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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第13話 殻の中身を聞く(弐)

少し間を置いてから、美奈は再び口を開いた。


「十日も、眠っていたなら」


独り言のように、低く言う。


「覚えていないことが、あってもおかしくないわよね」


ソヨンは、はっとしたように顔を上げた。


「はい、それは」


肯定しかけて、言葉を止める。


美奈は、その止まり方を見逃さなかった。

この子は、ただ従うだけではない。

言葉を選ぶ。

何を言えば安全かを考える。

それは宮中や位の家で生きる者には必要な感覚だった。


この年齢でそれが身についているなら、

相応に見てきたものがある。


美奈は、その沈黙を急かさず待った。


急かせば、本音は引っ込む。


「御医も」


ソヨンは慎重に言う。


「目覚められた後、混乱されることはあると」


「そう」


美奈は、わずかに微笑んだ。


「じゃあ」


声を落とす。


「私が、自分のことをよく覚えていなくても」


視線をまっすぐ向ける。


「不思議じゃない」


ソヨンの喉が、小さく鳴った。


目が揺れる。


理解している。

この言葉が、ただの確認ではないことを。


「お嬢様」


戸惑いと、不安が混じる。


「私は」


美奈は、そこで一度言葉を切った。


全部は言わない。


だが、何も言わないのも危険だった。


「変なことを言うけど」


囁くように言う。


「もし、私が前と違うことに誰かが気づいたら」


ソヨンの指が、きゅっと握られる。


その小さな動きが答えだった。


「どうなる?」


答えは分かっている。


だが、ソヨン自身の口で言わせることに意味がある。


「よくないことに」


小さな声。


「お嬢様だけでなく」


そこで止まる。


続けなくても十分だった。


この家では、主が異変を起こせば、

仕える者にも責任が落ちる。


隠したと見なされる。

怠ったとされる。

最悪の場合、入れ替えられる。


美奈は続きを促さない。


その沈黙だけで十分だった。


理解した。


「だから」


美奈は静かに言う。


「私が覚えていないことは、あなたから教えて」


「はい」


即答だった。


そこに迷いはない。


もう逃げ道がないことも、この会話が始まった時点で分かっているのだろう。


ここで、美奈は少しだけ核心へ踏み込んだ。


「私って」


少し首を傾げる。


「勉強、してた?」


ソヨンは、一瞬目を伏せた。


「いえ」

「ここ2年間について限定して申し上げますが・・・」


きっぱりしている。


「読み書きは最低限です」


ここ2年間が引っ掛かりはするが、とりあえず今はいい。

最低限の答えは予想通りだった。


「書は?」


「お名前を書く程度です」


「漢文は」


「長くなると、お嫌がりでした」


美奈は内心で整理する。

やはり、教育は最低限。


世子嬪候補でありながら、それ以上を求められていない。


「女訓は?」


「すべて習われました」

「が、・・・」

「習われた直後は、お怒りになっておりました」


そこに苦笑が混じる。

その一言だけで、以前の民娥の輪郭がまた少し見えた。


「じゃあ、武芸は?」


ソヨンは驚いたように顔を上げた。


「まさか」


即座に否定する。


「お嬢様は剣にも弓にも、一切触れたことはございません」


「一切?」


「はい」


断言は強かった。


「むしろ嫌っておられました」


「どうして?」


「手が荒れるからと」


そこまで聞いて、美奈は小さく息を吐く。

完全な素人。


だからこそ、昼のあの動きは異常だった。


現代で身につけた護身の動きが、この世界では説明不能になる。


一歩間違えれば、それだけで異物になる。


「世子の正室候補として」


美奈は自然な調子で続ける。


「何か学ぶように言われていた?」


ソヨンは少し考えてから首を振る。


「いいえ」


「どうして?」


「そのままでよいと」


答えは明快だった。


錦城金氏。


美奈はすぐに理解する。


必要なのは血筋だけ。


能力ではない。


「つまり」


軽く息を吐く。


「私は、何もしなくていい存在だったのね」


ソヨンは慌てた。


「そんなことは」


だが言葉が続かない。


否定したい。

だが、嘘はつけない。


それが真実なのだ。


美奈は責めるような視線を向けない。


ただ、静かに受け取る。


「ありがとう」


その言葉に、ソヨンは驚いた。


「お嬢様」


「教えてくれて」


ソヨンは困ったように笑った。


「お嬢様は」


少し声を落とす。


「本当に、変わられました」


美奈は否定しない。


「嫌?」


「いいえ」


また即答だった。


「前は、何を考えておられるのか分からなかったので」


なるほど、と美奈は思う。


前の民娥は威圧で人を従わせる型だった。


怒る。

命じる。

沈黙で圧をかける。


相手に考える余地を与えない。


「怒ること、多かった?」


「はい」


「泣いたりは?」


「泣いたりもしました。怒られると、よく物を投げられました」


そこまで率直に言えるのは、もうある程度覚悟ができている証拠だった。


「あなたにも?」


ソヨンは少し迷った。


「何度か」


その言葉に、美奈は静かに視線を落とす。

知らない過去だが、今は自分が引き受けるしかない。


「痛かったでしょうね」


ソヨンは慌てて首を振る。


「もう過ぎたことです」


その返し方に、美奈は逆に胸が重くなる。


許したのではない。

慣れただけだ。


それが分かる。


「ほかの付人は?」


「皆、お嬢様の前では緊張していました」


「あなたは?」


ソヨンは少し考えた。


「最初は怖かったです」


「今は?」


「今は」


そこで初めて少し笑う。


「少し違います」


「どう違うの」


「話しかけても、大丈夫だと思えます」


その言葉は大きかった。

前の民娥には、それがなかった。


だからこの部屋にはいつも張り詰めた空気があったのだろう。


美奈は部屋を見回す。


確かに、家具の配置にも妙な距離がある。


近づきにくい。

触れにくい。

人が自然に避ける空間になっている。


持ち主の性質が、そのまま残っているようだった。


鏡台の前に置かれた櫛も、几帳面ではなく投げ置かれている。

蓋の開いた香盒も端に寄せられたまま。

誰かが整えたあと、また乱された痕跡がある。

感情の起伏が、そのまま物の置き方に残っていた。


「これからも」


美奈はゆっくり言った。


「分からないことがあったら聞く」


ソヨンは深く頷く。


「はい」


その返事には迷いがなかった。


美奈は心の中で整理する。


民娥には学がない。

正室候補だが飾り。

落水は事故扱い。

十日の空白は最大の盾。


さらに。


家の中で恐れられている。

だが完全には見捨てられていない。


この情報は大きい。使える。


この空白は、自分が別人であることを隠すのにあまりにも都合がいい。


急に静かになってもいい。

急に忘れてもいい。

急に性格が変わっても、落水の後遺と説明できる。


目を閉じる。


まだ危険は多い。


だが、味方はいる。


それだけで、この世界は少し息がしやすくなった。


そして美奈は理解する。


ソヨンはもう戻れない。


この会話をした時点で、すでに自分と同じ側に半歩入っている。

知らぬふりを続けるには、あまりにも多くを受け取ってしまった。


だからこそ守る必要がある。


切り捨てない。


使い捨てにもさせない。


この世界で最初に差し出された手を、簡単には失わない。


美奈は静かにそう決めた。

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