第24話 動かぬ背
扉が閉まった。
そう思った。
父の気配は外へ出ていき、部屋にはようやく自分一人の空気が戻るはずだった。
張りつめていた空気も少しは緩み、今夜のことを整理する時間ができる。
少なくとも民娥は、そう受け取っていた。
だが、完全な静寂が訪れる前に、わずかな衣擦れの音が耳に届く。
それは遠ざかる音ではなかった。
逆に、こちらへ戻る音だった。
民娥は視線を上げる。
父が戻ってきていた。
何か忘れ物をしたような慌てた動きではない。
まるで最初からそこまでが一連の流れだったかのように、何事もなかった顔で再び部屋へ入り直してくる。
扉を背にして一歩進み、そのまま迷いなく床へ座る。
最初と同じ位置。
卓を挟む距離も変わらない。
背筋の角度も、手の置き方も、ほとんど先ほどと同じだった。
まるで時間だけを一度切り離し、続きをそのまま再生したような感覚だった。
民娥は驚かなかった。
少なくとも表には出さない。
この男なら、そういうこともする。
言葉を切ったあとで戻る。
必要があれば、一度終わった形を平然とやり直す。
そういう人間なのだと、今日だけでも十分理解し始めていた。
まだ終わっていなかった。
民娥はそう判断する。
父はすぐには民娥を見なかった。
視線は真正面ではなく、少しだけ宙を切るように置かれている。
だが、無関心ではない。
言葉を置く前の、位置を測るような静けさだった。
「この機会に」
低く、淡々とした声だった。
先ほどのお祓いの話と同じく、余計な感情の起伏はない。
「直せばいいと思っている点が、いくつかある」
民娥はその言葉を静かに受け取る。
直せばいい。
改めろではない。
反省しろでもない。
もっとも近いのは修正だ。
何か不具合のある部分を確認し、必要なら整える。
そういう言い方だった。
まるで欠陥のある設計図の線を一本引き直すような声音だった。
そこに怒りも失望もない。
だからこそ、この男らしい。
民娥は黙って聞く。
「まず、声を荒げるな」
最初の一つは予想通りだった。
今朝から何度も聞いてきたことと重なる。
声を荒げることは、この家では最も目立つ欠点として扱われるのだろう。
感情が形になって外へ出る。
それが許容されにくい。
「感情を見せるな」
続く。
やはりそう来る。
怒るなではない。
感情を持つなでもない。
見せるな。
つまり、内側にあるもの自体には興味がない。
見える形だけが問題になる。
民娥はその言葉を心の中で整理する。
「必要以上に、人を傷つけるな」
ここでわずかに引っかかる。
必要以上に。
傷つけるな、ではない。
その言い方はつまり、必要なら傷つけること自体は否定していないということだ。
父にとって問題なのは、人を傷つける行為そのものではなく、その効率なのだろう。
過剰かどうか。
不要かどうか。
その線だけを見ている。
民娥はその感覚を冷静に受け取る。
冷たいが、整っている。
この男の基準はいつも外側の機能にある。
「物を投げるな」
短い。
「手を上げるな」
さらに続く。
「場を選べ」
最後も短い。
一文ずつ。
余白のない言葉だった。
説教ではない。
過去を振り返る語りもない。
なぜいけないかという説明もない。
ただ箇条書きのように並ぶ。
やるな。
見せるな。
選べ。
必要な部分だけが切り出される。
民娥は一つひとつを心の中で並べていく。
そこに期待は感じない。
できるかどうかを見ているわけではない。
今ここで改善を約束させたいわけでもない。
やるかどうかも、実のところ大きな関心ではないのだろう。
ただ、不具合だから伝えた。
それだけだ。
配置してあるものに問題点があるなら、知らせる。
直すなら直せばいい。
直らなくても、それはまた別の判断になる。
その程度の温度だ。
「以上だ」
父はそこで言葉を止めた。
本当にそれだけだった。
理由もない。
背景もない。
昔のことも持ち出さない。
なぜ今それを言うのかさえ説明しない。
言うべきだから言った。
その形だけが残る。
沈黙が再び落ちる。
今度の沈黙は先ほどとは少し違った。
先ほどは観察の沈黙だった。
だが今は、言うことは言った、という区切りの沈黙だった。
これ以上はない。
あとはどうでもいい。
そういう空気がある。
民娥は視線を伏せたまま、静かに呼吸する。
父が立ち上がろうとする気配があった。
衣がわずかに動く。
床へかかる重心が変わる。
その変化を、民娥は逃さなかった。
「父上」
声を出す。
父の動きが止まる。
ほんの一瞬だけ。
それでも十分だった。
その一瞬で、こちらが何かを言おうとしていることは伝わる。
民娥は続けようとする。
だが、すぐには言わない。
勢いのまま続ければ、それは衝動になる。
衝動は、たった今修正対象として並べられたばかりだ。
一呼吸置く。
その一呼吸が必要だった。
父は振り返らない。
だが完全には立ち上がらない。
背中だけがそこにある。
動かない背中。
呼吸も読みにくい。
待っているのか。
それとも、言うなら言えという意味か。
民娥は口を開きかける。
願いがある。
本来なら、そう続くはずだった。
何か一つだけ、言ってみようかという考えがあった。
けれど、その言葉が喉の奥で止まる。
なぜ止まったのか、自分でもすぐには説明できない。
言えば何かが変わる気もする。
だが、何が変わるのかが見えない。
ここで願いを言うことは、この男に対して何かを差し出すことになる。
それが得策かどうかを、一瞬で測ってしまった。
沈黙が二人の間に張りつめる。
父は何も言わない。
促しもしない。
問い返しもしない。
民娥も続けない。
言葉になる前の願いだけが、胸の奥で形を持たないまま残る。
もし口にするなら、何を言うのか。
それすら完全には決まっていなかった。
知りたいことか。
求めることか。
確かめたい何かか。
けれど、どれも今この場では輪郭が弱い。
だから出せない。
父の背中は動かない。
待っているのかどうかすら分からない。
ただ、その場にある。
言葉にならない願いと、言葉を求めない沈黙。
その二つがぶつからないまま、時間だけが細く伸びていく。
灯りがわずかに揺れた。
その小さな揺れだけが、部屋の中で唯一動いているもののように見える。
民娥は息を吸う。
だが続けない。
父も何も言わない。
願いが言葉になる直前、その手前の一拍。
そこだけが、妙に長く感じられた。
時間はそこで止まったようだった。




