第二十話「日常のささやかな旋律」
丹波篠山に、ようやく穏やかな朝が訪れた。前夜の雨は上がり、山々には朝霧が立ち込め、まるで水墨画のような幻想的な風景を描き出している。バー『RETRIEVER』の二階にある住居スペースでは、いつもと変わらぬ朝の準備が始まっていた。
まず目を覚ますのは、鳴瀬詩音だ。彼女の朝は、規則正しく、そして静かだ。目覚まし時計が鳴る寸前に目を開け、ベッドから滑り降りる。そのまま洗面所へ向かい、丁寧に顔を洗い、歯を磨く。彼女の洗面台には、最低限のスキンケア用品と、正確に整頓された歯ブラシだけが置かれている。
朝食は、質素ながらも栄養バランスの取れたものだ。温かい緑茶を淹れ、トーストを一枚焼く。トースターのダイヤルは、いつも完璧な焼き加減を追求する詩音によって、ミリ単位で調整されている。パンが焼き上がるのを待つ間、彼女はスマートフォンで世界情勢のニュースをチェックする。彼女にとって、情報は命綱であり、どんな些細な出来事も見逃さない。
一方、咲の朝は、もっと自由奔放だ。詩音が朝食を終える頃、ようやく寝返りを打つ。目を覚ましたかと思えば、そのままベッドの上で簡単なストレッチを始める。
「んー、よく寝た……」
欠伸を一つした後、彼女は階下から漂ってくる珈琲の香りに誘われるように、ゆっくりと階段を降りていく。詩音が淹れたての珈琲と、作り置きのおにぎりを手に、咲はカウンター席に座った。
「詩音、今日も早起きだね。感心しちゃうよ」
「あなたの朝食の準備を待っていただけ」
詩音は平坦な声で答えるが、その手元には、咲のために用意された湯呑みがある。
咲は、自分のペースで朝食を済ませる。彼女が一番楽しみにしているのは、食後の読書だ。棚に並んだ文庫本の中から、その日の気分で一冊を選ぶ。選ぶのは、推理小説か、あるいは歴史小説が多い。彼女は、物語の世界に没入することで、裏社会の緊張感から解放されるひとときを過ごす。読み始めると、周囲の音など全く耳に入らない集中力は、任務中と変わらない。
午前中、三人の過ごし方はそれぞれ異なる。
詩音は、バーの地下にある秘密の作業室で、依頼で使用した銃器の手入れを行う。レミントンM700の分解、清掃、油塗り。彼女の手際の良い動きは、まるで熟練の職人のようだ。銃身にわずかな傷があれば、専用の研磨剤で丁寧に磨き上げ、弾倉のバネの強度まで細かくチェックする。P90やCZ75も同様に、部品の一つ一つを丹念に点検し、完璧な状態を保つ。彼女にとって、銃器は単なる道具ではなく、自らの手足の延長なのだ。
同時に、複数のモニターが並んだデスクでは、結人から送られてくる情報を解析する。依頼の背景、ターゲットの行動パターン、警備システムの脆弱性。膨大なデータを処理する詩音の表情は、常に冷静沈着だ。時折、彼女は無意識のうちに、耳元でインカムを触る仕草を見せる。それは、隣に咲がいない時でも、常に彼女の存在を感じているかのようだった。
一方、咲は、裏庭で体術の鍛錬に励む。
「ふっ!」
短い気合と共に、彼女の拳が空を裂く。CQC(近接格闘術)の基本動作を反復し、体の軸を鍛える。シャドウボクシングのように虚空に向かって打撃を繰り出し、その間合いとスピードを確認する。
次に、彼女は木製の道着を着て、合気道の受け身の練習を始める。柔らかい草の上に何度も体を投げ出し、その衝撃を吸収する感覚を体に覚え込ませる。彼女の体は、まるで猫のようにしなやかで、どんな体勢からでも瞬時に立ち上がることができる。
時折、近所の子供たちが咲の練習を好奇心旺盛な目で見ていた。咲は、子供たちに優しく微笑みかけ、簡単な手ほどきをすることもある。
「咲ちゃん、それ、かっこいいね!」
子供の一人が声をかけると、咲は少し照れたように笑う。
「ありがとう。でも、これは誰かを守るためのものなんだ」
彼女の厳しい表情が、この時だけは柔らかく緩むのだ。
結人は、バー『RETRIEVER』のカウンターで、常にノートPCと複数のスマートフォンを操っている。
「ふむ、この情報源は使えるな……」
彼は裏社会の情報網の要であり、世界中のあらゆる情報を瞬時に収集・分析する。キーボードを叩く指はまるで生き物のようで、モニターには意味不明なコードが高速で流れていく。
彼は根っからのインドア派で、外出することは滅多にない。彼の服装はいつもラフで、Tシャツにデニムが定番だ。だが、彼の眼鏡の奥の瞳は、常に鋭く光っている。
結人の趣味は、世界中の珍しい酒を集めることと、カクテルの研究だ。昼間は情報収集に明け暮れる彼だが、夜になるとバーテンダーとしての顔を持つ。シェイカーを振る姿は、昼間とは打って変わって楽しげだ。
「咲さん、詩音さん。今日の夕食は、僕が腕を振るいますよ。新しく手に入れた食材で、絶品のカクテルに合う料理を考案しました」
結人は、二人にとって頼れる情報源であり、同時に、このバーの温かい雰囲気を生み出す大切な存在でもあった。
夕食の時間は、三人が唯一、束の間の休息を得る時間だ。
結人が腕を振るった料理を囲み、今日の出来事や、他愛もない話をする。
「結人、このソース、どうやって作ったの?すっごく美味しい!」
咲が目を輝かせながら尋ねる。
「ふふ、企業秘密ですよ、咲さん。でも、今回は特別に、隠し味に地元産のハーブを使ってみました」
詩音は、静かにグラスを傾ける。彼女はあまり多くを語らないが、その表情からは、結人の料理を心から楽しんでいることが伝わってくる。
「詩音も、なんか言ったら?いつも黙ってて、つまんなくない?」
咲がそう尋ねると、詩音はグラスを置いて、ゆっくりと口を開いた。
「美味しいわ。結人の料理は、いつも完璧で、安心して食べられる。ありがとう」
詩音の素直な言葉に、結人は少し照れたように眼鏡を直した。
食後、結人が淹れた特別な珈琲を飲みながら、三人はそれぞれ思い思いの時間を過ごす。
咲は、取り寄せた漫画を読みながら笑い声をあげ、詩音は静かにチェス盤に向かい、駒を動かしている。結人は、カウンターでグラスを磨きながら、ジャズを小音量で流している。
「ねぇ、詩音。今度、私にチェスを教えてくれない?」
咲が漫画から顔を上げて言った。
「いいわ。でも、あなたは集中力が持たないでしょ?」
「そんなことないよ!私も、詩音みたいに、頭を使ってみたいんだもん!」
咲はそう言って、詩音の隣に座った。詩音は、そんな咲の言葉に、少しだけ口角を上げた。
夜が深まり、バーの営業時間が終わると、三人はそれぞれの部屋へと戻っていく。
咲は、ベッドサイドに置いた小説を読み進める。物語の登場人物たちの感情に寄り添い、彼女自身の心の奥底にある感情と向き合う。
詩音は、明日の作戦シミュレーションを頭の中で繰り返す。全てが完璧にいくように、何度も、何度も、手順を確認する。彼女の枕元には、常に小さなノートが置かれ、緊急時にはすぐに情報を書き込めるようになっている。
結人は、一人カウンターに残り、新しいカクテルのレシピを考案する。実験と試行錯誤を繰り返し、夜が明けるまで研究に没頭する日もある。
『奪還屋』としての彼らは、常に危険と隣り合わせだ。だが、このバー『RETRIEVER』という場所は、彼らにとって、唯一心安らげる「日常」の砦だった。
奪われたものを取り戻すために、今日もまた、彼らはそれぞれの場所で、ささやかな日常を紡いでいく。




