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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第10話 名を呼ばぬ者たち

大妃の居所は、昼でも薄暗い。

意図的に落とされた灯り。

香の匂い。

重く垂れた帳。

そこは、王宮の中で最も静かで、

最も多くの決断が下される場所だった。


外では昼の光が石畳を照らしているはずなのに、この部屋だけは別の時刻に属しているようだった。

窓辺の障子は半ば閉じられ、光は細く裂けた筋になって床へ落ちる。

その薄い光の中で、香炉の煙だけがゆるやかに立ち上がっていた。

香の選び方にも意図がある。気を落ち着かせるためではない。

言葉の速度を遅くし、相手に不用意な感情を出させないためだ。


その日、その部屋に集まったのは三人。


大妃。

王妃。

そして、大妃の従兄弟、錦城金氏当主、左議政。


いずれも、感情を表に出す者はいない。


沈黙が、会合の始まりだった。


先に茶が置かれ、誰もすぐには手を伸ばさない。


香が一度流れ、帳の向こうで女官が静かに退いたあと、ようやく場が閉じる。


最初に口を開いたのは、大妃だった。


「昼のことは、聞いております」


声は低く、揺れがない。

それだけで、場の空気が引き締まる。


「王宮の内で、騒ぎがあったと」


王妃は、わずかに顎を引いた。


「世子の耳にも入っております」

「当然でしょう」


大妃は、短く答える。


「隠しきれる類のことではない」


左議政は、黙って茶を口にした。


表情は石のようだ。

彼は事実だけを好む。


曖昧な感情や推測より、処理できる形の情報を優先する。


「護衛が倒されたと聞きました」


王妃の声は冷えている。


「刃傷沙汰にはならなかったが、それでも・・・・」

「前代未聞です」


大妃は即座に切り捨てた。


「王宮で、女が武を振るうなど」


しばしの沈黙。


誰も、その女の名を口にしない。その必要がないからだ。

この場にいる全員が、同じ人物を思い浮かべている。


「その場にいた者の話では、悲鳴よりも先に護衛が崩れたそうです」


王妃が続けた。


「何が起きたのか理解できぬうちに二人、三人と倒れたと」


「見た者が理解できぬ動きは、後に誇張されます」


左議政が低く言う。


「十が二十になることもある」


「しかし護衛が倒れたのは事実です」


王妃は譲らない。


「傷も浅い。急所は外されていた」


その一言で、再び空気が止まる。

大妃の目がわずかに細くなった。


「それが問題です」


王妃は慎重に言葉を選ぶ。


「あの子は」

「元来、そのような嗜みはない」


左議政が断言した。


「武も、学も」


冷酷な事実だった。


「与えられたものに甘え、気に入らぬものには当たり散らす」

「それが、宮中に入ってからのあの子でした」


大妃は淡々と認める。それは否定でも擁護でもない。

ただの分類だった。


「だからこそ奇妙なのです」


王妃は続ける。


「昨日の動きは作法ではなく技でした」


左議政の目が細くなる。


「技?」


「無駄がありませんでした」


王妃ははっきり言った。


「叩きつけるのではなく、力を逃がして制する」


大妃が加える。


「殺さぬ位置だけを選んだ」


左議政は黙ったまま、卓上の茶器を見ていた。

沈黙の長さが、そのまま計算の時間になる男だった。


「教えられた形跡は?」


「ありません」


王妃は首を振る。


「記録も証言も」


「では」


大妃の指がゆっくり膝を叩く。


「何が起きた」


左議政が、初めて深く息を吐いた。


「取り憑かれた」


王妃が眉をひそめる。


「左議政」


「それ以外に説明がつきませぬ」


左議政は感情を挟まない。


「人はある日突然、別の技量を得たりはしません」


「熱病のあとに性質が変わる者もおります」


王妃が静かに返す。


「幼少より穏やかだった者が急に荒れる例も」


「荒れるのと技を得るのは別です」


左議政は即座に切った。


大妃は否定しなかった。


「昔から」


静かに言う。


「気に当てられた者は、性質が変わると言います」


「巫女たちも、そう申します」


王妃が頷く。


「問題は」


左議政が腕を組んだ。


「それが政治に影響するかどうかだ」


そこが最重要だった。

大妃は視線を上げる。


「世子は、どう出ている?」


「見ておりません」


王妃が答える。


「意図的に」


左議政は短く笑った。


「賢い。見れば判断が歪む」


大妃も同意する。


「だが興味は持っているでしょう」


王妃が低く付け足した。


「視線は向いております」


「若い」


左議政は一言で切る。


「隔離は続けますか」


王妃が問う。


「当然」


左議政は即答した。


「表に出すな」


「理由は?」


「理由などいらぬ」


声は冷たい。


「体調不良で十分だ」


大妃は頷いた。


「巫女を呼びましょう」


王妃がわずかに戸惑う。


「本気ですか」


「信じる必要はありません」


大妃は静かに言う。


「だが、信じるふりは役に立つ」


「儀式は噂を整理する」


左議政が続けた。


「人は見えぬものに名を与えれば落ち着く」

「病ではなく、気の乱れと」


王妃が小さく息を吐く。


「もし、この奇行が再び起きたら」


一瞬、言葉を選ぶ。


「その時は・・・・」


大妃が淡々と告げた。


「世子の婚姻を考え直す」


王妃の顔色がわずかに変わる。


「それは」


「選択肢の一つです」


大妃の声に情はない。


「駒は替えが利く」


その言葉に、何の揺れもなかった。


血筋。

家。

均衡。


必要なのはそこだけだった。


しばし沈黙が落ちる。

誰も、女の名を呼ばない。

呼ぶ必要がないからだ。

彼女は血筋でしか評価されていない。

人格も、意思も、ここでは存在しない。


「巫女だけでは足りぬかもしれません」


左議政がふと口を開く。


「足りぬとは」


大妃が視線を向ける。


「様子を見る者を一人付けるべきです」

「女官では不足と?」

「口が軽い」


短い返答だった。


「左副承旨は」


王妃が言いかける。


「使わぬ」


左議政が遮る。


「尹怜は見る目がありすぎる」


その名に、大妃は小さく指を止めた。


「気づくと?」


「気づく者は余計な道を増やします」


王妃は沈黙した。

それは否定できない。

左副承旨は記録する。

記録は残る。

残れば制御できない。


「では」


大妃が立ち上がる。


「巫女を」

「手配します」


左議政が応じる。


「世子には?」


「知らせる必要はない」


大妃はそう言い切った。


「見ないと決めた者に、見せる理由はありません」


王妃は静かに頭を下げる。


会合は、それで終わった。


帳の向こうで、香が揺れる。

彼らは、正しく判断しているつもりだった。

中身が変わったなど、あり得ない。

そんなことは、この世界の理屈には存在しない。

だから彼らは、最も理解しやすい結論を選ぶ。


何かが取り憑いた。


その認識が、後にどれほど致命的な誤りになるのか。

この時、誰一人として想像していなかった。

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