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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第14話 殻の中身を聞く(参)

部屋の空気が、少し重くなっていた。

美奈は、膝の上に手を置いたまま、

視線を落とす。


「ソヨン、もう少しだけ、聞かせて」


ソヨンは、姿勢を正した。


「はい」


返事は、変わらず素直だった。


障子の向こうでは夕方の光が薄くなり始めていた。

昼の明るさが抜けるにつれ、室内の影が深くなる。

火を入れるにはまだ早い時間だが、輪郭は少しずつ曖昧になる。

その曖昧さが、かえって言葉を口にしやすくすることもある。


「私の性格なんだけど・・・・」


美奈は、言葉を選ばない。


「本当のことを教えて」


ソヨンの呼吸が、一瞬だけ止まる。


ここだ。


美奈は、逃がさない。


この先を知ることは必要だった。

どれほど嫌われていたか。

どれほど恐れられていたか。

その輪郭が分からなければ、この先どこで躓くか読めない。


ソヨンは、ゆっくりと口を開いた。


「お嬢様は」


慎重に、慎重に。


「気に入らないことがあると、物を投げられました」


美奈は、黙って聞く。


「蹴ることも」


少し、声が小さくなる。


「人ではなく、机や屏風を」


だが、その言い訳が日常を物語っていた。


直接ではない。

だが、当たらなかっただけだ。


「八つ当たりは」


美奈が、続きを促す。


「日常でした」


ソヨンは、目を伏せたまま続ける。


「付人が失敗すれば、声を荒げられ」


「目上の人がいないと」


美奈が静かに補足する。


ソヨンは、驚いたように顔を上げ、

それからゆっくり頷いた。


「はい」


「大声で?」


「叫ばれました」


美奈は、息を吐いた。


想像以上にひどい。


だが、まだ聞く。


「止める人はいた?」


ソヨンは、少しだけ迷ったあと、答えた。


「父君様と・・・・」


「大妃様ね」


ソヨンは、小さく頷く。


「その時は、嗜められました」


「改善は?」


答えは、分かっている。

それでも聞く。


「できませんでした」


はっきりした否定。


ソヨンの声には、諦めが混じっている。


「父君様も」


言いづらそうに続ける。


「大妃様も、お嬢様を心からよく思っておられるとは」


そこまで言って、口を閉じた。


十分だった。


美奈は、目を閉じる。


嫌われていた。


それも、使い道があるから置かれているだけ。


愛情ではない。

期待でもない。


美奈は、淡々と受け取る。


怒りは湧かない。

悲しみもない。


この体の持ち主は、守られなかった。

だから、暴れた。


それだけだ。


「ほかには」


美奈は静かに続けた。


「私、自分から人に話しかけてた?」


ソヨンは少し考える。


「必要なときだけでした」


「笑うことは」


「ほとんど」


そこで言葉が止まる。


「ない?」


「はい」


短い答えだった。


「では、誰かと仲が良かったことも」


「ございません」


きっぱりしている。


美奈は、自分でも驚くほど冷静にそれを受け止めた。


孤立していた。


家の中でも。

女官の間でも。

おそらく宮中でも。


「私のことを嫌う人は多い?」


ソヨンはすぐには答えなかった。


その沈黙だけで十分だった。


「正直に」


そう言うと、ソヨンは小さく頷いた。


「多いと思います」


「理由は」


「怖いからです」


その答えは、妙に真っ直ぐだった。


「何を怒られるか分からないと・・・・皆そう言います」


そこで言葉を切る。


美奈は続けさせない。


分かった。


予測不能だったのだ。


機嫌で動く人間は、周囲を疲弊させる。


「私は、自分の部屋から出てた?」


「出られますが」


「が?」


「長くは」


それも予想通りだった。


外へ出れば衝突する。

だから囲われる。


その繰り返しだったのだろう。


「池に落ちた日」


美奈は声を落とした。


「私は機嫌悪かったのかしら?」


ソヨンは少しだけ目を動かした。


「朝から」


「理由は?」


「衣の色が、お気に召さず」


美奈は思わず眉を寄せた。


そこまでか。


「私が叱った人は何人かいる?」


「二人です」


短い答え。


それだけで十分だった。


「私が落ちたとき」


「皆、驚いておりました」


「助けたのは」


「庭番の者です」


そこも覚えておく。


庭番。

名前はまだ知らないが、

命を拾った相手だ。


「その人、まさか罰せられたりしてないでしょうね?」


「いいえ」


少し安心する。


助けた者まで巻き込まれていないなら、まだ救いはある。


「ありがとう」


美奈は、そう言った。


ソヨンは、戸惑った。


「お嬢様、お怒りになられませんか」


美奈は、首を振る。


「ううん」


短く、きっぱり。


「私は、ただ聞いただけだから」


ソヨンは、しばらく黙っていたが、

やがて、そっと息を吐いた。


「それなら」


少し安心したような声。


その安堵が見えるほど、この子は緊張していたのだ。


美奈は、顔を上げる。


「今日はもういいわ」


ソヨンが、はっとする。


「何かご命令はございますか」


美奈は微笑まない。


「ない」


その一言が、これまでと決定的に違った。


命じない主。

怒鳴らない主。


それだけで、この部屋の空気が変わる。


「下がって」


「はい」


ソヨンは、深く頭を下げ、

静かに部屋を出ていった。


扉が閉まる。


美奈は、一人になる。


部屋の中は、驚くほど静かだった。


外から聞こえるのは、遠くの足音だけ。

庭を渡る風が、紙障子をわずかに鳴らす。


最悪な性格。


そう言われても、否定できない。


だが、だからこそ。


この体は、作り替えられる余地がある。


誰も期待していない。

誰も信じていない。


それは自由と同義だった。


優しくなっても不自然ではない。

静かになっても理由がある。

忘れていても、十日の眠りで説明がつく。


これほど都合のいい余白はない。


美奈はゆっくりと立ち上がる。


足元にまだ少し力の抜ける感覚がある。

だが歩ける。


鏡台の前へ行き、そこに映る顔を見る。


白い。

細い。

まだ幼さの残る輪郭。


だが、その目だけはもう別人だった。


知らない顔。

知らない人生。


それでも、ここから先は自分が生きる。


鏡の中の女は、黙ってこちらを見返している。


この殻の中身はもう前とは違う。


そしてそれをまだ誰も知らない。


それでいい。


今はまだ、知られなくていい。


知れば壊される。


壊される前に、知るべきことが多すぎる。


誰が敵か。

誰が利用できるか。

誰が無関心か。


それを見極めるまで金民娥でいる。


美奈は鏡から目を離し、ゆっくり息を吐いた。


まずは、生き残る。


そのために、この与えられた悪評すら使う。


嫌われているなら近づかれにくい。

恐れられているなら観察する時間が稼げる。


悪くない。


そう思った瞬間、障子の向こうで誰かの足音が止まった。


扉は開かない。


だが、人がいる。


美奈は視線だけを向ける。


ここ宮中では、静かな気配ほど油断できない。


その事実を、ようやく身体が覚え始めていた。


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