように消えた。


民娥はそこでようやく棒を壁際へ立てかける。


深く息を整える。

怒鳴った直後でも呼吸は乱れていない。

内側は最初から冷静だった。


そして、何事もなかったかのように声を落とした。


「至急」


戸の外にまだ控えていた付人の一人が反応する。

完全には去っていなかったらしい。


「茶と菓子を持ってきなさい」


「はい」


戸の向こうで小さく返事がし、小走りの足音が遠ざかる。


さっきまで義禁府の名で凍っていた空気とは思えないほど、次の指示は穏やかだった。


部屋に残ったのは民娥とソヨンだけになる。


ソヨンはまだ床に座ったままだった。

両手をついた姿勢から少しだけ体を起こし、小さく息を整えている。

額には汗。

髪の乱れもそのままだ。


だが先ほどまでの怯えた顔の奥に、少しだけ別の色が混じり始めていた。

ただ怖がるだけではない。

何が起きたのか、少しずつ考え始めている目だ。


民娥はその様子を視線だけで確認する。


恐怖は残っている。

だが壊れてはいない。


(線は越えていない)


内心でそう判断する。

追い込みすぎれば使えなくなる。

緩すぎれば空気を読まない。


今はそのぎりぎり内側だ。


(でも、内側ぎりぎり)


それでいい。

少し揺らし、少し安心させる。


その繰り返しで十分に形は整う。


民娥は立ったまま、壁際の棒へ一度だけ目をやる。

太さも重さも、今後使うにはちょうどいい。

見せるための道具としても、威圧には十分だった。


外ではもう茶の準備が始まっているだろう。

さっきまで騒ぎだった部屋へ茶と菓子を運ばせる。

その落差もまた印象に残る。


怒鳴り、脅し、追い出し、その直後に茶。

気まぐれで理不尽。

それが民娥として自然に見える。


民娥は静かに息を吐いた。


安全圏。


この器が長く保ってきた境界は、たぶんこのあたりだ。

理不尽であっても、越えすぎない。

傷つける直前で止める。

周囲に恐れられながらも、決定的な一線は越えない。


だからこそ、誰も完全には離れない。


民娥は床に座るソヨンを見下ろしながら、その境界線を静かに確かめていた。

(※1)義禁府(ウィグムブ):主に王命による特別事件を扱う部署。

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