第27話 眠りの許可
父からの伝言だという。
その言葉を聞いた瞬間、民娥はわずかに眉を動かした。
表情が変わったと言えるほどではない。
けれど、静かな部屋の中ではそのわずかな動きだけでも自分でははっきり分かった。
伝えに来たのは女官ではなかった。
いつもこうした細かな伝達を担う女官ではなく、付き従う者のひとりだった。
それだけで意味がある。
父自身が言うほどではない。
けれど軽くもない。
重要ではあるが、急を要する話ではない。
だから、あえて間に一人置かれている。
民娥はその距離の取り方をすぐに理解した。
付き人は必要以上に目を上げず、整えられた声で言った。
「大妃様の許可が出るまで、外出は禁止とのことです」
言い方は淡々としていた。
命令を読み上げるだけの調子で、そこに個人的な感想は混じっていない。
民娥は何も言わずに一度だけ頷く。
当然だった。
奇行があった。
池への転落もあった。
そして今夜にはお祓いが控えている。
その前に自由に動ける理由などない。
もし自分が逆の立場でも、そう判断する。
「承知しました」
声は落ち着いていた。
わざと整えたわけではない。
今はもう、こういう返答が自然に出る。
付き人は、その一言を聞いたあとでわずかに肩の力を抜いた。
安堵したのだろう。
何か反発されるかもしれないと身構えていたのが、その緩みでわかる。
一礼し、足音を抑えて部屋を出る。
扉が閉まる。
その音が消えると、部屋にはまた静寂だけが残った。
民娥はそのまま座っていた。
姿勢を崩さず、膝の上の手もそのまま。
そして一つ、ゆっくり息を吐く。
外出禁止。
言葉だけを頭の中で転がしてみる。
不自由ではある。
けれど、不利ではない。
今の自分が無理に動く必要はない。
むしろ、動かないほうがいい。
今日一日だけでも情報はかなり増えた。
父との距離。
大妃との距離。
過去の自分。
一度だけ口にした願い。
そして今夜行われる形式としてのお祓い。
ここでさらに余計な動きを増やせば、輪郭が濃くなりすぎる。
静かにしていろと言われた直後でもある。
今は従うほうが自然だった。
そう判断した瞬間、急に眠気が押し寄せた。
何の前触れもなく、波のように。
民娥は一瞬だけ目を閉じる。
あ、と思う。
抗えない種類の眠気だった。
まぶたが重い。
頭の奥が静かに沈んでいく。
思考が一つずつゆっくり溶ける。
ついさっきまで整理していた考えも、言葉の輪郭を失っていく。
緊張が切れたからかもしれない。
父が去り、次の行動も制限され、今は何も選ばなくていいと体が判断したのかもしれない。
あるいは、この体そのものが限界に近かったのか。
池への転落。
目覚めてからの違和感。
今日一日の緊張。
見えない疲労はかなり積もっている。
「少し、休む」
誰にともなく呟く。
声は自分でも驚くほど小さかった。
そのまま横になる。
衣を乱しすぎないようにという意識さえ途中で薄れる。
深く考える前に意識が落ちた。
まるで、ようやく許可を得たかのように。
沈む。
音もなく。
暗さもなく。
ただ、すっと下へ引かれていく。
* * *
西京大学病院。
救命救急医局。
照明は半分ほど落とされていた。
深夜とも早朝とも言いきれない時間帯特有の、どこか中途半端な静けさがある。
夜勤明けの空気だった。
忙しさが一度途切れ、けれど完全な朝にもなっていない。
誰もが疲れているのに、まだ完全には気を抜けない。
そんな時間にだけ漂う独特の温度。
徳永義秀は今日もまた椅子に深く座ったまま、深く眠っていた。
眠るというより、落ちている。
そんな感じだ。
首はわずかに傾き、白衣の襟元は少し乱れている。
片手は膝の上に置いたまま、完全には脱力していない。
すぐに呼ばれれば起きられる姿勢だった。
隣では澤井紘範も同じだった。
腕を組んだまま、椅子に背を預け、眉間にわずかな皺を寄せている。
こちらも深く眠っている。
眠りに落ちても、どこかで意識が表面に残っている。
救急の医局では珍しい眠り方だ。
「最近、よく寝れる」
澤井がぼそりと呟く。
独り言に近い声だった。
徳永は目を開けない。
だが返事をしないまま、そのまま少しだけ顎を動かした。
その少し離れたソファで、高蔵美奈が目を覚ました。
目を開けた瞬間、最初に出たのは自然な息だった。
「よく寝た」
久しぶりに、心からそう思えた。
深く眠った感覚がある。
頭が軽い。
視界がすっきりしている。
ここ数日のような重さがない。
体を伸ばし、肩を回す。
筋肉が自然にほどける。
大きく息を吸う。
肺の奥まで空気が入る感覚が心地よかった。
そのときだった。
違和感に気づく。
右手に何かある。
握っている。
無意識のまま掴んでいたらしい。
美奈は視線を落とす。
右手の中には、雑草の束があった。
無造作にまとめられた草。
形は整っていない。
その中に、小さな花が四輪だけ混じっている。
色は淡く、野にあるような花だった。
きれいに束ねた花束ではない。
誰かが急いで摘んで、そのまままとめたような形。
「何これ」
思わず声が出た。
寝起きの感覚が一気に引く。
誰かに持たされた記憶はない。
寝る前には手ぶらだったはずだ。
医局で雑草を握って眠る理由もない。
誰かのいたずらかと思ったが、そういう空気でもない
夢の名残。
そんな言葉が頭をよぎる。
「夢、見たんだっけ」
記憶を探る。
だが、輪郭が曖昧だった。
何か見ていた気はする。
遠くに光があったような。
静かな場所にいたような。
誰かの声があったような。
けれど、はっきりしない。
掴めるのは胸の奥に残った妙な感触だけだった。
言葉にできない感覚。
現実に触れたようで、現実ではない何か。
そのとき、医局の扉が開いた。
「あ・・・・」
入ってきたのは木暮由梨だった。
白衣のまま。
髪は軽くまとめてあるが、疲れが顔に出ている。
夜をまたいだ勤務のあとらしい目元だった。
「皆さん、起きてました?」
声はいつもより少し低い。
徳永がようやく目を開ける。
澤井も腕を解く。
その視線が自然に美奈へ向く。
そしてすぐに止まる。
美奈の右手だ。
木暮も同じだった。
入ってきた瞬間、視線がそこで止まった。
「それ、何?」
美奈は自分の手を見る。
もう一度首を傾げる。
「分かんない」
本当にわからない。
夢なのか。
現実なのか。
誰かが持たせたのか。
自分でどこかから持ってきたのか。
説明できる記憶がない。
それでも、不思議と離す気にならなかった。
ただの草なのに。
捨ててもいいはずなのに。
指が自然に少し握り直してしまう。
花は小さい。
それでも確かに生きた匂いがした。
医局の空気が静かに揺れる。
誰もすぐには言葉を続けない。
疲れた朝のはずなのに、その雑草の束だけが場の中心にあるようだった。
徳永が目を細める。
澤井はまだ半分眠そうな顔のまま、美奈の手元を見る。
木暮だけが立ったまま動かない。
医局の時計の秒針だけが小さく進む。
説明のないものがひとつあるだけで、空気は簡単に変わる。
美奈はもう一度、草の束を見る。
胸の奥に残る曖昧な感触だけが、なぜか消えなかった。




