プロローグ 眠る三人
私たちの住む世界とは鏡合わせの世界
本日列島首都西京、西側には大きな海があり、東側にも海がある
その海の向こうに、鮮朝半島と呼ばれる場所があった
この物語の二つの世界は、どちらも現実によく似ている。
似ている、しかし同じではない。
鏡にをずらしてうつしたかのように微妙に異なる。
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春だった。
病理医・木暮由梨は、地下の研究室でようやく顔を上げた。
首も肩も重い。
肩甲骨から首筋まで固まっている。
頭痛や四十肩にならないのが不思議なくらいだ。
同じ姿勢で何時間いたのか分からない。集中すると時間の感覚が抜けるのは昔からだったが、最近はそれがさらにひどい。
モニターの端に表示された時刻だけが、時間が進んでいることを教えてくれる。
西京大学病院は、すでに限界を越えていた。
後に「新型ナルコラウイルス」、通称「ナルコラ」と呼ばれる新型感染症は、最初から容赦がなかった。
高熱。
急な咳。
その日のうちに呼吸が浅くなる。
肺だけで終わらない。
腎も肝も落ちる。
既存の抗ウイルス薬は効かず、人工呼吸器へ移る速度も異様に早い。
救急外来は常時満床だった。
ICUは拡張しても足りず、廊下には簡易ベッドが並ぶ。
白衣も手術着も、何日も同じままの者が増えていた。
使い捨ての防護具は不足し、同じマスクを何度も付け直す。
誰も着替えの回数を覚えていない。
地下にいても、上の忙しさは分かる。
搬送の足音。
遠くの呼び出し。
ストレッチャーの車輪が曲がる音。
それらが今日は妙に遠かった。
研究室だけが、別の場所のように静かだった。
由梨は視線を画面へ戻す。
「……おかしい」
小さく呟く。
ナルコラはRNAウイルスだった。
変異速度は速い。
それ自体は珍しくない。
だが、このウイルスには途中で不自然な飛びがある。
普通なら近縁種との連続が見えるはずだった。
それが途中で切れる。
まるで、別の場所から一部だけ差し込まれたように。
「近いものが……ない」
自然発生なら不自然だった。
人工的に作られた痕跡も見つからない。
どちらにも当てはまらない。
表面タンパク質の一部だけが妙に完成している。
そこだけ異様に整っていた。
由梨は参照範囲をさらに広げた。
通常なら比較対象にならない古い記録まで含める。
意味があるとは思えない。
それでも指が止まらなかった。
しばらくして、画面にひとつの年代が浮かぶ。
「……中世?」
ありえない。
数百年前だった。
医学も細菌学もない時代。
さらに表示された地域名で、由梨は思わず背筋を伸ばした。
鮮朝。
「そんなわけない」
すぐに否定する。
参照データの偏りだ。
偶然に決まっている。
だが、妙に気になる。
由梨は椅子に深く座り直し、解析を最初からやり直した。
同時に有効成分候補も開く。
増殖を抑えているものは確かにある。
完全ではない。
だが効いている。
一つずつ確認していくうち、手が止まった。
「……草?」
植物由来成分だった。
現代の標準薬理ではあまり見ない構造が混じっている。
偶然にしては偏りすぎていた。
しかも複数ある。
草由来ばかりが残る。
抽出条件を変えても似た傾向が出る。
説明できる既知薬理へきれいに落ちない。
理屈だけが少しずつ外れていく。
古い民間薬に近いのに、作用点だけが妙に鋭かった。
由梨は目を閉じた。
少し休むべきだと思った。
立ち上がると、身体が急に重くなる。
地下の廊下へ出ててみると、空気は冷えていた。
人の気配が少ない。
皆、それぞれの持ち場から動けないのだろう。
医局の扉を開けた瞬間、由梨は足を止めた。
徳永義秀がソファで眠っていた。
腕を組んだまま、深く沈むように眠っている。
向かいでは高蔵美奈が机に伏していた。
さらに奥、パーティションの陰に澤井紘範の姿もある。
三人とも眠っていた。
(今日も?この三人が同時に。。。。)
義秀は救命救急の中心だ。倒れる寸前まで動く。
美奈も呼ばれればすぐ速足で歩く。
紘範にいたっては、眠る姿そのものが珍しい。
それなのにここ最近、何度か同じことがある。
同じ時間に三人が同時に眠る。
そんなに長い時間ではない。十分か二十分ほどの短い時間の睡眠だ。
そして起きた後はスッキリした表情をしているが、妙に静かだった。
由梨は少し近づく。
義秀の呼吸は深く、肩も動かない。
救急の合間の仮眠ならもっと浅いはずだった。
美奈も穏やかだ。
額に力がない。
紘範はほとんど動かない。
胸の上下だけがかすかにある。
三人ともなんの異常もない。しかし、この眠りは何か遠い。
三人ともまるで、ここにはいないような眠り方だった。
医局にはほかにも横になる医師がいた。
簡易ベッド。
椅子。
床の毛布。
眠ること自体は珍しくない。
だが、この三人だけ表情が違う。
穏やかだ。
極限の病院でほとんど見ない種類の静けさだった。
義秀の指先がわずかに動く。
何かを握るような小さな動きだった。
だが目は覚めない。
由梨は思わず立ち止まった。
義秀は普段、仮眠でもこんな眠り方をしない。
呼ばれればすぐ起きるように、どこか浅く意識を残している。
だが今は違った。とても深く眠っている。
美奈も同じだった。
机に伏した腕の力が抜けきっている。
紘範にいたっては、眠っているというより静止しているように見える。
三人とも、同じ場所へ沈んでいるようだった。
偶然にしては妙だった。
「……やっぱり戻ろう」
休憩はやめた。
ここで眠る気になれない。
研究室へ戻る。
地下のモニターはまだ同じ画面を映している。
鮮朝。
古い一致。
草の成分。
そして眠る三人。
点だけが増える。
線にはならない。
それでも由梨は、もう何かが始まっている気がしていた。
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そのころ。
高蔵美奈は、深い青の中にいた。
息は苦しくない。
ただ、どこまでも沈んでいた。




