第五話「奪われた昨日」
とある雨の朝、咲は見知らぬ廃ビルの一室で目を覚ました。
天井はひび割れ、空気は埃と薬品の臭いが混じっている。思考が霞み、喉が異常に渇いていた。
ぼんやりと手を伸ばしたとき、壁際のモニターに自分の顔が映っていた。
――誰? 私……誰だっけ?
名前が、浮かばない。
目の前に置かれた机には、ポーチサイズの端末と銃がひとつ。CZ75――だと、体が勝手に認識する。だが、なぜそれを知っているのかは分からない。
記憶は欠落しているのに、体は戦い方を覚えている。
咲は、自分の内側にある矛盾に小さく息を呑んだ。
そのころ、鳴瀬詩音は単独で「咲の奪還」に向かっていた。
3時間前、彼女の前に現れたのは情報屋・如月結人ではなく、名もなき子供だった。
「この人、連れてかれたの。『神経デバイスの実験』って言ってたよ」
手渡された小さなメモには、東京都郊外の地図座標。地下医療施設跡。廃止されたはずの違法研究所だ。詩音は即座に荷物をまとめ、レミントンM700とP90を持って現場へ向かった。
「咲を奪ったなら……全力で奪い返す」
施設は静まり返っていた。地下に続く階段を降りると、異様な静けさの中に機械音が響いていた。
詩音は双眼鏡型スキャナで熱源を探知。
「警備、全員自律機。人間は一人……咲?」
スコープに映ったのは、銃を手に巡回する“咲”。しかし彼女の動きはぎこちなく、まるで指示されたままのルーチンをなぞっているようだった。
――記憶を操作されている。
詩音は息をのみ、CZ75に装填した非殺傷弾を確認した。
咲は、施設の通路を歩きながら、混乱と不安を抱えていた。
「私は誰? なぜ銃を扱えるの? なぜ、誰かを撃ってはいけない気がするの?」
すれ違った職員が「被験体C-01」と呼んだ。その言葉が胸の奥で強く引っかかる。
(“咲”って名前、私のものなの?)
そのとき――耳元のインカムが一瞬だけ“ざっ”とノイズを出した。
「咲……聞こえる?」
誰かの声。懐かしい声。
「……誰? 詩……音?」
身体が反応する。心が追いつかないのに、足は自然とその方向へ向かっていた。
地下最奥の実験室前。詩音が待ち伏せていた。
咲が現れる。銃を手にし、険しい目でこちらを見ている。
「そこから、一歩も動かないで」
「咲。私は、鳴瀬詩音。あなたの相棒。忘れたなら思い出させる。私たちは、Silent Trigger――」
「うるさい!」
咲が叫ぶように引き金を引く。
弾丸が詩音の肩をかすめた。
(本当に――記憶が飛んでる)
だが、咲の弾道は“殺さない”射線だった。どこかで、彼女の信念が生きている。
詩音はCZ75を抜き、ゴム弾を空中に一発撃った。
「じゃあ、思い出すまで殴り合いだよ」
二人の間に、無音の激突が起きた。
咲はCQCの体術で詩音の足元を取るが、詩音は後退しながら正確に関節を狙い、ゴム弾を撃ち込む。
弾は咲の肩を打ち、衝撃が走る。だが咲は怯まず、拳を振り抜く。詩音の脇腹に打撃が入る。
(この痛み……この戦い方……この距離……)
咲の中で、記憶ではない“何か”が騒ぎ出す。
ふと、詩音の目を見た瞬間、断片的に記憶が走馬灯のように脳裏をよぎる。
廃ビルでの初任務。裏切られた依頼。守った少年。
そして――あの日、夜の空の下で並んで見た、東京の光。
「……詩音……」
詩音が微笑んだ。咲の拳が止まった。
「おかえり」
その言葉に、咲は膝をついた。苦しげに頭を抱えながら。
「……記憶、戻った……戻りかけてる……でも、頭の奥がうるさい……」
詩音はそっと彼女の肩に手を置いた。
「大丈夫。戻りきるまで、私が横にいるから」
実験室では、脳神経改変のデバイスが今なお稼働していた。
詩音はそれを破壊し、研究員たちの記録を全て押収。咲の記憶を奪った者たちを、法と社会の闇へ流した。
咲は、無言でその光景を見ていた。
帰還後、咲は一つのノートに言葉を書きつけていた。
「私が私である理由。名前、過去、相棒。それが揃って“咲”という存在になる。
これをまた失ったら、その時は――思い出させて。あなただけに、頼む。」
詩音はその言葉を読み終え、少し微笑んで言った。
「失くしたら、また奪い返す。それが、私たちの仕事だからね」
咲もまた、静かにうなずいた。
そして、夜がまた始まる。
一度失われた“昨日”を、二人は取り戻した。
次は誰かの“明日”を――奪い返すために。