第40話 限界点突破
巫女が、民娥の真正面へ静かに進み出たとき、その場の空気はさきほどまでとは明らかに質を変えていた。
左右に控えていた助手たちは一歩だけ後ろへ退き、王妃の前に伸びる線の中央が自然と空く。
その空いた場所を埋めるように巫女が立つ。
灯りは低い位置から揺れているのに、なぜかその影だけは長く床へ落ち、民娥の膝先まで伸びていた。
その手には細長い棒が握られている。
木か竹かは判別しづらい。
だが表面は磨かれていて、使い込まれていることだけは分かる。
先端には薄い布が巻かれており、香の煙をまとったせいでわずかに白く霞んで見えた。
祓いの道具なのだろうと頭では理解できても、縛られたまま正面に向けられれば、どう見ても安心できる形ではない。
巫女は何も言わない。
ただ、その棒をゆっくりと持ち上げる。
わざと見せるように。
持ち上げる速度が一定で、途中で止めもせず、こちらの目に焼きつけるような上げ方だった。
そのまま空を切る。
乾いた音が、室内に鋭く響く。
棒の先が空気を裂いた瞬間、香の煙がわずかに揺れた。
その音を聞いたところで、民娥の中にひとつの結論が落ちる。
あ、無理。
はっきりした限界だった。
精神論ではない。
我慢が足りないとか、覚悟が弱いとか、そういう話ではまったくない。
さきほど無理やり流し込まれた液体が、まだ喉にも舌にも、そして胃の入り口にも残っている。
飲み込まないように必死で耐えたつもりだった。
だが完全には防げなかった。
顎を押さえられ、口を開かされ、器を傾けられた以上、少しずつでも中へ入る。
その少しが最悪だった。
まず苦い。
これは最初の一撃として分かる。
薬草を煮詰めて濃縮したような、舌の根元へ直に刺さる苦味。
そのあとすぐ渋さが来る。
舌の表面を乾かしながら張りつくような渋さで、飲み込んでも消えない。
そこへさらに別の刺激が遅れて立ち上がる。
強烈な酸味だった。
果実の酸味ではない。
酢を煮詰めたような、尖った酸が喉の奥へ直接触れる。
しかも熱を帯びたように刺さる。
苦味と渋味に隠れていたものが、少し時間差で一気に広がる。
その瞬間、舌の横まで痺れる。
いわゆる丸薬の原液を煮詰め、そのうえで腐敗寸前の酸を足したような味だった。
良薬口に苦しという言葉を思い出しても、その説明では足りない。
苦しの中に、刺すような酸が混ざっている。
濃縮。
圧縮。
逃げ場なし。
無理無理無理〜〜〜。
頭の中で連続して浮かぶ。
喉が先に拒絶する。
胃が続く。
身体の中で、これは入れてはいけないものだと明確な拒否反応が起きる。
そこへ口の中に残していた菓子の赤い部分の甘さが、遅れて溶けた。
赤い餡の甘さが苦味と酸味に混じった瞬間、完全に均衡が崩れる。
耐えきれない。
前触れなく身体が前へ折れる。
縛られているせいで支えが効かず、膝を軸に上半身だけが落ちる。
そのまま一気に吐き出した。
濁った液体。
胃液。
そしてまだ残っていた赤い餡の塊。
床に散る赤。
灯りの下で、その赤だけが異様にはっきり見えた。
鮮やかすぎる。
濁った液体に混じることで、余計に血に見える。
その場の空気が完全に止まる。
誰もすぐには動かない。
見た目だけなら完全な吐血だった。
量も悪い。
色も悪い。
医学知識が反射的に頭をよぎる。
食道静脈瘤破裂に近い色だ、と脳が勝手に分類する。
もちろん粘度は違う。
だが灯りの下では十分すぎるほど紛らわしい。
これ、本物だったら一気に血圧落ちる。
ショック入る。
救命で最優先になるやつ。
本物ならかなり危ない。
そんな冷静な分類をする一方で、現実の身体はさらにえずく。
喉が焼ける。
酸味が戻る。
苦味の上に酸が逆流してきて、鼻の奥まで刺さる。
胃酸と混ざるせいでさらにひどい。
本当に吐きそう、ではなく、吐いたあとでもまだ止まらない。
肩が勝手に震える。
次のえずきが来る。
腹の奥が縮み、拘束された手首まで力が入る。
左右にいた助手たちの手が一瞬だけ緩む。
完全に想定外だったのだろう。
巫女の棒は空中で止まったまま動かない。
王妃も動かない。
だが視線だけは床の赤へ落ちている。
香の匂いに、吐瀉物の酸味が混じる。
最悪。
民娥は目を閉じかけて、閉じきらずに呼吸を探す。
鼻で吸えば香が刺さる。
口で吸えば酸が戻る。
涙が勝手ににじむ。
反射なのか、本当に涙なのか、自分でも判別できない。
胃の痙攣が続き、喉の内側はひりつき続ける。
苦味が消えない。
そのうえ酸味だけが何度も戻る。
舌の裏にも、歯の間にも、喉の奥にも残る。
少量でもこれだけきつい。
もし全部飲み込んでいたらと思うだけでぞっとする。
巫女の棒より、呪文より、いま一番はっきりしているのは体の拒絶だった。
この体は、あれを完全に異物と判断している。
祓いという名目でも関係ない。
生理的に無理なものは無理だ。
民娥は浅く呼吸を繰り返しながら、前髪の影越しに床を見る。
赤はまだ残っている。
菓子の餡だ。
だがここにいる者たちは知らない。
だからこそ沈黙が長く続く。
血かもしれないと見えた瞬間、人は動きを止める。
民娥は荒い呼吸を押し殺しながら、床に散った赤を見たまま、喉の奥に残る酸と苦味をゆっくり飲み込まないよう耐える。
そして、目を上げずに思う。
(……覚えていろよ)
胸の奥で、言葉だけが冷たく形になる。
(大妃も、王妃も、父上とやらも)
香の匂いが鼻を刺しても、その思考だけは濁らない。
(祓いの名で縛って、飲ませて、黙って見ている)
視界の端に、微動だにしない王妃の衣が映る。
(この虐待の恨みは、必ず返す)
怒りというより、記録だった。
熱ではなく、順番を決めるような静かな確認。
(忘れない。絶対に)
助手のひとりが布を取ろうとして半歩だけ足を動かす。
しかし王妃がわずかに指先を動かしただけで止まった。
まだ待てという意味なのだろう。
王妃の顔は変わらない。
だが明らかに観察している。
吐いた理由を見ている。
反応を測っている。
これ、祓いじゃない。
拷問だ。
少なくとも、縛って飲ませて、反応を見る段階で静かな祈りの範囲ではない。
香を焚き、唱え、液体を飲ませ、そして棒を振る。
何かを確かめるための流れがある。
喉の奥の酸がまた上がる。
次のえずきが来る。
だが今度は何も出ない。
胃の中がほとんど空だ。
空気だけが喉を擦る。
そのたびに酸だけが戻る。
肩で息をしながら、民娥は少しだけ顔を上げる。
巫女の棒はまだ下りない。
助手たちは迷っている。
王妃だけが静かだ。
香の煙が細く上へ伸び、夕方の光は障子の外でほとんど落ちていた。
室内の灯りだけが赤を濃く見せる。
民娥は涙で滲む視界のまま、その全員を順番に見る。
ここで倒れる気はない。
だが、これ以上従順に耐える気もない。
次にまた口へ何か入れられるなら、今度は確実に拒否する。
そう決めた瞬間、喉の奥からもう一度、強烈な酸味が焼けるように戻ってきた。




