第12話 殻の中身を聞く(壱)
目を覚ましたとき、
天井を見上げて「終わっていない」と思った。
夢なら、あの水の感触は残らない。
肺の奥に、まだ冷たさがある。
金民娥。今はそう呼ばれている体は、
ゆっくりと呼吸を繰り返していた。
胸の奥に残る重さは、溺れた直後のものだった。
喉の奥にひりつくような違和感がある。
目を閉じれば、水面越しの光がまだ揺れる。
耳の奥でくぐもった音が蘇る。
遠くで誰かが叫んでいた。
助けを呼ぶ声なのか、自分の名なのか、それすら曖昧だった。
指をゆっくり動かす。
力は戻っている。
体は弱っているが、壊れてはいない。
両腕を上にあげ体を伸ばしながら「う〜ん」と言う。
声に出して、確かめたのだ
すぐに、控えめな足音が近づいた。
「お嬢様」
入ってきたのは、若い付人だった。
年の頃は、鏡に映るこの顔と同じくらい。
視線を伏せ、だが怯えてはいない。
歩幅が一定だった。
急がず、遅れず、扉を開ける手も静かだ。
長く仕えている者の動きだった。
美奈は、その一瞬で分かった。
この子だ。
他の付人たちには、
必ず一瞬の躊躇や緊張があった。
声をかける前に呼吸が止まる。
視線の揺れがある。
だが、この子は違う。
警戒していない。
それは無防備という意味ではなく、
この部屋で何が起きても驚かない覚悟に近かった。
「ここに来て」
付人は、素直に近づく。
「少し、聞きたいことがあるの」
「はい」
即答。
その距離感が、
この二人の関係性を物語っていた。
美奈は、わざと間を置いた。
「まず・・・・名前は?」
「ソヨンです」
質問の前に、
どう聞くかを整える。
責めない。
でも、逃がさない。
「私が目を覚ます前」
声を弱める。
「何があったのか、教えて」
ソヨンは、少しだけ目を伏せた。
「覚えていらっしゃらないのですね」
その言い方に、
責める響きはなかった。
「うん」
美奈は短く答える。
「池に、落ちられました」
その瞬間、
頭の奥で、あの感覚が蘇る。
青く、深い水。
沈む体。
息が奪われる恐怖。
やっぱり。
「事故だったの?」
ソヨンは、はっきり頷いた。
「はい。皆、そう申しております」
「どうして?」
ソヨンは、少し言い淀んだ。
だが、やがて口を開く。
「その前に、唐家の側室候補様とすれ違われました」
来た。
「名前は?」
「唐順希様です」
その名を、美奈は頭の中で確実に保存する。
唐順希。
「その方が、お嬢様にご挨拶を」
「私は?」
「お返しなさいませんでした」
淡々とした報告。
そこには、
いつものことという空気がある。
無視する女だった。
「そのあと」
ソヨンは、少しだけ声を落とした。
「池の近くで、足を滑らせたのだと」
「誰か、押した?」
「いいえ」
即答だった。
「皆、事故だと」
その返答の速さで、
ソヨン自身が本気でそう信じていることが分かる。
少なくとも、この子は。
「私、どのくらい」
「十日ほど、お目覚めになりませんでした」
十日。
美奈は、心の中で息を吐く。
その間に、私が来た。
十日という長さは重かった。
その間、この体は眠り、周囲は待ち、この屋敷の空気は少しずつ変わったはずだ。
「その間、誰か来た?」
ソヨンの目が少し動く。
「奥様は毎日来たがっていいらっしゃいましたが・・・」
少し間を置き
「婚姻を控えて宮中に上がった身分なので、お嬢様のお立場上、基本的に誰にも会えません」
母親か、と美奈は理解する。
「そう・・・・」
「来た人はいないのね」
「いいえ、医女と、女官長様がいらっしゃいました」
美奈はしばらく考える。
「実家を含めて、誰も来なかったのね?」
その問いで、ソヨンは一瞬だけ黙った。
「当主の左議政様が、一度だけ」
短い。
しかも一度。
それだけで十分だった。
さっきソヨンは基本的に誰にも会えないといった。
それでも来たのは、父としての見舞いではない。
権力を利用した確認だ。
「何か言ってた?」
「熱が下がるか、と」
それだけ。
ソヨンは左議政と言っていた。
と言うことは大陸の大国ではない。
大陸の西側の半島の方だ。
「金家はたくさんあるけど本貫は?」
「錦城金家でございます」
錦城、なんとも派手な本貫だ。
「世子様は?」
「お見えにはなっておりません」
沈黙が落ちる。
ソヨンは不安そうにこちらを見ている。
「怖かった?」
美奈は、ふと聞いた。
ソヨンは、驚いたように目を瞬かせた。
「はい」
正直な答え。
「お嬢様が、冷たくなってしまわれたら、と」
美奈は目を伏せた。
この子。
この世界で、
自分の生死を心配した人間。
数少ない。
「私、変?」
ソヨンは、一瞬迷った。
それから、ゆっくり首を振る。
「少し」
正直だ。
「でも、前より静かです」
美奈は小さく笑った。
「それは、悪いことかしら?」
「いいえ」
ソヨンは、はっきり言った。
「今のお嬢様は、怒鳴ることをなさいません」
その言葉は重かった。
怒鳴っていたのか。
「前は、よく?」
「はい」
「叩いたりも?」
ソヨンは少し視線を落とす。
「ときどき」
美奈は、そこで胸の奥に鈍い痛みを覚えた。
知らない他人の行いなのに、
今は自分の手として残る。
この体で行われたことは、
これから自分が背負うことになる。
「ごめん」
言葉が自然に出た。
ソヨンは戸惑った。
「お嬢様」
「覚えてないけど・・・・」
美奈は静かに続ける。
「嫌だったでしょう」
ソヨンは、少しだけ考えた。
それから小さく笑った。
「今日は、変なお言葉ばかりです」
責めず、受け流す言い方だった。
ここで止める判断力。
普通だ。
だからこそ信用できる。
「ありがとう」
美奈は言った。
ソヨンの目が少しだけ潤む。
「これからも」
美奈は視線を上げる。
「私に、教えて」
「はい」
迷いのない返事。
それで十分だった。
だが、その返事のあと、ソヨンは少しだけ言葉を探した。
「お嬢様」
「なに?」
「もし」
小さく息を吸う。
「もし、また何か思い出せないことがあったら」
ソヨンは視線を上げた。
「私に聞いてください」
その声は静かだったが、
確かな覚悟があった。
美奈は、ほんの一瞬だけ驚いた。
この子は、ただの付人ではない。
少なくとも、
民娥という人間を見てきた時間がある。
良いところも、悪いところも、
全部。
それでもここに残っている。
「うん」
美奈は頷いた。
「頼りにする」
ソヨンは深く頭を下げた。
部屋に静けさが戻る。
窓の外で、朝の鳥の声がかすかに聞こえた。
新しい一日が始まる。
この体の持ち主は、
多くの敵を作り、
多くを踏みにじってきた。
だが、味方がいなかったわけではない。
完全に見放されていたなら、
この部屋に今この子はいない。
殻の中身を知るには、まだ時間がかかる。
だが最初の糸は掴んだ。
純粋で、普通で、
それでもこの世界で生きている付人。
ソヨン。
民娥の数少ない味方の一人。
美奈は、その事実を静かに胸に刻んだ。




