第2話 理解しすぎる者、疑い続ける者
昼の騒動が、表向きには「なかったこと」になりつつある時間帯だった。
世子は、東宮殿の奥にある小さな庭に立っていた。
ここは意図的に人払いがしやすい。だが完全な密室でもない。
“何かを話すが、何も決めない”には都合がいい。
足音が近づく。
「邸下」
弘文館 校理 朴紘範だった。
「呼び立ててすまない」
「いえ。ちょうど、頭を整理したいと思っていたところです」
紘範の声は落ち着いている。
いつも通りだ。
それが、世子には引っかかる。
「昼の件、見ていたな」
世子は、正面から切り出した。
「ええ」
紘範は否定しない。
「かなり、近くで」
「どう思った?」
紘範は、一瞬だけ視線を庭の石畳に落とした。
ほんの一瞬。
だが、世子は見逃さなかった。
「“異常”ですね」
慎重な言葉。
「ただし、宮中で起きうる範囲の、とは言えませんが」
「曖昧だな」
世子は、あえて言う。
紘範は、少しだけ口角を上げた。
「曖昧でない言葉は、今は危険です」
(やはり、そう来るか)
世子は、内心で頷いた。
「では、危険でない範囲で聞こう」
少し間を置く。
「お前は、あの動きを“理解”できたか?」
紘範の眉が、わずかに動いた。
「理解、ですか」
言葉を反芻するように、ゆっくりと繰り返す。
「理屈として、なら」
世子の視線が鋭くなる。
「ほう」
「武を教えられた可能性。あるいは、隠していた可能性。どれも、成立はします」
「本気で言っているか?」
世子の声が、低くなった。
紘範は、しばらく黙っていた。
沈黙が二人の間に落ちる。
「邸下」
やがて、紘範が口を開く。
「“成立する”というのは、“真実だ”という意味ではありません」
「だが、“納得できる”という意味ではあるな」
鋭い指摘。
紘範は、否定しなかった。
「ええ」
世子は、深く息を吸う。
「それが、俺には不気味だ」
率直な言葉だった。
「私は、納得できませんでした」
紘範は、ゆっくりと世子を見る。
「どういう意味で?」
「理屈を当てはめる前に、拒否感が来ました」
世子は、胸に手を当てる。
「“これは違う”と、身体が先に言った?」
紘範の喉が、わずかに動いた。
(来るな)
そう思った自分に、気づく。
「それは・・・・直感、ですか」
「そうだ」
世子は、はっきりと言った。
「そして、俺は自分の直感を、信じている」
紘範は、苦笑にも似た表情を浮かべる。
「それは、邸下の強さでもあり、危うさでもあります」
「そう言われると思った」
世子は、むしろ安堵したように言った。
「だが、お前は違うな」
紘範は、返事をしない。
「お前は、“理解できる形”に落とし込んだ」
世子は、一歩踏み込む。
「それは、楽なんじゃないか?」
空気が、微かに張り詰める。
「楽、という表現は」
「間違っているか?」
世子は、視線を逸らさない。
紘範は、しばらく黙り込んだ。
そして、静かに言う。
「ええ。楽です」
世子の眉が、わずかに上がる。
「正直だな」
「嘘をつく理由がありません」
紘範の声は、静かだった。
「理解できないものを、理解できる形にする。そうすれば、世界は揺れません」
「だが、それは」
「はい」
紘範は、言葉を引き取った。
「“見ない”という選択でもあります」
世子は、息を吐く。
「お前が、そんな選択をする男だとは思っていなかった」
その言葉は、責めではなかった。確認だ。
紘範は、少しだけ目を伏せる。
「私も、そう思っていました」
「?」
「ですが」
顔を上げる。
「ここでは、それが“正解”になりやすい」
世子は、その意味を理解してしまう。
宮中。
政治。
理屈が通る者が、生き残る世界。
「お前、どこまで来ている?」
世子は、低く尋ねた。
「“こちら側”に、どこまで足を踏み入れている?」
紘範は、答えない。
答えられないのではない。
答えれば、戻れなくなるからだ。
「邸下」
代わりに、問いを返す。
「邸下は、あの女をどうするおつもりですか」
世子は、即答しなかった。
「まだ、決めていない」
「それが、危険です」
紘範の声が、少しだけ強くなる。
「決めないまま、見る。それは、情が入りやすくなります」
「情?」
世子は、眉をひそめる。
「俺が、あの女に?」
「可能性の話です」
紘範は、慎重に言う。
「彼女は、分かりやすく“外”にいます。邸下のような方は、そういう存在を・・・・」
言葉を切る。
「放っておけません」
世子は、否定できなかった。
「だから、聞いた」
世子は、静かに言う。
「お前は、どうする?」
紘範は、少しだけ考えた。
「距離を取ります」
即答だった。
「理解し、分類し、必要なら排除する」
世子の目が、細くなる。
「冷たいな」
「合理的です」
「それで、後悔しないか?」
紘範は、少しだけ笑った。
だが、それはどこか、乾いている。
「後悔は、理解できる形にできます」
世子は、目を閉じた。
(ああ・・・・)
この男は、すでに一歩、向こう側にいる。
「校理」
「もし、俺が“理解できないまま”動いたら?」
紘範は、真っ直ぐ世子を見る。
「その時は」
静かな声。
「私は、止めます」
世子は、薄く笑った。
「それは、俺の味方としてか?」
「秩序の側としてです」
はっきりとした答え。
二人の間に、再び沈黙が落ちる。
昼の光が、少しずつ傾いていく。
世子は、ゆっくりと背を向けた。
「今日は、ここまでにしよう」
「賢明な判断です」
紘範は、一礼する。
背後で、足音が遠ざかる。
世子は、一人、庭に残された。
(味方だと思っていた)
今も、そうか。。。。だが。
(同じ場所に立っているとは、限らない)
昼の事件は、まだ終わっていない。
ただ、形を変えただけだ。
それぞれの“理解”の仕方が、
静かに、分岐を始めていた。




