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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第9話 必要なものは、ここにない

夜明け前という時間帯は、音が消える。


救急のサイレンも、廊下の足音も、どこか遠い。

世界が一枚、薄い膜を被ったように静かになる。

夜勤帯の看護師がカルテを閉じる音さえ吸い込まれ、人工呼吸器の作動音だけが遠く規則的に残る。


木暮由梨は、その静寂の中で、ただ一人、画面を見つめていた。


解析はもう終盤だった。


終わってしまった、と言った方が正しい。


これ以上削れる要素がない。

仮説を何度組み直しても、最後に残る答えが同じだった。

候補成分は三つまで絞られている。

すべて、明確な共通点を持っていた。


・現代医療では非効率と判断されている

・合成が難しい

・作用機序が単純化できない


つまり、研究費がつかない。


由梨はキーボードから手を離した。

やっぱり、そうなる。


最後まで残ったのは植物由来の微量成分だった。

正確には単一成分ではない。


複合体。

複数の有効因子が、特定の比率で存在している。

一つだけ抽出すると効果が消える。

二つだけでも足りない。

三つが同時に存在して初めて反応する。


薬としては最悪だった。

現代医学が最も嫌う型だ。

成分を単離できず、再現性が低く、作用の説明が難しい。


製剤化にも向かない。

標準化ができない。

その時点で、大半の研究は止まる。


だがナルコラウイルスに対しては違った。

決定的に効く。


由梨は再現データをもう一度確認した。


細胞変性は停止。

ウイルス複製は阻害。

耐性形成は見られない。

反応はあまりにも明瞭だった。


完璧すぎる。


逆に言えば、このウイルスはこれに対抗する進化をしていない。

まるで、その成分が存在する環境を前提に、長く生きてきたようだった。


鮮朝。


また、その言葉が浮かぶ。


由梨は別の画面を開いた。

歴史資料をまとめたフォルダ。


中世に疫病対策として記録された薬草一覧。

地方ごとに呼び名は違うが、成分分析に置き換えるとほぼ同じ群に収束する。


名前は複数ある。

だが、指している植物は同じだった。

由梨は一つの図版を拡大した。


古文書に添えられた植物画。


葉の形。

根の節。

乾燥時の断面。


そこへ現代の成分データを並べる。

一致率はほぼ百分の百だった。


やっぱり・・・・。


ここまで来ると迷いはない。必要なものは特定された。問題は、その先だった。


どこで手に入れる。


由梨は検索を始める。


国内の研究機関。

大学の保存標本。

民間の生薬業者。

海外の植物データベース。


検索結果は出る。だが、使えない。正確には、存在はしている。

しかし量が足りない。


研究用。

鑑定用。

展示用。

人を救う量ではない。


しかも、この植物は単体では意味がない。

育った環境まで含めて薬効になる。


土壌。

湿度。

日照。

採取時期。


どれか一つ欠けても有効成分の比率が変わる。


再現不可。

温室では失敗。

水耕栽培でも成分比が崩れる。


過去の試験記録にも同じ結果が残っていた。

由梨は椅子に深く座り直した。


眠気はない。ただ、頭の奥が重い。

どうする。


論文を書くか。

製薬会社へ持ち込むか。


間に合わない。

今この瞬間にも患者は増えている。

病棟の人工呼吸器は埋まり始めている。

治験を組み、承認を待つ時間はない。


では、どうやって。

由梨は机の端を指で軽く叩いた。

思考を止めないための癖だった。

そこで一つの事実を思い出す。


この成分は、現代では存在しない扱いだ。

だが、昔は違う。

普通に使われていた。

薬草として。

煎じ薬として。

地方の療法として。

誰も特別視していなかった。

つまり、どこかにはまだ残っている。


由梨は画面を閉じ、目を閉じた。

思考を切り替える。

研究者の視点ではなく、現場の視点。流通。正規ルートはない。

なら、非正規。

個人保存。

研究者。

植物収集家。

伝統薬研究者。

古薬草を扱う民間療法家。

可能性はある。だが、さらに奥に別の考えが浮かぶ。


時代。


喉がわずかに鳴った。

その発想をすぐ否定しようとした。

あり得ない。

だが否定しきれない。

ウイルスが時代を越えてきたなら、成分も同じ場所に存在していておかしくない。


誰かが持っている、あるいは育てている。


由梨は立ち上がる。

医局に行こうとして解析室の扉の前までくる。


まだ誰にも言えない。

今話せば、この仮説は笑われる。

確信が足りない。


由梨は再び自席へ戻る。


ノートを開く。

手書きで整理する。


必要成分:特定済

現代での大量入手:不可

再現培養:不可

歴史的使用実績:あり


そこまで書いてペンが止まる。

少し考え、赤で書き足す。


入手経路:不明


さらに、その下へ一行だけ加える。

存在する場所は、分かっている

誰にも見せないための文字だった。


時計を見る。

朝五時を回っていた。

東の窓がわずかに青み始めている。

もうすぐ日が出る。


世界は何も変わらない顔で動き始める。

病院も。

人も。

報道も。

会議も。

だが由梨だけは知っている。


答えは出た。

足りないのは手段だけだ。

どうやってこの世界へ持ち込むか。

そこだけが空白だった。


由梨は静かにノートを閉じる。

この世界を救う鍵は、ここにはない。

その事実だけが、夜明けより先に由梨の中で形になっていた。

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