第3話 沈黙する醜態
世子・龍義秀の姿をした徳永義秀は、夜明け前の沈黙が嫌いだった。
この世界に来てからどれほどほど経つだろうか?
一年にはならないが一年近くになる。
西京大学病院 救命救急センターの外科医、救命救急の要として働いていたはずが、気がつけばこんな時代に来てこんな姿をしている。
どんなに時間が経っても、頭も体も慣れない。特に夜明け前の沈黙が。
時折、この体の本来の持ち主の感情がふと湧いてくることがあったとしても、だ。
宮殿という場所は、本来、常に音に満ちている。
人の足音、衣擦れ、遠くの声。
誰かの意志と誰かの欲が、絶えずどこかで衝突し、軋み合っている。
それが突然、嘘のように静まる瞬間がある。
そういうとき、たいてい何かが水面下で動いている。
今朝がまさにそうだった。
世子は寝殿の一室で、低く息を吐いた。
昨夜から、何度目か分からない。
(静かすぎる)
昨日、昼日中に起きた出来事を思えば、この静寂は異様だった。
錦城金氏の長女、金民娥。
正室として迎え入れる予定の女が、寝巻き姿で宮中を駆け回り、護衛を次々と薙ぎ倒した。
それだけでも前代未聞だ。
だが問題はその「倒し方」だった。
剣を抜かず、殺さず、確実に相手を制圧する。
感情に任せた暴力ではない。確実に計算された動きだ。
(あれは・・・・)
世子は視線を落とした。
思い出そうとするほど、胸の奥がざわつく。
自分が積み上げてきた「世界の常識」が、静かに崩れていく感覚。
普通なら、今頃は噂で持ちきりのはずだ。
女官たちが囁き、官僚が眉をひそめ、政敵が好機とばかりに話を膨らませる。
だが。。。。
何もない。誰の口からも金民娥の名前出てこない。
(錦城金氏が、抑えている・・・・)
それ自体は不思議ではない。だが、その手際が良すぎるのだ。
まるで最初から、この事態を想定していたかのように。
世子は、無意識のうちに拳を握りしめていた。
(いや、違う)
錦城金氏は、金民娥を“飾り”として育ててきた。
宮中に入ってきた女は気位が高く、我儘で、学も武もないかのように振る舞っていた。
政略結婚のための道具。
そんな娘が、あの動きを見せるなど、想定できるはずがない。
では、なぜ黙っている?
騒げば、困るからだ。
答えは単純だった。
騒げば、錦城金氏自身が説明を求められる。
「なぜ、あのような娘を世子嬪(正室)に?」と。
説明できないから、沈黙する。
噂を殺し、証言を潰し、記憶を曖昧にする。
(フッ、相変わらず、汚いやり方だ)
だが、それ以上に気にかかるのは、金民娥本人だった。
世子は彼女の部屋を思い浮かべる。
昨夜、連れ戻された後、完全に隔離された空間。
目覚めたという報告は、まだない。
(眠っている、か)
それも、奇妙だった。
あれほど暴れ、走り回り、護衛を倒した女が、そのまま眠り続けるだろうか。
いや、そもそも、あの女は「金民娥」なのか。
世子は喉の奥が乾くのを感じた。
この体の本来の持ち主は、幼い頃から彼女を知っているようだ。
少なくとも”知っていると思っていた”模様だ。
人当たりがよく穏やかで、誰に対しても分け隔てなく平等に接する女だった。
当たり前のように、誰からも慕われていた。
この体の持ち主は、政敵の娘ではあるが、金民娥に淡い恋心を抱いていたようだ。
時折この体の持ち主が、記憶と感情を義秀の意識に訴えかける。
ところが宮中に入ってからは、まるで人が入れ替わったかのように、癇癪持ちで、気に入らぬことがあれば泣き叫び、侍女に当たり散らす。
人の視線を恐れず、立場を盾に振る舞う。
だが昨日見た姿はそのような態度とは一切重ならない。
恐怖がない。
混乱はあるが、判断は極めて冷静。
そして何より。。。。目が、違った。
(獲物を見る目じゃない・・・・)
あれは、状況を測る者の目だ。
生き残るために、最善を選び続けてきた者の視線。
世子は、自嘲気味に息を吐いた。
(馬鹿な)
そんな人間が、錦城金氏の温室で育つはずがない。
考えすぎだ。
そう言い聞かせようとするが、胸の奥の違和感は消えなかった。
そこへ、内官が静かに入ってきた。
「世子邸下。錦城金氏より文が届いております。」
世子は、目を細める。
来たか。。。。
文面は、驚くほど事務的だった。
金民娥の体調不良。
一時的な錯乱。
婚礼日程への影響は最小限にする。
詫びも、説明もない。
ただ「問題は存在しない」と言わんばかりの文章。
(フッ、相変わらず傲慢だな・・・・)
だが、世子は表情を崩さない。
「承知したと伝えよ」
内官が下がる。
部屋に、再び静寂が戻った。
世子は、ゆっくりと立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
宮殿の屋根が、朝の光を反射している。
(問題がないわけがない)
昨日自分はあの現場にいた。
そして自分のこの目で見た。
弘文館 校理が息を呑む姿と、左副承旨の冷ややかな沈黙を装った態度もこの目で見ていた。
誰も何も言わない、言おうとしない。
しかし、全員が「おかしい」と感じている。
(これは、好機か)
思考が自然と政治の方へ傾く。
錦城金氏が沈黙するということは、主導権を一時的に手放しているということだ。
触れれば、向こうは守りに入らざるを得ない。
だが。。。。
世子は、ふと、自分の考えに違和感を覚えた。
(なぜ、俺は“利用する”ことを考えている)
本来なら、警戒すべき対象は錦城金氏だ。
だが、今、頭から離れないのは、金民娥その人。
(危険なのは、どちらだ?)
答えは出ない。
ただ一つ確かなのは、昨日までの均衡が崩れたという事実だった。
金民娥が何者であれ、錦城金氏が何を隠そうと、世界は、もう元には戻らない。
世子は、決意する。
監視を強めろ。
だが、表立って触れるな。
あの女が、び目を覚ましたとき、何をして、何を言い、何を見ているのか、それを知るまでは。
夜明けの光が、ゆっくりと宮殿を満たしていく。
沈黙の裏で、歯車は確実に回り始めていた。




