第1話 青い水の中にいた女、護衛をなぎ倒す
青い。
真っ青だ。
ただ、青い。
高蔵美奈は、自分がどこにいるのか分からなかった。
上下の感覚も、重力の有無も曖昧で、身体が沈んでいるのか浮いているのかさえ判断できない。
水中にいるような気もするが、息苦しさはない。
溺れているはずなのに、肺は静かで、心臓の鼓動も穏やかだった。
深く、深く。
どこまでも青い場所。
色は綺麗。。。。
ああ、久しぶりによく寝た。
そう思った瞬間、世界が裏返ったような感覚がした。
視界が一気に明るくなり、美奈は反射的に息を吸い込んだ。
身体が、確かに「ここ」にある。
「んっ」
ゆっくりと目を開ける。
天井が見えた。だが、それは見慣れた病院の白ではない。木組みの梁、柔らかい色合いの装飾。
(なに、ここ)
美奈は気持ちよさの残る身体を伸ばし、上半身を起こした。
その瞬間、違和感が一気に押し寄せる。
静かすぎる。
音が違う。
匂いが違う。
時間の流れ方が違う。
驚いて周囲を見回し、息を呑んだ。
「は?」
ありえない。
どう見ても、時代が違う。
即座に脳裏に浮かんだのは、夢、撮影現場、あるいは悪趣味なテーマパークだった。
しかし夢は却下。
視界はクリアだし、感覚がリアルすぎる。
自分が女優になった? ドッキリ? それにしては状況を説明する係がいない。
台本も渡されていないし、カメラが回っている気配もない。
(セリフ、なに? え、なにを言えばいいの?)
答えは出ない。
出るはずもない。
美奈は勢いよく立ち上がり、襖のような戸を開けた。
美奈が知らない世界が、そこにあった。
人々がいる。
奇妙な衣服。結い上げられた髪。木造の建物。
どこを切り取っても、現代ではない。
背筋が、ぞくりとした。
「ちょ、ちょっと・・・・・無理無理無理」
考えるより先に、身体が動いた。
美奈は速足で歩き出した。
そして自然に走り出していた。
理由は単純だった。
分からない場所では、立ち止まるのが一番危険だ。
「お、お待ちください!」
「どちらへ行かれるのです!」
背後から、甲高い声が飛ぶ。
振り返らない。
「 走ってはなりません!」
走るなと言われて、走らない理由がない。
美奈は方向感覚を失いながら回廊を駆け、中庭をに出て、そこも通り抜け、走り続けた。
(えっ???広っ! なにこの敷地!)
十五分ほど走り回った頃、ようやく外に出たと分かった。
空気が変わる。
視界が開ける。
だが、同時に、空気が重くなった。
護衛だ。
武装した男たちが、数人、いや十数人。
美奈の足が一瞬止まる。
(やばっ、詰んだ?)
その瞬間、護衛の一人が油断した。
視線が外れ、意識が散った。
美奈は一気に距離を詰め、刀を奪った。
剣は鞘から抜かずにそのまま使う。
一人目、刀の鞘尻を正確にみぞおちに突き刺す。肺の空気を全て出し切った護衛は声もなく崩れ落ちる。
二人目、鞘ごと横一文字に振るう。ガチっという鈍い衝撃音が鳴る。護衛の持ち手を鞘の中ほどで打ち据えて手荷物刀を叩き落とす。そのままの勢いで護衛の側頭部を鞘で強打する。
三人目、ひらりと身をかわし護衛の後ろに回る。刀を大きく振り鞘ごと頸に振り下ろす。
四人目。。。。
次々に相手の急所を正確に叩き、意識を刈り取る。
美奈の動きは、完全に身体が覚えているものだった。
その光景を、少し離れた場所で三人の男が見ていた。
ーーーーーーー
あれは、なんだ。
世子(王の息子、次期王)は、思考が追いつかないまま、目の前の光景を見つめていた。
宮中なのに正装もせず、目覚めた時と同じ衣服を身に纏った姿。
乱れた髪。
明らかに女であるにもかかわらず、無駄のない動きで護衛を次々と薙ぎ倒していく。
(????)
正室候補。
錦城金氏の娘、金民娥
自分との婚姻を控え宮中に入った。宮中に入ってからの態度は傲慢極まりない。
誰に対しても当たり散らすほど感情的で、その行動からは知性の欠片も感じさせない・・・・はずの女。
護衛を倒す今の姿と、記憶の中の女が、まったく一致しない。
(違う。これは、知っている動きじゃない)
剣を抜かない理由が分かる。
殺すつもりが全くない。ただ制圧しようとしてるだけ。
(誰だ、お前)
胸の奥で、微かな戦慄が走った。
ーーーーーーー
弘文館 校理は、思わず息を止めていた。
(理屈が、合わない)
動きの軌道。間合い。重心移動。
武人のそれだ。
しかも、洗練されすぎている。
長年、実戦と鍛錬を積んだ者の身体。
(あの家で、そんな教育は受けない)
錦城金氏は、男はもちろん女には当然武術などを教えない。
にもかかわらず、美しいとも言えるあの動きは一体なんなんだ。
(仮面か? それとも・・・・)
校理は、初めて“恐怖に近い感情”を覚えた。
理解できないものが、目の前にある。
ーーーーーーー
左副承旨は、冷静を装いながらも、内心で舌打ちしていた。
(厄介だ)
面倒なのではない。危険なのだ。
あの華麗な動きが一時的なものではないと、本能が警告を発している。
(”女”が危険なのではない。“人”として危険だ。)
制御できない正室候補。
(政治的にも、個人的にも、最悪だな)
だが、同時に興味が湧く。
(一体どこまで化ける?)
ーーーーーーー
一人対大勢。
外に出てから三十分以上走り回った身体は、さすがに悲鳴を上げ始めていた。
呼吸も荒くなり、視界が揺れる。
その隙を、逃さない者がいた。
背後から、正確で無慈悲な一撃。
同じように鞘に収めたままの刀で急所を突かれ、美奈の身体から一気に力が抜ける。
「あっ!」
倒れ込む直前、視界の端に映ったのは、冷たい目をした男装の官僚だった。
(あれ??なんだ?)
意識が暗転して倒れた。美奈はそのまま部屋へと連れ戻された。
誰も、声には出さなかったが、全員が理解していた。
この女は、誰もが知っている“金民娥”ではない。
世界が、確実に、歪み始めている。




