第16話 借り物の器に、使える癖を入れる
夜は、考えごとに向いている。
誰もいない部屋。
灯りは最低限。
外の気配だけが、微かに届く。
障子の向こうで風が庭木を揺らし、そのたびに細い枝の影が紙の上をゆっくり流れる。
遠くで女官の足音が一度だけ響き、すぐに消えた。
深夜に近づくほど、この屋敷は音の種類が減る。
人の気配より、木と布の擦れる音のほうが目立つ。
美奈は、寝台に腰を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
昼の会話がまだ頭の奥に残っている。
ソヨンの声。
控えめな返事。
ためらいながら差し出された過去。
器は、金民娥。
中身は、高蔵美奈。
この器で、どう動くか。
それを、今決める必要があった。
明日になればまた誰かが来る。
女官か、医女か。
あるいは金錦金氏の誰かが、様子を見るような顔で言葉を投げてくる。
そのたびに反応を選ばなければならない。
完全に別人になるのは無理だ。
今さら聖女にはなれない。
急に穏やかになれば、それだけで不審を招く。
急に賢くなっても危険。
急に礼を尽くしても、かえって注目される。
十日眠っていた。
それは最大の言い訳だが、万能ではない。
変化には限度がいる。
じゃあ。。。。
選択肢は、案外少ない。
美奈の脳裏に、またあの顔が浮かぶ。
姉。
高蔵理佐。
幼少期の理佐。
癇癪持ち。
短気。
感情がすぐ顔に出る。
機嫌が悪ければ、空気が悪くなる。
廊下を歩くだけで、家の温度が変わるような存在だった。
朝、制服の襟が気に入らなければ黙る。
黙ったまま牛乳を飲み、コップを少し強く置く。
それだけで母が察した。
機嫌が悪い。
その合図だった。
けれど。
計算はしていた。
今になって思えば、理佐の性格だけで片づけるのも違う。
ああなる前には、だいたい自分がいた。
理佐が勉強している横で話しかける。
本を読んでいるのに袖を引く。
返事がないと、さらに顔を覗き込む。
自分では甘えているつもりでも、向こうから見れば邪魔でしかない。
しかも美奈には、その自覚がほとんどなかった。
構ってほしかっただけ。
一緒にいてほしかっただけ。
ただそれだけで、理佐の時間に何度も割り込んだ。
理佐は、誰に当たるかを選んでいた。
理不尽ではあったが、無差別ではない。
怒る相手は、たいてい自分だった。
自分がしつこく話しかけた時。
今でなくていいことを持ち込んだ時。
やめてと言われたあとも離れなかった時。
他人には分かりにくくても、本人の中では筋が通っていた。
そして何より。
止まれた。
父に一言言われれば止まる。
母が本気で叱れば引き下がる。
美奈が泣けば、舌打ちしながらも離れる。
一線は越えなかった。
皿を割っても、人には向けない。
掴んでも、爪を立てない。
感情が先に出ても、最後のところで戻れた。
民娥には、それがなかった。
だから壊れた。
だから嫌われた。
止まる線を持たない人間は、周囲を疲弊させる。
予測できない怒りは、人を離れさせる。
なら。
美奈は、結論を出す。
理佐方式でいく。
完璧ではない。
好かれもしない。
だが、現実的だ。
制御された厄介さ。
怒ることはある。
不機嫌も見せる。
だが理由は曖昧にしない。
物は投げない。
人は蹴らない。
声は荒げても、怒鳴らない。
そして、止められたら止まる。
必要なら黙る。
必要なら睨む。
だが、壊さない。
これ、使えるじゃん。
思わず口元が緩む。
理佐は、あの性格のまま警察庁で生き残り出世した。
誰にも媚びず、誰にも踏み込ませず、それでいて結果を出した。
上司と衝突しても外されない。
後輩に恐れられても必要とされる。
理由は単純だった。
有能だから。
理佐は、一度たりとも使えない存在だったことがない。
幼少期から、あの性格で、あの能力で、切り捨てられずにきた。
むしろ必要とされ続けた。
使えなくなること。
たぶん、一生ない。
その確信が、姉にはあった。
だから余計に遠慮がなかった。
美奈は、小さく息を吐く。
この世界に理佐はいない。
だが、理佐の癖はここにある。
人に近づきすぎない距離感。
不必要に笑わない。
説明は最小限。
感情は見せるが、手綱は離さない。
器は、民娥。
だが、中身は美奈。
そして行動指針は、姉の幼少期仕様。
「決まり」
誰にも聞かせない声で、そう呟いた。
この器は、もう暴れさせない。
代わりに使う。
徹底的に。
それが、高蔵家の妹として最も合理的な選択だった。
美奈は、そこでもう一度部屋を見渡した。
広い。
だが、どこか落ち着かない。
置かれている調度は高価なのに、温度がない。
几帳の位置も、鏡台の角度も、誰かが整えたまま止まっている。
民娥は、この部屋で何をしていたのだろう。
怒り、退屈し、物を投げ、誰かを呼びつけ、また一人になったのか。
読書の痕跡はない。
書きかけの紙もない。
刺繍枠もない。
時間を潰す術すら持たなかったのかもしれない。
それなら荒れる。
何も期待されず、何も積み上がらず、ただ座っていれば婚姻の駒として置かれる。
耐えられる人間は多くない。
理解はできる。
だが同じにはならない。
ここから先は、自分の時間に変える。
まずは情報。
誰がこの屋敷で強いのか。
誰が口を軽くするのか。
誰が金錦金氏へ報告を上げているのか。
ソヨンは使える。
だが一人では足りない。
次に必要なのは、民娥が嫌った相手を知ることだと美奈は思った。
嫌っていた相手には理由がある。
その理由が感情でも、利害でも、何かの手掛かりになる。
世子との距離も、まだ分からない。
会っていない。
見てもいない。
それが幸運なのか、不運なのかもまだ判断できない。
急ぐ必要はない。
十日の眠りは、しばらく効く。
その間に輪郭を整える。
突然賢くならない。
突然優しくなりすぎない。
だが、前より少しだけ静かになる。
少しだけ聞く。
少しだけ考えてから返す。
その変化なら、落水の後と受け取られる。
人は劇的な変化を疑うが、半歩の違いには慣れる。
その半歩を重ねる。
理佐ならそうする。
派手に変えない。
必要なところだけ変える。
美奈は、寝台の脇に置かれた灯台に手を伸ばした。
火が小さく揺れる。
炎を見ていると、現代の夜とは違うと改めて思う。
電気のように一定ではない。
揺れる。
消えそうになり、戻る。
その不安定さが、この世界そのものに似ていた。
静かに灯りを落とす。
部屋がさらに暗くなる。
闇の中でも、もう怖くはなかった。
怖いのは見えないことではなく、読めない人間だ。
その点では、現代もここも変わらない。
夜は、もう十分だった。
考えるべきことは整理した。
あとは、明日から一つずつ試すだけ。
この体で、この名前で、この家の中を歩く。
金民娥として。
だが、中で考えるのは高蔵美奈のまま。
その二重構造を崩さなければ、生き残れる。
少なくとも今は、そう信じるしかなかった。




