表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/18

第15話 器の記憶、別の呼吸

部屋からは、誰もいなくなった。

音が消える。


戸が閉じたあとに残る静けさは、先ほどまでの会話をゆっくり沈めていくようだった。

障子の向こうで誰かが歩く気配も遠く、風が欄間を抜けるかすかな音だけが耳に残る。


美奈はしばらくそのまま立っていたが、やがてゆっくりと腰を下ろした。


膝の上に手を置く。

まだ自分の指先が、この細い手に馴染みきらない。

骨の細さも、肌の白さも、視界に入るたびに他人のものだと思う。


器は、金民娥。


そう頭の中で言葉にする。


中身は、高蔵美奈。


他人の人生を借りている感覚は、まだ完全には馴染まない。

目覚めてから何度も確認しているのに、鏡を見るたびに少し遅れて理解が追いつく。


だが、さっき聞いた話は胸の奥に妙に引っかかっていた。


物を投げる。

蹴る。

八つ当たり。

怒鳴る。


最悪な性格。


そう分類されるだろう。


けれど、その言葉だけで切ってしまうには、どこか引っかかるものがあった。


美奈は、ふと別の顔を思い浮かべる。


姉。高蔵理佐。

幼い頃の理佐。


癇癪は確かに強かった。

些細なことで怒り、言葉より先に感情が出ることもあった。

宿題の途中で机を叩いたこともある。

ピアノで思うように指が動かず、楽譜を丸めたこともあった。


だが今になって思えば、あれは理佐だけの問題ではなかった。


きっかけはたいてい、自分だった。


理佐が集中している横で、わざわざ話しかける。

答えが返らなくても、さらに続ける。

机の横へ肘をつき、見なくていいノートまで覗き込む。

静かにしていればいい場面で、どうでもいい話を重ねる。


当時の自分には悪気がなかった。

ただ構ってほしかった。

一緒にいてほしかった。

反応してくれるまで離れなかった。


理佐から見れば、相当鬱陶しかっただろう。


筆箱。

辞書。

クッション。

ときには濡れたタオルまで飛んできた。


理佐は容赦なく怒鳴った。


ジャマ。

うっとおしい。

今じゃない。

なんで今それを言うの。


小さな頃の美奈には、その怒りの芯が分からなかった。

ただ急に怒られたと思っていた。

でも今なら分かる。


理佐は何かに集中していた。

そこへ自分が何度も割って入った。


返事がなくてもやめなかった。

肩をつつき、隣へ座り込み、また話す。


私は一緒にいたかっただけなのだが、相手には違った。


理佐は明らかに嫌そうな顔をしていたこともあった。

それでも美奈は気づかなかった。

気づいても深く考えず、また翌日に同じことをした。


姉妹だから許されると思っていたわけではない。

ただ、そこまで嫌がられていると本気で分かっていなかった。


さらに、理佐は文武両道だった。


勉強はものすごくよくできた。

武道もできた。

芸術にも妙に詳しかった。


書道では賞を取り、剣道では県大会へ進み、家へ帰れば難しい本を読んでいた。


何をやっても形になる人だった。


完璧主義で、自分に厳しい。

だからこそ途中で崩れることもあった。


できない自分に腹を立てるというより、途中で邪魔が入ることを嫌ったのだろう。

その邪魔の中心にいたのが、自分だった。


そして相手は、ほぼいつも自分だけだった。


姉妹だから。


そう思える距離だった。


叩かれても、怒鳴られても、翌日には何事もなかったように同じ食卓についた。


朝になれば、理佐は何もなかった顔で牛乳を注ぎ、昨日投げた辞書のことも言わない。

美奈も聞かない。


昨夜の怒りは、その場で終わっていた。


そこには確かに線があった。


どれだけ怒っても、超えてはいけないところでは止まる。

投げる物も選んでいた。

本当に危ないものは手に取らない。

泣けばそれ以上は続けない。


今ならそれも分かる。


歪んではいたが、ただの悪意ではなかった。


構ってほしくて近づく妹と、集中を乱されて苛立つ姉。

よくある姉妹の衝突だったのだろう。


美奈は、その頃の自分を思い返し、小さく息を吐いた。


民娥は違う。


投げる相手を選ばない。

怒鳴る相手も、守られていない者ばかりだ。


側付きの女官。

下働き。

目を合わせない者。


しかも、そこに戻る食卓がない。


怒ったあとに何もなかった顔へ戻る距離もない。

理佐には、怒りのあとに戻る日常があった。


民娥には、それが薄かった。

逃げ場がなかったのだろう。


美奈は、そう理解する。


怒りを逃がす場所も、評価される場所も、自分を保つ場所もなかった。


父も、大妃も、嗜めはした。


だが、本気で向き合ってはいない。


直せとは言う。


静かにしろとも言う。


けれど、その先へ踏み込まない。


何に腹を立てているのか。

何が足りないのか。

何を怖がっているのか。


誰もそこを見なかった。


必要だから置かれていた。

血筋だから残されていた。


それだけの扱いだった。


美奈は深く息を吸う。

理佐は、自分へ怒った。


民娥は、弱い者へ怒った。


そこにある差は大きい。


同じ家へ戻る相手へぶつけるか。

反撃できぬ相手へ向けるか。


その差だけで、人の輪郭は変わる。


だが、理由があることは分かる。


そう思ったことに、美奈は少しだけ驚いた。


同情ではない。

赦しでもない。


ただ、なぜそうなったかが少し見えただけだ。


美奈は天井を見上げる。


木組みの線が静かに並んでいる。

見慣れない天井なのに、見上げる角度だけは昔と変わらない。


この体の持ち主は、誰にも期待されなかった。


誰にも、愛される形を教えられなかった。


叱られても、直せば認められるという経験が薄い。

できた時に褒められる記憶も少ない。


だから変わる理由もなかった。


姉や私とは違う。


そこは、はっきりしている。


理佐には才能があった。

理佐には、怒っても翌日に戻れる確信があった。


民娥には、それがなかった。


だから荒れた。

だから嫌われた。


そして嫌われるほど、さらに荒れた。


悪循環だった。


誰か一人でも、本気で止めていれば違ったかもしれない。

だが、もうその答えはどこにもない。


美奈は静かに目を閉じる。


納得した。

裁く必要はない。

過去の民娥を責めても意味はない。


自分が背負うのはここから先だけだ。


ただ、同じにはならない。


それだけだ。


器は、金民娥。


だが、もうあの怒り方はしない。


怒鳴らない。

投げない。


相手を試すような沈黙も使わない。

必要なら黙る。

必要なら聞く。


それだけで、今までとは十分違う。


美奈は、自分の手を見下ろした。


この細い指で、これから何を守れるのかはまだ分からない。


けれど少なくとも、壊す側には回らない。


その違いを、静かに胸へ刻む。


そこに後悔はない。

罪悪感もない。

決意と呼ぶほど熱くもない。


ただ、理解したという感覚だけが残っていた。


人は理由なく荒れない。


理由があっても、許されるわけではない。


その二つを分けて持てることが、今の自分には必要だった。


障子の向こうでまた風が鳴る。


日が少し傾き、床の上の光が細く伸びていた。


美奈は、その細い光を見ながら、ようやく一つだけ確信する。


ここで生きるなら、民娥の過去を知った上で、民娥とは別の形で立つしかない。


それで十分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ